+CLOVER+
部屋を出る前、荷物の整理をしていると、彼女がその中の一つを手に取って尋ねてきた。
「ねぇアスター、これなに?」
銀色のコインのようなものに、赤い布地に金色のラインが入ったリボンが付いている。
「ああ、それは勲章だよ」
「くんしょう?」
それはかつて自分が王宮騎士団の隊長であった証だった。多くの敵を倒した功績の証。しかしそれは、同時に自分がそれだけの命を奪ってきたという証拠でもあった。
そんなちっぽけな飾り一つに、数え切れないくらいたくさんの命が詰まっている。
「大切なものなの?」
「そうだな……僕にとっての戒め、かな」
「いましめ?」
呂律の回らない舌で彼女は言った。
――そう、戒め。
それだけの命を背負って、僕は今、生きている。
「まいったなぁ……」
ため息混じりの青年の声が響く。
森の中、そこには大きな木の幹に寄り掛かって休憩する二人の姿があった。青年と小さな少女。二人は夏の暑い日に木陰に入って涼むように、木の下に並んで座っていた。
しかし今は夏ではない。そして日も出ていない。夜はそこまで迫っていた。
「まさかいきなり迷うとはなぁ」
そう言って青年はまたため息をついた。そして隣の少女に目をやる。少女は自分の置かれた状況を知ってか知らずか、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していた。
青年は思う。自分だけならいい。確かな剣の腕もあることだし、一晩くらいここで野宿したって構わない。しかし、こんな小さな、それも女の子を薄暗い森の中で寝泊りさせるわけにはいかないだろう。危険がどうのというより、そんな状況、少女にとってあまりに酷すぎる。もっとも、当の本人はそんなことなどまったく気にしていない様子だが。
「ねぇアスター。幸せの場所まであとどのくらい?」
「え?」
少女の突拍子もない言葉に、青年――アスターは驚いて振り向いた。しかし少女はいたって楽しそうな表情だ。
「幸せの場所、もうすぐそこ?」
しばらく呆然としたあと、アスターは困ったように笑って答えた。
「まだもうちょっとかかるんじゃないかなぁ。僕が知る限り、この辺りにはクローバーが言うような『幸せの場所』はなかったと思うから」
それを聞き、少女――クローバーはがっかりしたように「そっか」と呟く。そんなクローバーの様子を見ていると、別に自分が悪いわけでもないのに、なぜかひどく申し訳ない気分になってくる。
「……ねぇ、クローバーの言う幸せの場所ってどんな所?」
「え? ええと、ええとね」
アスターに尋ねられ、クローバーは真剣に考え出す。しばらく「ええと」を繰り返したあと、ようやく考えがまとまったのか、クローバーは答えた。
「みんなが幸せにくらしてる場所なの。みんななかよしで、いつも笑ってて、かなしいことなんてなんにもない場所。アスターがきらいな『せんそう』だってないんだよ」
そう言ってにっこりと笑う。アスターも釣られて笑ってしまったが、それはどこか寂しげな微笑みだった。
「そうか……。それは素敵な場所だね」
「うん! だからぜったい見つけようね」
「ああ、そうだね」
アスターはどこか遠くを眺めてそう答えた。
この『幸せの場所を探す旅』が始まって三日が経つ。その間にわかったことは、このクローバーという少女がとにかく純粋だということだった。彼女は疑うということを知らない。
そしてこれは記憶を失っているせいなのかもしれないが、この大陸に存在するロゼアとオーツ、二つの種族がなぜいがみ合っているのかもわからないようだった。片方の種族が味方で、もう片方の種族が敵だということがわからない。だから、戦争がどういうものかも理解できない。
このコルディア大陸で生きていくには、クローバーはあまりにも純粋すぎた。
アスターは思う。この『幸せの場所を探す旅』は、クローバーにとっては「幸せの場所なんてどこにもない」ということを思い知らされる旅になるだろう、と。幸せの場所を求めて旅をして、この世界の残酷さを突きつけられることになる。そうなっても彼女は、今と同じような笑顔で笑いかけてくれるだろうか。
どこかに本当に幸せの場所があるのでは――
そんな思いはアスターの中で日に日に薄れていっていた。
「……ター……アス……アスター?」
自分の名を呼ぶ声に気づき、アスターははっと我に返った。いつの間にか随分考え込んでいたらしい。辺りはさっきよりも暗闇が増していた。
「アスターどうしたの?」
そう言ってクローバーが心配そうに覗き込んでくる。アスターは慌てて答えた。
「ううん、なんでもないよ」
そして立ち上がり、辺りを見回す。
「随分暗くなってきたな……。そろそろ本当になんとかしないと」
「どうするの?」
「どこか泊まれるような所があればいいんだけど、その前にこの森を抜けないとどうにもならないな」
アスターの言葉に、クローバーもようやく事態を飲み込んだようだった。急に不安げな表情になってアスターを見上げる。その視線に気づき、アスターは笑って言った。
「大丈夫だよクローバー。ほら」
そう言ってクローバーに背を向けてしゃがむ。その行動の意味がわからず首を傾げているクローバーに、アスターはとんとん、と自分の背中を叩いてみせた。それでようやく理解したクローバーは、嬉しそうにその背中に飛びついた。
「よいしょっと……。クローバーは軽いな」
「うわぁ、たかーい!」
クローバーの淡い緑色の髪がアスターの頬に触れる。背中から聞こえてくる嬉しそうな声と、そこに感じる暖かい体温にふっと微笑み、アスターはまた森の中を歩き始めた。
クローバーがそれを見つけたのは、そうやって小一時間ほど森をさまよったあとだった。
「アスター、むこうにあかりが見えるよ?」
「え? こんな森の中に明かりなんて……」
そう言ってアスターはクローバーの言う方向に目をやる。
しかし言う通りだった。うっそうと茂る木々の隙間から、ほのかに光が漏れている。それは間違いなく人工の明かりだった。
アスターはクローバーを振り落とさない程度の早足でその明かりの方へと向かった。すると覆い茂っていた木々が途切れ、突然開けた場所に突き当たった。そしてそこにあったのは、
「……家?」
と言うには小さすぎるかもしれないが、それは確かに人が住んでいる気配のする小屋だった。
「よかったねアスター」
「ああ、本当に」
どうしてこんな森の中に一軒ぽつりと建っているのかは疑問だが、それよりも今は助かったという気持ちの方が大きい。アスターは迷わずその小屋のドアをノックした。
コンコン。
ややあって中から返事が返ってくる。どうやら声の主は女性のようだった。
「お帰りなさい! 今日はもう来ないのかと思ってました」
ドアが開かれ中から現れた人物がそう言った瞬間、アスターとその人物は同時に固まってしまった。お互い顔を見合わせたまま言葉を失う。アスターの背中にいるクローバー一人がダークグリーンの大きな瞳をきょとんと見開き、二人を見比べていた。
天の助けだと思った森の中の小屋。そこから現れた人物は、銀に近い水色の髪に、金色の瞳の持ち主。それは間違いなく、彼女がロゼアだという証だった。