十二月二十四日。
届けられたばかりの朝刊の日付にはそう書かれていた。
クリスマス・イブ。誰もが待ち望んだ日。日本中が浮かれている日。
しかしこの日が近づくに連れ、オレの心は憂鬱になっていった。二十四日を迎えた今の気分は最悪だ。
新聞の隅に小さな記事が載っていた。
『轢き逃げ事件、本日時効』
その見出しに本文が数行。
それを目にし、オレは嫌でも思い出す。五年前の今日のことを――
その日の夜、オレは自宅に向かって車を走らせていた。
民家もまばらで街灯も少ない細い道。けれどオレにとっては通り慣れた道だ。だから大して周りに注意など払っていなかった。第一、夜にこの道を歩いている奴などいるはずがないんだ。
けれどその日は違った。突然、十字路の角から小さな子供が飛び出してきたのだ。
とっさのことでブレーキを踏み遅れたオレは、その子供を跳ねた。
ドンっという鈍い衝撃音。真っ青になって車から飛び降りると、そこにはぐったりと横たわる少女の姿があった。
うつ伏せになってピクリとも動かない少女の周りに赤い血溜りが広がっていく。息をしていないことは明らかだった。
オレの思考がフル回転する。
目撃者はいない。子供も死んだ。オレが轢いたと証言できる者は一人もいない。
そしてオレは――逃げた。
次の日の新聞には早くもその事故の記事が書かれていた。
轢かれたのはあの近所に住んでいた十歳の少女。母親によれば、プレゼントを買ってくる約束をしていた父親の帰りが待ちきれず、様子を見に一人で家を出たらしい。
その矢先の轢き逃げ事故。即死だったという。
『聖夜の悲劇』などと見出しをつけられ、犯人は以前捜査中となっていた。
見つかるはずがない。
そう言い聞かせるように心の中で何度も繰り返す。
記事にも『目撃者はなし』となっていた。オレが犯人だなんてわかりっこない。それに急に飛び出してきたあの子供の方が悪いんだ。
――そう思い続けて五年。今日が終われば、オレはこの苦しみから解放される。
気分を落ち着かせようと煙草に手を伸ばす。しかし中身は空だった。部屋の中を見回すが、どうやらストックを切らしてしまったらしい。
仕方がない。オレは煙草を買いに出かけることにした。
「ありがとうございましたー」
煙草を三カートン買ってコンビニを出たオレは、真っ直ぐ家に帰るつもりだった。しかし人ごみの中を通るとどうしても視線が気になってしまう。周りにいる奴ら全員が、オレを狙っているかのように錯覚してしまうのだ。
オレは逃げるように裏路地へ入った。遠回りになるが、ここを通ればそう人目につかずに帰ることができる。
その途中、オレは一件の店の前で足を止めた。
初めて見る店だ。最近できたのだろうか。看板には「雅藍堂」と書かれていた。しかしこんな人通りの少ない所に店を構えたって、そうそう客は入らないように思える。
なぜかオレは惹かれるように店のドアを開いていた。
店の中は大して広くない上、そこら中に壷や置物が並べられているせいで異様に狭く感じられた。それにほこりっぽい。いわゆる骨董店というやつだろうか。
ドアベルが鳴ったが、誰も現れなければ声もしない。奥へ進んでいくと、木製の椅子の上に一匹の黒猫が丸まっていた。人が近づいた気配に気づき、体を起こす。右目が金色で、左目が水色をした奇妙な猫だった。
店の中にはやはり誰もいないようだ。無用心だが留守にでもしているのだろうか。
その時、ガラスケースの上に置かれている小さなベルに気がついた。クリスマスツリーのオーナメントのようで、手に取るとチリチリと鳴った。
オレはなぜか、無意識のうちにそのベルをポケットに忍ばせていた。その瞬間、黒猫が「にゃあ」と鳴き声を上げた。睨むような目つきでこちらを見ている。妙な感覚に捕らわれ、オレは逃げるようにその店をあとにした。
どうしてこんなものを盗ってきてしまったんだろう。自分でも理由がわからなかった。けれどあんな小さな店だ。どうせ監視カメラなどついていない。たかがオーナメント一つ、大した価値もないだろう。それにオレはすでに轢き逃げという罪を犯している。今さら盗みの一つや二つ、それに比べたら大したことではない。
オレは言いわけするように心の中でそう思った。
「トキ、見てたんだろ? なんで出てこなかったんだ」
「ん〜? あの人どうするのかなーって思って」
「ここの商品、一つ盗んでったよ。いいのかい?」
「いいわけないでしょ馨子さん。悪い子には、お仕置きしなきゃね」
店から出たオレは、とにかく早く家に帰ろうと早足で裏路地を進んでいった。そして曲がり角を曲がった瞬間、突然現れた小さな子供にぶつかった。
「――ッ! どこに目ぇつけてんだよ!」
尻餅をついた子供が顔を上げた瞬間、驚愕した。
見覚えのありすぎる顔。それは間違いなくオレが轢き殺したあの少女だった。
少女は無言でオレを見上げてくる。感情のない、冷たい視線。
「うわぁッ!?」
オレは慌てて逃げ出した。
落ち着け。あいつは五年前に死んだ。この世にいるはずがないんだ。きっとあれは他人の空似か何か。そうだ、そうに違いない。
混乱する頭を必死に押さえ込み、オレは家路を急いだ。裏路地を抜け、通り慣れた道に出る。
「――ひッ」
思わず息を呑んだ。
路地から出た先、道路の向こう側に、いたのだ。あいつが。さっきぶつかったばかりのあの少女が。
違う。これは何かの見間違いだ。あの事故のことを意識しすぎるあまり、ただの子供があいつのように見えてしまっているだけだ。
オレはそう自分を納得させ、あくまで平静を装った。しかし家に近づき再び人通りの少ない道に入った瞬間、愕然とする。
――いた。電柱の影に隠れるようにして、あいつは立っていたのだ。そして無言でオレを見つめてくる。
「やっ、やめろ……オレを見るなぁッ!!」
オレは無我夢中で走った。あいつの視線を振り払うかのように。しかしそれはいつまでもオレにつきまとった。どこまで行っても、どこまで行ってもあいつはいるのだ。オレの目の前に立っているのだ。そして冷たい視線をオレに向けてくるのだ。
「やめろーーーッ!!!」
そう叫んだ時、耳音でクラクションが鳴り響いた。はっとして振り返った瞬間、視界に入ってきたのは猛スピードでこちらに向かってくる大型トラック。それを認識したのと同時に、全身に衝撃が駆け抜けた。
オレは、宙を舞っていた。
天と地が逆転した視界の中、オレはこの場所が、かつてオレがあの少女を轢いた十字路であることに気がついた。
ドサッと地面に放り出される。身体が一ミリも動かない。不思議と痛みはなかった。
その時、ポケットに入れていたあのベルが、チリンと小さく鳴って地面に転がった。誰かがオレに歩み寄り、そのベルを拾う。視線だけを上に向けると、そこに立っていたのあの少女だった。あいつは、憎しみとも哀れみともつかない瞳でオレを見下ろしていた。
「……ぁ……」
声にならない声が漏れる。そしてゆっくりと瞬きをした、次の瞬間。オレは目を見開いた。
薄れ行く意識の中、オレが見たそこに立っていた人物は、あの少女――ではなく、見知らぬ男だった。最期に見たその男の顔は、まるで微笑んでいるかのようにも見えた。
男の唇がわずかに動き、言葉を紡ぐ。
「メリークリスマス」
FIN.