リアリストとロマンチストの帰り道



「あ、流れ星」
 ぼくが指差したときにはもう、わずかな軌跡も残っていなかった。
 一月の澄みきった夜空は黒よりもなお深く、オリオン座の三つ星が中央に居座っている。そのすぐ隣を、音もなく、葉の上を滑る雨粒のように落ちていった光。たった今、仲間の一つが命を終えたというのに、シリウスもベテルギウスもプロキオンも、表情一つ変えていなかった。
 並んで歩いている人物もまた、そんな無感動な手合いの一人だ。
「それで?」
 今頃になって顔を上げた星野は、見逃したことをさして惜しむ様子もなく言った。
「だからどうしたというの?」
「いや……いいもの見たなと思って」
「いいもの?」
 星野は唐突に足を止めると、心外極まりない表情でぼくを見た。
「あなたって変わってるわね。ちりが燃え尽きる光景がいいものだなんて、あたしには到底思えないわ。なんだったら三学期の掃除当番、代わってあげましょうか。焼却炉へごみ出しに行ったら、さぞかし感激すると思うわよ」
 白い息と一緒に毒を吐き出しながら、ひと継ぎでそこまで言い上げる。苦虫を噛み潰したようなぼくを一瞥すると、星野は再び歩きだした。
「それとは全然違うだろうよ……」
 ぼくは聞こえないようにぼやいてから、少し前を行く背中を追った。
 中学三年の冬休みは多忙だ。三箇日もそこそこに、塾の授業は再開された。学校こそないものの、毎日のように制服に袖を通し、朝から晩まで受験勉強に勤しんでいる。
 学校でも塾でも同じクラスの星野とは、家が同じ方向ということもあり、こうして帰り道を共にするのが常だった。そこで幾度となく彼女に向けた言葉を、今日もまた口にすることとなる。
「ロマンの欠片もないな」
 対する星野の反応も、それはそれはいつもどおりのものだった。
「落ちてきたら屋根を突き破り地面をえぐる石ころの、いったいどこにロマンがあるというの? 星、という言い方がまずいのだと思うわ。隕石と言い換えたらどう? ロマンを感じる? 当たれば人が死ぬかもしれないのよ。果たしてその人の葬儀に参列して、『ロマンチックな死にざまでしたね』なんて遺族に言えるものかしら」
「……でも、星ってロマンチックだろ? あの光は、何百年も前の光なんだぜ。つまりぼくたちは過去を見てるんだ。もしかしたら、今はもう存在しない星なのかもしれない。そう考えると、」
「親戚の披露宴のビデオのなんと感動的なことか。他人の子供の成長ビデオなんて、見ているだけで目頭が熱くなってしまう。つくづく変わってる人だわ、あなた」
「なんでよりにもよってそういうのを引き合いに出すかなあ……!」
 ぼくは頭をかきむしった。
 なにか一つ言えば、すかさず揚げ足を取った例えを畳みかけてくる。親戚の披露宴に、他人の子供の成長ビデオだなんて、見せられてつまらないものの横綱級だ。確かにどちらも過去の光景ではあるが、そんなものと星の光を同列に挙げる神経が理解できない。
 ぼくは一度、肺の中身を空にすると、新鮮な空気を送りこんだ。冷えきった外気は、吹き飛びかけていた冷静さをすぐに連れ戻してきてくれた。
「おまえはほんとにロマンのないやつだよ。星野 夢子の名が泣いてるぞ」
 そんな皮肉がこたえるはずもなく、星野はむしろ堂々たる態度で答えた。
「あら、あたしは名に恥じぬ生き方をしているつもりよ」
「『夢』のない『子』?」
「『夢』に逃げず現実に立ち向かう『子』」
「……そうかい」
 つんと澄ました横顔は、なるほど現実に生きる少女である。
 星野のこの性格を知ったときは、これほどまでに不釣合いな名前があったものかと、逆に感心するくらいだった。ひと昔前の少女漫画にでも出てきそうなネーミングだが、その響きから連想させる夢見がちな少女像は、まるでない。あるのはとことん現実主義な思考と、そこから生み出される棘を生やした言葉だけだ。
 ただし、決して名前負けはしていなかった。その容姿は、本名から抱く期待を裏切ることはないだろう。
 うっかり毒林檎を食べてしまった無用心なお姫様に対する描写を思い出してほしい。そこに少しきつめの切れ長の瞳を付け加えてもらえば、それで星野の完成である。
 ところであのお姫様は、一般的にはショートカットだったかロングヘアーだったか――ちなみに星野は後者だ。白線の手前に立ち止まると、腰ほどまである長い黒髪を揺らし、右を見て、左を見て、それからもう一度右を見た。
 通りの信号機は、すでに黄色の点滅に変わっている。彼女にかかれば、この道路交通法に則った味気ない光も、目を奪われるほどの満天の星の輝きも、たいした違いはないのだろう。しいて挙げるとすれば、人工か否かといったところか。
 いつもならここでさよならだった。しかし、その日のぼくは気まぐれで申し出た。
「家まで送ってくよ」
「あら珍しい。夕食をご馳走する約束はしていなかったはずだけど?」
 星野は嫌であればばっさりと拒絶する人間だ。その代わり、素直にイエスと言うこともない。つまりは、これは承諾の意だった。
 ぼくたちは再び並んで歩きだした。横断歩道を渡り、細い脇道にそれると、途端に辺りの暗さが増す。両側に続く塀の向こうには、まだ明かりのついている家もあれば、すでに寝静まっている家もある。街灯のほとんどない夜道に、星野が着ているアイボリー色のダッフルコートだけが浮かんで見えた。
 一歩踏み出すたびに揺れるそのフードを横目で眺めながら、ぼくは尋ねた。
「なあ」
「なあに」
「いつか訊こうと思ってたんだけど」
「なら今でなくてもいいわね」
「……訂正。今この瞬間に訊きたくて仕方ないんだけど」
 それなら文句はないらしく、星野は異論を唱えなかった。
「おまえがそんなふうになったのには、なにかきっかけみたいなものがあったんじゃないのか?」
 星野はこちらを向き、わずかに首を傾けた。表情こそ見えないものの、その仕草で意図は伝わる。どうやら質問の意味が呑みこめていないようだった。
「もうすぐ高校生って歳で、自分は異世界の姫だとか、いつか月から迎えが来るだとか信じていられても困るが、それにしたって、おまえの夢のなさは異常だよ。なにか原因があるとしか思えん」
「原因ね」
 星野は呟くと、ごくごくつまらなそうに短く嘆息した。それから前を向き、そっけない口調で言う。
「あたしだって、生まれたときからこうだったわけじゃないわ。昔はぬいぐるみとおしゃべりしていたし、ほかの人には見えない妖精さんともお友達だった」
「それはそれでアレな子供だな……」
 想像がつかないというか、想像したくなかった。
「サンタクロースの存在だって信じてたわ」
 それはもう、定番中の定番だろう。
 そんな夢溢れるものの代表格でさえ、星野の口から出れば、ことのほか新鮮に響いた。このリアルのかたまりに等しい少女にも、かわいらしい子供時代は存在していたらしい。それが、どこかを境に一転してしまったのだ。
 ぼくはその理由が語られるのを待った。しかし、待てども待てどもその先に続く言葉はない。回答は以上、とでもいうかのように、星野はそれきり黙りこんでしまった。
「……それで?」
 顔色を探るように、ぼくは先を促した。星野は二度目のため息を漏らす。
「サンタクロースは、毎年あたしのところに来てくれたわ。あたしがどんなに遅くまで起きていても姿を見せず、なのに二十五日の朝になれば、いつの間にか枕元にプレゼントが置かれているの。中身はもちろん、あたしが一番欲しいと思っていたものよ。それはもう優秀な仕事ぶりだったわ」
 まさに幸せな家庭図だ。
 そう思いながら耳を傾けていたのは、その接続詞が出てくるまでたった。
「でも――」
 星野はまた口を閉ざす。けれど、今度は続きを催促する必要はなかった。枝を離れた葉が地面にたどり着くほどの間をおいて、星野はみずから再開させた。
「ある年、サンタクロースはやってこなかった。あたしは母に尋ねたわ。あたしが悪い子だから来てくれなかったの、ってね。母は首を振った。そうじゃない、夢ちゃんが悪いんじゃない。でも、サンタさんはもううちには来てくれないのよ。……そのとおりだった。その年から、クリスマスプレゼントは母から渡されるようになって、二度とあたしのところにサンタクロースが来ることはなかったわ」
 いつもはまっすぐ前を見据えている星野が、そのときばかりはかすかにうつむいていた。
 彼女が語る内容は、ぼくが予想していたものとは意を異にしていた。どこか抽象的で、はっきりとした部分が掴めない話ではあったが、それが哀しい思い出であることだけはいたく伝わってきた。
「あたしが尋ねたとき、母は泣いていた。気丈な母が涙を見せる理由を、あたしは一つしか知らなかった。だから、そのとき悟ったの。……サンタクロースの正体をね」
 その言葉で、ぼくはすべてを理解し、同時に後悔した。
 サンタクロースの正体は、歳を重ねれば誰しも知ることになるだろう、両親だ。星野の場合は父親であった。それが、ある年を節目にぷつりと現れなくなる。その理由は、彼女の話に父親がまったく登場しないことが、なにより如実に物語っていた。
 つまり、星野の父親は――
 触れるべきことではなかった。軽はずみに訊いてしまった浅はかな自分を責める。けれど、星野はそんなぼくの心を見透かしたのか、おどけているようにも聞こえる口調で続けた。
「それだけじゃないんだから。天使や人魚なんて存在しないことも、虹の根元に宝が埋まっていないことも、涙が心の汗でないことも、全部全部理解したわ。そして、両目から電解質を含んだ水分を一晩中流して、あたしは生まれ変わったの。『夢』見る女の『子』から、『夢』に逃げず現実に立ち向かう『子』に、ね」
 そのときにはもう、星野は顔を上げていた。暗がりでその表情はよく見えない。路地の先にある街灯が、不規則な明滅を繰り返していたが、その明かりはここまで届かなかった。
 もしかしたら、虚勢を張っているのがまるわかりの顔つきだったのかもしれない。けれど、少なくとも、口ぶりだけはいつもの調子に戻っていた。だからぼくもそうしろということなのだろう。
「……なるほどな」
 とはいえ、すぐには気の利いた言いまわしが浮かばず、ぼくはそんな相槌を打つことしかできなかった。
「これであなたの疑問が払われたのならよかったわ」
 星野はそう返す。ぼくは返せない。会話はそこで途切れてしまった。
 あまり居心地のよくない沈黙が続く。その間を埋めるかのように、どこからかにぎやかなテレビの音声が聞こえてきたが、かえってよそよそしく響くだけだった。
 ひどく時間を長く感じる。知らず知らずのうちに、ぼくの視線は逃げるように空へ向けられていた。これが現実から目をそらすというやつなのだろうか。そういえば、星野が空を見上げている姿は記憶にない。改めて彼女の強さを感じた気がした。
 沈黙を破ったのは、無機質な着信音だった。
 おそらく、購入時から設定を変えていないのであろう、味もそっけもない連続した音。もちろん発信源は星野の携帯電話だ。ぼくのは、ほんとの勇気を見せたらロマンティックが貰える着メロだから。
 星野はコートのポケットから携帯を取り出すと、ボタンを二、三度押して画面を見つめた。ディスプレイのバックライトは、ここではなにより明るさを持っている。ぼんやりと浮かび上がった星野の横顔は、十秒も経たないうちに、また暗闇に溶けこんでしまった。
「申し訳ないのだけど」
 星野はまったく申し訳なくなさそうに言った。
「送ってくれるのはここまでで結構よ」
「なんだよ急に。さっきのメールか?」
「ひとのメール内容を推測するなんて無粋ね」
「ひとの好意を理由も告げず断るのも無粋だな」
「…………」
「…………」
 両者無言。星野は正面を、ぼくは空を見つめていたが、心の中では互いに睨み合っていた。歩幅の違う二人分の足音だけが路面を鳴らす。
 局地的な冷戦は、それから家を二軒ほど通り越して終結した。
「家族の醜態は、誰しも世間の目に触れてはほしくないものよ」
 停戦の申しこみは、意外にも星野からだった。
「なんだよそりゃ」
「お母さんは、誠実な人と結婚したはずだったのよ」
「うん?」
「でもね、やはりその人の本質というのは、二十四時間生活を共にするようになって、初めてわかるものだそうよ」
「つまり?」
「わからない人ね。今帰ると、鍵の掛かった玄関の前に、酔っ払いが一人、閉め出されて情けない姿を晒してるって言っているのよ」
「ああ」
 それでようやく理解した。
「遅くまで飲んでた親父さんが、家に入れてもらえなくて困ってるんだな。……って、あれ? だって、おまえの父さんは……」
「え?」
「あ……ああ、二人めの」
 デリカシーのない発言をしてしまい、ぼくは慌てて語尾を濁した。しかし、星野は訝しげに首をひねる。
「酒好きで女好きでそれが原因で追い出されて危うく離婚の瀬戸際にまで瀕したけれど、それでもあたしにとって父と呼べるのは、あの人一人きりよ」
「…………あれ?」
 なにかぼくは、重大な勘違いを犯していたようだった。
「送ってくれてありがとう」
 星野は歩みを止め、ぼくに向き直った。そばに立つ街灯は、ついに力尽きたのか生命活動を止めてしまい、いよいよその表情はうかがえない。ただ、星野側からもぼくの顔は見えないわけで、口を半開きにしたまぬけ面を見られずに済んだのは幸いだった。
「今日はここでお引取り願うけど今度は本当に夕食をご馳走してあげてもいいわ気が向いたらだけど」
 早口で、ろくに息継ぎもせず、星野は告げた。
「それじゃ、また明日」
 手も振らず、頭も下げず、もちろんぼくの返事も待たず、星野はなんの感慨もなく去っていった。一度背を向けると、それから二度とこちらを振り返ることはなく、雪うさぎのようなコートも、やがて暗路に紛れてしまった。
 これはぼくの気のせいかもしれないが、心なしか、別れ際の星野がきまり悪い様子に見えた。いつにも増して足早で、一刻も早くこの場から立ち去りたい、とでもいうような。
 もしかして、自身の意外な子供時代に加え、父親の不祥事まで話してしまったことを気恥ずかしく思ったのだろうか。ぼくの思い過ごしである可能性のほうが強いが、もし本当にそうだったとしたら、それはちょっとばかり微笑ましかった。
 ぼくは本人がいないのをいいことに、くすりと笑みをこぼすと、再び来た道を引き返した。
 なにげなく見上げた夜空は、寒さが深まり、よりいっそう澄み渡っている。塗りつぶした黒だと思っていたその色は、二十四色の色鉛筆の何番めにもない色だと気づく。ヒアデス星団の辺りは、もやの中を舞うカラスの羽のようだし、双子の兄弟星のあいだは、磨き上げたインディコライトのようだ。
「あ、流れ星」
 ほんの少し西に移動したオリオン座の隣を、一筋の光が駆けていった。またたく間に消えたそのきらめきは、たぶん、今度も彼女の目に入ることはなかっただろう。同じ日に、二度も流れ星を見ることができた素晴らしさ、貴重さ、ある種の奇跡。そのどれを熱っぽく説いたところで、返ってくる返事は一言、「それで?」だ。
 それでもまあいいかと思う。
 彼女が見ないものはぼくが見ればいいし、ぼくが見ないものは彼女が見ればいい。そうしてぼくは、今日もこうやって空を眺めて歩いてゆける。どんなによそ見をしていても、まっすぐ前を向いた星野が引っぱっていってくれるから。
 現実主義の彼女には、他力本願と鼻で笑われるかもしれないが、ぼくは、流れ星に願いをかけた。
 ――願わくは、近いうちに彼女の気が向きますように。

FIN.



 ■感想などありましたら…無記名でも結構です。お返事はレス用日記にて。

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