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夜に一月蝿がやってきて



 大学受験を控えた冬休み。
 新年早々、自室で勉強に励んでいると、夜の十二時をまわった頃だろうか。俺は、季節外れの一匹のハエを見つけた。
 それは今にも途切れてしまいそうな弱々しい羽音を立て、天井近くを飛んでいた。寒さで弱っているのだろう。カーテンにとまろうとしたのだが、掴みきれず、ころりとベッドの上に落ちてしまった。なんとも哀れなさまである。
 いったいどこから入りこんだのだろう。
 俺は首をひねりながらも、手近にあった大学ノートを持って椅子から立ち上がった。抜き足差し足で忍び寄りつつ、手の内のノートを筒状に丸める。
 このまま放っておいても、そう長くないうちに息絶えるのは目に見えている。しかし、徐々に体力を奪われていく苦しみを味わうくらいなら、いっそこの手で楽にしてやるのが情けというものだろう。これは介錯だ。ある種の尊厳死だ。
 ぶっちゃけた話、ひとの寝床を終の住処にしてほしくないんだよね、という本音を建前で隠しつつ、俺はベッドを見下ろした。
 水色の掛け布団の上に、インクを一滴落としたような黒い点。短角亜目の昆虫は、親指の爪ほどの体を時折スイッチが入ったように震わせていた。
 その姿を十秒ほど眺めてみたが、俺の情は特に移りもしなければ、ほだされもしなかった。代わりに、ノートですくい上げて窓から放る、という案が一瞬浮かんだものの、それもすぐに消えてしまった。外に逃がしたとしても、この寒空の下、それはやはり死と同義だろう。だいいち、バシ、ポイのごみ箱行きコースと、ヒョイ、カチャン、ガラガラ、ポイ、ガラガラ、カチャンの外行きコースでは、どう考えても後者のほうが手間だったからだ。それに冷気が入りこんで俺が寒い。
 つまりそのときのハエの命は、俺にとっては部屋の温度一、二度分よりも軽かったということだ。人間、そんなものだと思う。
 さて、無駄に長く考えこんでしまった。
 俺はノートを握り直し、頭の位置までそれを掲げた。
 ――成敗!


 結論からいうと、それは失敗に終わった。
 距離にしてあと三センチ、時間にしてあとコンマ五秒というところで、横槍が入ったせいだ。いや、横槍という表現は正確ではない。しかし、その瞬間の俺は、それが第三者のものだと思ったため、あくまでそのときにおいては「横槍」だった。
「まあ待て」
 という声が、俺の手を止めたのである。
 低く、すごみのある、それなりに歳のいった男の声。頭の中に直接響いてくるようだった。
 俺は辺りを見まわすが、当然のことながら部屋には俺一人しかいない。
「こっちだ馬鹿者」
 まさかと思った。それだけはないだろうと。
「我は全知にして全能の存在。我に知らぬもの、見通せぬものは何もない。もしここで我を見逃すというのなら――人間。おまえの望む知識を一つだけ与えてやろう」
 つまるところ、ハエは俺に命乞いをしてきた。


 その後の俺の驚きようは、四百字詰め原稿用紙二十枚分あっても書き尽くすことはできないため、ここでは割愛させていただく。飛びのいた拍子にスチールラックを横倒し、CDやMDを散乱させたあげく、ケースを踏んづけてひびが入るどころか粉砕してしまった惨状、といえば、だいたいの様子が伝わるだろう。いったい何事かと飛び起きた両親が駆けこんできたことも付け加えておく。
 二十一世紀を生きる現代っ子は、科学的・物理的に可能なこととそうでないことを判別できる、現実的な目を持っているのだ。しかし、あらゆる環境に適応する順応力もまた、持ち合わせていた。
「望む知識を一つねぇ……」
 俺は床に散らばったプラスチックの破片を拾い集めながら呟いた。
「普通は『望みをなんでも』ってのが相場なんじゃないのか? それも一つじゃなく三つまで」
「それはおまえたちが勝手に作り上げた創作世界の中での話であろう。人間風情が文句を言うでない。ありがたく従えばよいのだ」
「なっまいきなハエだなぁ……。潰すぞ」
 再びノートを構え、ベッドに迫る。ハエは焦ったように小さな羽をばたつかせた。どうやらもう飛ぶ力さえ残っていないようだ。
「待て、待てというに。今我をあやめれば、たった一つの願いすら叶わずじまいになるのだぞ」
「……それもそうだな」
 黒くみじめな体をしばらく睨んで思い直すと、俺は挙げかけた腕を下ろした。ほっとした様子で、これだから人間は気が短くてかなわん、とハエが零す。
 ……まあいい。願いを叶える存在というのは、往々にして尊大なものなのだ。
「要は知りたいことをなんでも一つ教えてやるってことか」
「そうだ」
 ふうむ。
 俺は先ほどのはずみで切ってしまった足の裏を手当てしながら考えた。
「ところでさ。今さらだけど、そんなことできるおまえはただのハエじゃないんだろ。いったい何者なんだ?」
「それが我への要求か?」
「へ? いや違う違う」
「ならば余計な詮索はするでない」
 なかなか厄介なサービスだった。これではうかつに質問もできない。
 たった一度のチャンスを棒に振るのも馬鹿らしいので、俺は無駄口を叩かずに、おとなしくハエへの要求を考えることにした。
 正直、このハエが本当に願いを叶えてくれるのか、いまだに半信半疑であったため、できれば最初は小手調べ程度のものにしておきたかった。たとえば、今どうしても解けずにいる数学の問題の答えとか。
 しかし、叶えてくれる回数は、セオリーどおり三つではなく一つきり。たかだか解答を見ればわかるような願いに、その貴重な一つを費やしてしまうなんて、それもやはり馬鹿らしい。
 一発勝負。ここはどかんと本命をぶつけなければ。
 俺は倒れたままのラックを立て直しながらさらに思考を重ねた。
「言い忘れていたが」
 それを遮るハエ。
「なんでも、とは言ったが、現段階で物理的に人間が知りえないことは不可能だ」
「というと?」
「この時間軸に存在していない物事――平たく言えば、未来の出来事だ。将来の結婚相手や、宝くじの当選番号といった類だな。おまえが受ける大学入試の答案というのも不可能だぞ。規則で禁じられているのだ」
 そりゃいったいなんの規則だ、とは訊けなかった。それで答えられて、はいおしまい、ではたまらない。俺は疑問をぐっとこらえた。
 ハエが例として挙げた項目は、じつは俺も一瞬考えたことだった。しかし、未来を知った人間は、破滅への道を進むのがお約束だ。偉大なる先人たちの身を挺した教えを無為にはできない。素直に従うべきだろう。
 俺は割れたCDケースをテープで修繕しながら深く考慮した。
 未来がだめなら過去はどうだ。今なお解明されず、人々が追い求めてやまないこと――
 邪馬台国の場所、明智光秀謀反の真相、それとも坂本竜馬暗殺の犯人は? ……本当にそんなことが知りたいのか、俺。一時間前までやっていた日本史の問題集が尾を引いているらしい。
 だが、過去という目のつけどころは悪くないように思える。犯人は犯人でも、未解決事件の犯人というのはどうだ。
 切り裂きジャック事件、三億円強奪事件、近年のものでは栃木の女児殺害事件が記憶に新しい。その真犯人を知って……どうするつもりなんだ、俺。自分で捕まえるのか? 警察に通報するのか? 目撃情報ならともかく、いきなり犯人を名指しする高校生なんて、誰が取り合ってくれるというのだろう。最悪、事件の関係者と疑われかねない。それに、切り裂きジャックって。犯人がわかったところで、今頃墓の下だろう。夕食後に見ていた超能力捜査の特番が尾を引いているらしい。
 だめだ。
 俺はアーティスト順にCDを並べていた手を止めかぶりを振った。
 どうもスケールが壮大になりすぎる。自覚はないが、なんでも教えてやると言われて興奮しているのかもしれない。もっと身近な範囲で考えるんだ。思いっきり利己的な要求でも、誰からも文句を言われることはないだろう。
 一度大きく深呼吸すると、頭の中がすっきりした気がした。
 そうだ。卒業式に告白しようと密かに目論んでいた相手、クラスメイトの藤原。彼女に彼氏がいるか――いや、彼女の好きな人は誰か。これはどうだろう。事前にわかっていれば、わざわざ旅立ちの門出にブロークンハートせずに済む。
「よし、決めたぜハエ」
「うむ。言ってみるがよい」
「藤原のす――」
 言いかけて俺はフリーズした。
 ジャストアモーメント。確かにそれは現時点でものすごく知りたいことではあるが、自分で知ろうと思えば決してミッションインポッシブルではない。それをわざわざこのハエから聞き出すなんて、彼女のフレンドに、「なあ、おまえさりげなく藤原に好きな奴いるか訊いてくんね?」と頼みごとをするようなレヴェルである。玉砕覚悟で告白するのが怖いという、俺のチキンハートが生み出したとんだネガティヴウィッシュだ。
「Nothing.(なんでもない)」
 俺はクールにキャンセルした。発音もばっちりネイティヴだ。勉強の息抜きにやっていたDSえいご漬けが尾を引いているらしい。
 俺はアイドル歌手のアルバムジャケットに目を奪われつつ再び考え直した。
 どうせなら、自分では絶対に知りえないことを頼むべきだ。どうしたって知りようのないこと。それでいて、
「自分が知りたくてやまないこと」
 心の声を継いだのは、いつの間にかベッドの上を移動していたハエだった。
「うおっ! なんだよおまえ、ひとの頭ん中が読めるのか?」
「ふん。我は全知にして全能と言ったであろう。おまえの考えていることなど、はなからうるさいほど聞こえていたわ。口に出さない独り言の多い男だ」
「……五月蝿どころか一月蝿のおまえに言われたくないね」
 皮肉ってみるも、むばえ(無理やり読んでみた)は相手にしなかった。短い脚でのそのそと這い、枕カバーに腰を落ち着ける。隅のほうにちょこんととまっているだけなのに、あぐらをかいてふんぞり返っているように見えるから不思議だ。これもひとえに奴の始終偉そうな口調のせいだろう。
「全知全能のおハエ様なら、俺がこれからどんな願いを言うのかも、もちろんわかってらっしゃるんじゃないですか?」
「当然だ。おまえがどれだけ悩もうとも、最終的な結論などとうに見通している」
「だったわざわざ訊くまでもないだろうが。俺がこれから何を望むのか知らんが、それを叶えてくれよ。俺が知りたいと思ったことには違いないんだろうからさ」
「それはならん」
 ハエのきっぱりとした声が、頭を内側から揺さぶった。
「言ったであろう。未来のことは教えられぬと。たとえどんな些細なことだとしても、たった一秒でも先の物事であれば、それは紛れもなく未来なのだ。よって、おまえ本人の思考であったとしても、それは教えられぬし、叶えられぬ」
「さいですか」
 俺は眺めていた歌詞カードを閉じると鼻歌をやめて顔を上げた。
 ハエが居丈高にうんちくを垂れているあいだに、俺の考えはほとんどまとまっていた。
 もっとも未知にして、もっと不可思議なもの。それは、人の心である。こんな胡散臭いハエなのかハエの姿をしたまったく別のなにかなのかもわからない生き物――いや、生き物かどうかも疑わしいところだが――でもない限り、他人の考えを知るというのは不可能だ。
 じつのところ、先ほどの藤原の件は、なかなかいい線をいっていた。それを俺は逆に考えてみたのである。特定の誰かではなく、その対象に焦点を置くのだ。能動ではなく受動。“どう思っているか”ではなく“どう思われているか”。
 あまり意識はしていないが、俺も年頃の男子だ。周囲の目が気にならないといえば嘘になる。むしろ、気になって気になって仕方がないところだろう。
 掛け値なしの評価、口にすることのない本音、普段は隠している底意――
 つまり、俺の願いはこうだ。
「俺は周りからどう思われてるのか知りたい」


 最後に聞いたのは、なんだろう。「心得た」というハエの承諾だったろうか。
 気がつくと、俺は真っ暗な空間を漂っていて、そうかと思ったら、次の瞬間にはまぶしいほどの光の中に放り出されていた。
 俺が最終的に出したその要求は、反則に近かったかもしれない。しかし、願いを増やしてくれ、というテンプレートに比べればかわいいものだっただろう。実際、ハエは言葉どおりきちんと願いを叶えてくれた。それにより、どうやら俺は、自分が思っていた以上に周囲から高評価を得ていたことがわかったのである。
 いつもつるんで馬鹿やっていた友人たちは、口を揃えて、あいつは友達思いの気のいい奴、と俺を評した。間違ってもそんなことを口にするような連中ではないのに。
 担任の教師は、俺のことを明るく責任感があり、クラスのムードメーカー的存在だと、気恥ずかしくなるようなことを言った。二年のときからの付き合いだが、そんなふうに思われていたとは初耳だ。
 両親にいたっては、一族の誇り、自慢の息子、とそれはもうべた褒め。俺のやることなすことすべてに否定的な態度を取っていたあの親父が、あんなできた奴はいない、とまで言ってのけた。
 そして、俺にとって一番の収穫だったのは、図らずも藤原の想い人が判明したことだ。そいつはなんと、ほかでもない、この俺本人だったのである。それも泣くほど好きだったというのだ。俺たちは、めでたく両想いだったというわけだ。
 ハエのおかげで、普段は絶対に聞くことができないであろう、普通に生きていれば到底目にすることも耳にすることもできないであろう、人々の俺に対する本音を知ることができた。自分を思ってくれている人々の予想以上の多さに驚いたくらいだ。そういう意味では、この願いは大正解だったといえよう。
 しかし、ハエへの感謝の気持ちはこれっぽっちも浮かんでこなかった。ただひたすら、諦めにも似た後悔ばかりが頭をよぎる。

 黒い集団の中に、一人、不思議そうな顔をしている五歳の幼いいとこがいた。隣に立つ母親に、いったいどういう状況なのかと尋ねる。そんな彼に、叔母さんは、瞳に涙を溜めて言った。

「お兄ちゃんはね、お星さまになったのよ」

 ――そりゃないぜ、ハエ。
覆面作家企画2
FIN.



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小説TOP覆面作家企画あとがき

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