ぼくしか知らない
とうとうぼくもえらばれてしまった。
「日常生活に少し支障が出るかもしれませんね」
そんなことない。平気だよ。
「これだと黒板の文字も見えにくいでしょうし」
見えるよ。平気だってば!
「そうですね。必要な時にだけ、ということで」
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ!
「やはりメガネを作ったほうがいいでしょう」
うわあーーーーーッッッ!!!
心臓が、ひどくバクバク言っている。
「……ゆ、ゆめ……?」
ぼくは思わずあたりを見回した。
けっ飛ばされたかけぶとん、ノートが出しっぱなしになっている勉強机、寝る前に準備したランドセル。カーテンの向こうは明るかった。朝だ。
「よかった……」
ほおっ、と息をはきだす。
汗で前髪がおでこにぴったりくっついていた。あんな夢を見たんだから、とうぜんだ。今まで見た中でも、こわさベスト5に入る。前に見た、井戸から出てきた女のユーレイに追いかけられる夢の次くらいにこわかった。なんたって――
「ひっ!」
とつぜん目ざまし時計が鳴りだし、そこでまたぼくはおどろいて声をあげた。
七時。いけない、早くしないと学校に遅刻してしまう。
ぼくは急いで着がえると、ランドセルを持って階段をかけおりた。
「おはよう!」
ドアを開けると同時に言ったけれど、すぐにへんじはかえってこなかった。食事をするテーブルにすわっていたお母さんは、ゆっくりと顔をあげてぼくを見たあと、しばらくしてからようやく、
「……おはよう」
とつぶやくように言った。なんだかため息とほとんど変わらない声だった。
「朝ごはんは?」
「食パンがあるでしょう。自分で焼いて食べなさい」
「……うん」
ぼくは言われたとおり、食パンを一枚トースターにセットする。冷蔵庫から牛乳を出してコップにつぐと、それを持って席についた。
ここのところ、朝ごはんのメニューはいつも同じだ。お母さんはそれすら食べていないようだった。ねむたそうな目で、おもしろくもなさそうな朝のニュースをながめている。
「いってきます」
へんじのないまま、ぼくは家を出た。
最近のお母さんは、どこかヘンだ。
前までは、ごはんとおみそ汁のちゃんとした朝ごはんを毎朝作って、ぼくが二階からおりてくるのを待っていてくれた。ぼくがなかなかおりてこない時は、部屋まで起こしにやってきたりもした。それで、学校に行く時には、玄関でうるさいくらい忘れ物のチェックをするんだ。
なのに最近のお母さんは、話しかけてもなかなかへんじをしないし、いつもぼおっと考えこんでいる。家にいる時だって、前は少しはお化粧をしていたのに、今はそれもなくて、髪だってボサボサだ。
でも、ぼくはその理由を知っている。
お母さんは――――あやつられているんだ。
たぶん、気づいているのはぼくだけだ。
ほとんどの人は知らないだろうけど、地球にはたくさんの宇宙人、ちょっとむずかしく言うと、エイリアンがやってきている。そんなわけないって言う人も多いけど、あの人たちは、宇宙の広さと、そこにどれだけの星があるのかわかっていないんだ。UFOがやってきた証拠の写真や映像も、たくさんあるのに。
エイリアンがやってくる目的はもちろん、地球の侵略だ。
でも、やつらはUFOでいきなりアメリカをおそったりするようなバカじゃない。もっとこっそり、バレないようにやっている。少しずつ、少しずつ、人間を自分たちの仲間に引き入れているんだ。
ぼくの考えだと、人類の四分の一はすでにやつらの手に落ちている。
やつらの手口はわかっている。――メガネだ。メガネをバイカイにして、人間をセンノウしているんだ。
ぼくがそれに気がついたのは、一週間くらい前のこと。お母さんがおかしくなったのもそのころからだ。
ある日の朝、洗面所にいたお母さんが、とつぜん「あっ!」と大きな声をあげた。ぼくがおどろいてかけつけると、お母さんは水を出しっぱなしにした洗面台をじっとながめていた。「どうしたの?」とぼくがたずねても、「なんでもないのよ」と答えるだけ。そのあとしばらく大きなため息をなんどもついていた。
思えばあれが、お母さんがエイリアンとコンタクトした瞬間だったのだ。
その日、学校から帰ると、お母さんはメガネをかけていた。今までかけていなかったのに、とつぜんだ。ぼくやお父さんに冷たくなったのもそれからで、原因がメガネにあることはメイハクだった。
そう考えてみると、世の中にはメガネをかけている人(ぼくは『メガネ人間』と呼んでいる)が大勢いる。エイリアンにあやつられている人間だらけなのだ。
でも、それがだれかれかまわずではないことは、すぐにわかった。
やつら、エイリアンはやっぱりバカじゃない。人類の中でも、とくに頭のいい人間をえらんでいる。たとえばうちのクラスのメガネ人間だと、山口さんはどのテストでも毎回百点をとっているし、佐藤くんはぼくがタイトルすら読めないようなむずかしい本をいつも教室で読んでいる。
おどろいたのは、コッカイチュウケイという、国のえらい人が集まってする会議を見た時だ。あそこにいるのはメガネをかけた人たちばかりだった。つまり、日本はメガネ人間によって動かされているもどうぜん、ということだ。
思い当たるふしはほかにもある。
去年の夏休みに、お母さんの実家へ泊まりに行った時のことだ。ぼくはいちど、こっそりおじいちゃんのメガネをかけてみたことがあった。
今思えば、ぼくはなんておそろしいことをしようとしていたんだろう。メガネをかけた瞬間、目の前がぐにゃりとゆがんで、頭がガンガンいたみだした。一瞬だったけど、ぼくはセンノウされかけたのだ。
それを見たおじいちゃんは、ものすごく怒ってぼくからメガネをとりあげた。きっと、メガネの秘密に気づかれると思ってあせったにちがいない。
学年が変わるたびにやる視力検査は、やつらがメガネ人間にするターゲットをえらぶ方法だ。
あのわっかが欠けたおかしなマークは、見る人が見ると、もっと別な、たとえばやつらが使うふくざつな文字に見えたりするんだろう。とうぜん人間に読めるはずがないから、みんな決まって「わかりません」と言う。そして病院でもういちど検査をして(このお医者さんもメガネ人間だ)、ユウシュウなジンザイを、さらにセンベツするというわけだ。
もちろん、中にはえらくもかしこくもないのに、メガネをかけている人もいる。あれはカモフラージュだ。えらくて頭のいい人たちばかりをねらっていたら、すぐにバレてしまうからだ。
「――どうしたの?」
「わあっ!」
とつぜん話しかけられ、ぼくは思わず飛びあがった。すると、話しかけた野村先生もおどろいた顔をする。
「びっくりした。ごめんね、考えごとの邪魔をしちゃったかな?」
「う、ううん。そんなことないよ」
野村先生は、ぼくがいる三年二組の担任の先生だ。美人でやさしくて、生徒や先生からも人気がある。ぼくも好きだ。もちろん、メガネ人間なんかでもない。
「休み時間はいつも外へ遊びに行くのに、今日はずっと教室にいるから、どうしたのかなあと思って。最近あんまり元気がないみたいだし……。どこか具合でも悪い?」
そう言って、野村先生は心配そうにぼくの顔をのぞきこむ。ぼくが首をふると、先生は少し考えて、それからなにか思いついたように、にやっと笑った。
「わかった。この前の算数のテストでしょう。いつもより点数が悪かったから、お母さんに叱られたんじゃない?」
ぼくはまた首をふった。
「違う? じゃあなんだろう。悩みごとがあるなら、先生に相談して欲しいな」
「…………」
野村先生になら、話してもだいじょうぶかもしれない。ぼくの言うことを、きっと真剣に聞いてくれるだろう。でも……。
ぼくはなやんで、メガネ人間のことは言わずに、最近お母さんのようすがおかしいことだけを話した。先生は聞いているあいだ、なんどもうんうんとうなずいて、話が終わると「そっかあ」と答えた。
「それは心配だよね。お母さん、何か悩みごとがあるんじゃないかな。それは聞いてみた?」
「ううん」
「じゃあ、思いきって聞いてみたらどうかな。話してすっきりすることもあるだろうし、もし話してくれなかったら、お母さんだって大人だもの。きっと自分で解決できることなんだと思うよ」
野村先生は真剣に話を聞いてくれたけど、ぼくほど深刻には考えていないようだった。メガネ人間のことを知らないからとうぜんなんだけど……。
けれど先生の言うとおり、帰ったらお母さんに聞いてみようと思った。エイリアンとのつながりがバレたメガネ人間がどういう行動をとるかわからないけど、……それに、ちょっとこわいけど、でもお母さんをたすけるためだ。ぼくがなんとかしなければ。
その日、帰りの会が終わると、ぼくは一目散に教室を飛びだした。
「ただいま!」
きょうも「おかえりなさい」はかえってこなかった。もう何日聞いてないだろう。メガネ人間になる前のお母さんなら、おかえりのあとに、「手を洗いなさい」「うがいをしなさい」「宿題は出たの?」とつづくのに。
部屋にランドセルをおいて下にもどってくると、お母さんはソファーにすわって、やっぱりおもしろくもなさそうな昼のニュースをながめていた。
「お母さん」
ぼくが後ろから声をかけると、そこでようやく気づいたようにふりかえった。
「ああ……帰ったの」
「うん、さっき」
「そう」
それだけ言うと、お母さんはまたテレビのほうを向いてしまった。でも、きょうはちゃんと聞いてみるんだ。
「ねえ、お母さん」
へんじはなかったけど、ぼくはつづける。
「なんで、メガネ……なの?」
やっぱりへんじはない。まるで聞こえていないかのように、せなかを向けたままでいる。
「今までかけてなかったのに、どうして?」
「どうだっていいじゃない」
お母さんは前を向いたまま、つめたく一言そう言った。ちょっと怒ったような、でも本当にどうでもいいような、今までに聞いたことのない言いかただった。
やっぱり、メガネの秘密をかくそうとしているんだ。
きっとそれ以上聞いてもムダだろうから、ぼくは別の話に変えることにした。
「お父さん、きょうも帰りがおそいのかな」
最近、お父さんはあまり家に帰らない。泊りがけで仕事をしているからだと、お母さんは言っていた。いそがしくて大変なんだろうけど、おかげでぼくは相談もできなくてこまっている。お父さんならきっと力になってくれると思っていたのに。
「ねえ、お母さん。もしぼくが寝てるあいだにお父さんが帰ってきたら――」
「誰?」
「……え?」
一瞬、お母さんがなんて言ったのかわからなかった。
「誰? その人。そんな人いた?」
今度ははっきりと聞こえた。けれど頭の中がまっしろになって、ぼくはなにも答えることができなかった。
ぼくは棒のように立ちつくす。お母さんはだまったまま動かない。テレビのわざとらしいくらいにぎやかな音と声だけが、部屋の中にひびいていた。
けれど、それが急にぶつりととぎれた。
「冗談よ」
お母さんはリモコンをおいてぼくのわきを通りすぎると、そのまま部屋を出ていった。しばらくして、タンタンタン、と階段をのぼる足音がとどく。それを聞いて、ぼくはようやくわれにかえった。
……じょうだん?
そんなわけない。とてもそんなふうには聞こえなかった。お父さんに対して「だれ?」なんて、そんなのじょうだんにならない。
お母さんへのセンノウは、思った以上に進んでいるようだった。本当に早くどうにかしないと、このままではお母さんがお母さんでなくなってしまう。
けっきょくその日の夜、お父さんは帰ってこなかった。そしてぼくは、寝る前におそろしい光景を見てしまった。
廊下に出たお母さんがなかなかもどってこないと思っていたら、ずっとどこかへ電話をかけつづけていたのだ。しかも相手が出ないのか、それとも相手なんていないのか、受話器を耳に当てたまま、一言もしゃべらずにただ立っているだけだった。
――やつらのデンパを受けとっているんだ。
受話器の向こうがどこにつながっているかなんて、想像したくもなかった。
こうなったら野村先生にすべて打ち明けるしかない。
ぼくは次の日、そう決心して家を出た。けれど朝の会でやってきた先生の顔を見て、ぼくの心臓はこおりついたんだ。
「野村先生が急病で入院されたため、しばらくの間、このクラスを受け持つことになりました」
そう言ったのは、見たこともない男の先生だった。
みんないっせいにさわぎだし、「野村先生はだいじょうぶなんですか?」「急病ってなんですか?」と質問をはじめる。ぼくはひとり、体がふるえだしそうになるのをおさえるのに必死だった。
急病で入院なんてうそに決まっている。ぼくのせいだ。ぼくがきのう、お母さんのことを話してメガネの秘密を知りそうになったから、やつらが野村先生になにかしたんだ。それでなくてもあんないい先生、やつらが仲間にしようとしないはずがない。そしてぼくを監視するために、この男の先生を送りこんだんだ。
だってこの先生も――メガネ人間だったのだから。
これでもう、たよれるおとなはお父さんだけになってしまった。きょうも帰ってこなかったらどうしよう。早くしないとお母さんが……それにぼくだって、きっとそのうちメガネ人間にされてしまう。
「ただいま!」
ぼくは学校からもうダッシュで家に帰ると、ランドセルもおろさずにお母さんのいる部屋へ飛びこんだ。
お母さんはきのうとまったく同じで、ソファーにすわってテレビをながめていた。やっぱりへんじはないけど、今はもうそれどころではない。
「お母さん! きょうはお父さん――」
「ね」
最後まで言い終わらないうちに、お母さんにさえぎられてしまった。
お母さんはゆっくりとふりかえる。そこには、今まで見たこともないような笑顔がうかんでいた。
「ね、二人で暮らそうか」
とてもやさしい笑顔だった。でも、どうしてだろう。お母さんのその顔を見て、ぼくはまっさきに「こわい」と思ってしまった。
「お母さんと二人で。いや?」
「だ、だって、お父さんは……?」
「そんな人いいじゃない。この家とは別の所で、お母さんと二人で暮らすの。ね、いいでしょう」
お母さんの笑顔は一ミリもくずれずに、まるでお面のようにはりついていた。
――ちがう。こんなの、お母さんじゃない。
「やだ、やだ……そんなのぜったいやだ!!」
ぼくはさけぶと、ランドセルをせおったまま家を飛びだした。
ぼんやりと、窓の外を流れていく景色を見つめる。家やビルが、あっという間に通りすぎてゆく。
ガタン、と大きくゆさぶられ、ぼくははっとした。聞きおぼえのある駅の名前が放送される。ぼくは席を立つと、ドアのそばでおりる準備をした。
ひとりで電車に乗るのは、じつはこれがはじめてだった。でも切符の買いかたは知っているし、乗る場所も、おりる駅も、前になんどかお母さんといっしょに来たことがあったからちゃんとおぼえていた。一番の問題は切符代だったけど、ランドセルの中にないしょでかくしていた五百円玉でギリギリ足りた。これが、ソナエあればウレイなし、というやつだ。
駅から出ると、ぼくは記憶をたよりに大通りを歩きだした。
家を飛びだした時にはもう、ぼくがやるべきことは決まっていた。
いっこくも早くお母さんをたすける。でも、ぼくひとりの力ではムリだ。だからお父さんにすべてを話して、いっしょになんとかしてもらうしかない。
駅の時計は五時をすぎていた。いつもならもう仕事が終わっているだろうけど、最近はいそがしいらしいから、きょうもまだ会社に残っているはずだ。会社の場所は、駅からそんなに遠くないし、前に行ったことがあるからおぼえている。
だいじょうぶ、だいじょうぶ。きっときょうの夜には、ぜんぶもとどおりになる。
ぼくは心の中で、なんどもそうくりかえした。けれど――
「ない……ない……」
もうずいぶん駅の近くを歩き回っていた。目印にしていた床屋さんのカンバンが、いつまでたっても見つからないのだ。
「もしかして、なくなっちゃったのかな……」
ぼくはこまりはてた。こうしているうちにも、あたりはどんどん暗くなっていく。通りにはスーツを着た人たちが増えてきたけど、その中にお父さんのすがたはなかった。
早く、早くしなくちゃ。
そう思えば思うほど、どうすればいいのかわからなくなってしまう。ぼくはいちど深呼吸すると、気持ちを落ちつかせた。頭が少しだけすっきりする。そうだ、だれかに道を聞けばいいんだ。
交番の場所は……知らない。行ったとしても、こんな時間に小学生がひとりでいたら、おまわりさんに怒られてしまうかもしれない。通りを行く人たちはみんな早足で、とても話しかけられそうになかった。
ぼくはあたりを見回す。どこか入りやすそうなお店を見つけて、そこで聞こう。
居酒屋・カラオケ・宝石屋・大音量で曲を流している洋服屋・入り口が地下にあって、なんの店なのかわらかない店……。
子どもひとりでは入りにくそうなお店ばかりがつづいて、最後にようやくふつうのファミレスを見つけた。店の中にはお客さんがたくさんいて、みんなおいしそうにごはんを食べている。思わずぼくのおなかも鳴ってしまった。このごろの晩ごはんは、朝ごはんと同じでかんたんなものばかりだったから。
けれど、その時。
ガラスの向こうに小さな人影を見つけた。その瞬間、ぼくは飛びこむようにお店の中にかけこんでいた。「いらっしゃいませ」と言いかけた店員さんがおどろいていたけれど、かまわず奥の席へ走る。
「――お父さん!」
そうさけんだぼくに、店じゅうの人が注目した。みんなすぐに視線をもどしたけれど、目の前の人、お父さんだけはイスから立ちあがって、ぼくを見つめたままだった。
「おまえ、なんでここに……? 一人で来たのか?」
こんなにおどろいているお父さんの顔を見るのははじめてかもしれない。でも今はそんなこと、どうだってよかった。
「お父さん! お母さんが、お母さんが……!」
ぼくはお父さんにかけよると泣きだしてしまった。本当は家を飛びだした時から、ずっとガマンしていたんだ。
お父さんを見つけて安心したのと、お母さんがお母さんでなくなってしまったこわさと、いろいろがまざった自分でもよくわからないなみだ。三年生になったらもう泣かないと決めていたのに、かっこわるいとわかっていても、止めることはできなかった。
「お母さんをたすけてよ……!」
お父さんはしばらく、なにも言わずにだまっていた。ぼくは抱きついたまま、ただ泣いているしかできなかった。
それからずいぶん長い時間がたったように感じた。でも本当は、ほんの二、三分だったのかもしれない。
ぼくの頭を、お父さんがそっとなでる。そして、つぶやくように言った。
「ごめん、ごめんな。お父さんが悪かった」
わるいのはお父さんじゃない。お母さんをメガネ人間にしたエイリアンたちだ!
そう言おうとしたけれど、なみだが止まらなくてうまくしゃべれなかった。
「お母さんの所に帰ろう、な」
お父さんは少しだけ笑って、もういちどぼくの頭をなでた。すごくやさしいのに、どうしてか泣きだしそうにも見える、やっぱりはじめて見る笑顔だった。
けれど、その顔が急にキッと引きしまる。そして、ぼくではない、その向こうを見つめた。
「すまない」
一言だけ言って、お父さんは頭を下げた。
ぼくはそこで、お父さんの前に女の人がすわっていたことに気がついた。見たことのない、お母さんよりももっと若い、スーツを着た女の人だった。
女の人はその言葉を聞くと、悲しそうな顔をしてうつむいた。けれどすぐに席を立つと、そのまま何も言わずに店を出ていってしまった。その時、一瞬だけ女の人が泣いているように見えたけど、ぼくの見まちがいだったのかもしれない。だって、泣いているのはぼくで、なみだのせいでまわりがよく見えなかったのだから。
けっきょく、あの女の人がだれなのかはわからなかった。
それからぼくは、お父さんといっしょに家に帰った。
家の中はまっくらで、まるでだれもいないみたいだった。でもお母さんはちゃんといて、台所のテーブルにつっぷしていた。
「帰った」
お父さんが声をかけると、お母さんはゆっくりと顔を上げた。いっしょにもどってきたぼくとお父さんを見て、少しだけおどろいているふうだった。メガネはやっぱり、かけたままだ。
お母さんはなにも言わずに二階へあがってしまい、ぼくはお父さんとふたりで晩ごはんを食べた。それからおふろに入ると、ひどくねむくなった。きょうはいろいろなことがありすぎて、つかれていたんだと思う。
その日の夜、となりの部屋では、お父さんとお母さんが夜おそくまで話していたようだった。きっとお母さんのセンノウをとくため、お父さんが必死に説得してくれていたのだろう。
ベッドに入る前、ぼくはお父さんにたずねた。
「お母さん、だいじょうぶだよね?」
お父さんはにっこり笑うと、
「ああ、大丈夫だよ」
とうなずいてくれた。その言葉がすごくたのもしくて、ぼくは安心してねむることができた。
次の日の朝。
お母さんはまだメガネをかけたままだった。でも、前の日までとはちがっていた。おりてきたぼくを見て、「おはよう」と言ってくれたのだ。テーブルには作りたてのごはんとおみそ汁がならんでいて、そこにはお父さんもすわっていた。
ひさしぶりの、三人そろっての朝ごはん。
お父さんもお母さんもすっきりした表情で、お母さんのセンノウがとけたのだと、すぐにわかった。家を出る前に、あのうるさい忘れ物チェックをしてくれたのが、なによりの証拠だ。
そして、ぼくが学校からもどってくると――
「お母さん!? メガネは!?」
玄関で出むかえてくれたのは、なんと、メガネをかけていないお母さんだった。
「どうしたの!? なおったの!?」
「うん。コンタクトがね、直ったから。メガネはもういらないの」
「コンタクトからなおったの!?」
「そうよ。この前の朝、洗面所で……」
やっぱりあの時、やつらはお母さんにコンタクトしたんだ。それで、お母さんはメガネ人間にされて……。
でも、お父さんがもとのお母さんにもどしてくれた。センノウから完全に解放されたんだ!
「じゃあもうだいじょうぶなんだね!」
「え? ええ、もう大丈夫よ」
お母さんは少しおどろいた顔をして、それからやさしくほほえんだ。ぼくもうれしくて笑いかえす。しばらくにらめっこみたいに、でもふたりとも笑顔で見つめあっていたけど、お母さんの顔が急にふっとさみしげになった。
「……ごめんね」
そう言って、ぼくの頭に手をおく。
お父さんも、お母さんも、どうしてぼくにあやまるんだろう。わるいのはエイリアンなのに。
ふしぎに思って首をかしげると、お母さんはさみしそうな顔のまま笑った。その表情は、ファミレスで見たお父さんの顔によくにていた。すごくやさしいのに、泣きそうにも見える、なんて言ったらいいのかわからない笑顔。
でもその笑顔はすぐに、いつもの見なれた、メガネ人間になる前のお母さんの笑顔にもどった。
「今日の晩ごはん、なんだと思う?」
ぼくが答えるより先に、お母さんは言った。
「ハンバーグにオムライスにキャベツとベーコンのスープ。デザートはお母さん特製プリンよ」
「ぼくの好きなものばっかりだ!」
おどろくぼくを見て、お母さんは得意そうに笑った。
すごい、すごい。誕生日でもないのに、こんなごうかなメニューはじめてだ。きっとお母さんがもとにもどったおいわいなんだ!
「今日はお父さんも早く帰ってくるって。三人で一緒に食べようね」
「うん!」
ぼくは大きくうなずくと、二階への階段をかけあがった。うきうきしながら自分の部屋に飛びこむ。そのままおどりだしてしまいそうなくらいだ。
ランドセルをおろしていると、台所からお母さんの呼ぶ声が聞こえた。
「おやつがあるからすぐに降りてらっしゃい」
ぼくはさらにうれしくなった。
前までは毎日聞いていたのに、お母さんがメガネ人間になってからは、いちども聞いていなかった言葉。本当に本当に、お母さんはもとにもどったんだ!
「その前に、手を洗ってうがいをするのよ」
「うん!」
「宿題は出たの?」
「ううん!」
「本当に?」
「うん!」
「嘘をつく子はおやつ抜きよ」
「……漢字と本読み!」
エイリアンたちは、きょうも地球侵略をたくらんで、メガネ人間を増やしている。でも、ぼくの家族はだいじょうぶだ。もうにどとセンノウされることなんてない。
これは、ぼくだけが知っていること。
――そうだ。次は野村先生をたすけなきゃ。
FIN.