*


 ――しらないほうがいいことがあるよ。

 ふいに聞こえた声に、少女は振り返った。
 夜の九時を過ぎた通学路は黒色に染まり、いつもの見慣れた景色とは違う表情を見せている。街灯の明かりがちらちら揺れ、足元に伸びた影を不気味に踊らせる。少女のほかに行き交う者は一人もいない、細い路地。
「……空耳、かな」
 少女は呟き、そう納得すると再び歩きだした。辺りに響くのは、一人分の足音だけ。

 ――しらないほうがいいことがあるよ。

 また、だ。
 さっきよりもはっきりと聞こえたその声に、少女ははっと顔を挙げた。とっさに辺りを見回すが、そこにはやはり、誰もいない。
 先ほどよりも闇が深まったような気がして、少女は思わず身震いした。
「……気のせい、気のせい」
 そう自分に言い聞かせる。少女は空聞かずを決め込み、早足で大通りへの出口を目指した。
 しかし、ふと足音が重なる。
 一人分だった足音に、もう一人、別の足音が混じっていることに少女は気がついた。
 歩みを止めず、視線だけを巡らす。すると、前方にぼんやりと人影が浮かび上がった。少女の心臓がどきりと跳ねる。しかし、その人物が自分と同じ高校の制服を着ていることに気づき、ほっと息をついた。
(なんだ……。この子も塾の帰りかなにかかな)
 やってくる人物も、少女と同じようにスカートをはためかせ、早足でこちらへ向かってくる。同じように学校指定のカバンを肩に掛け、黒いローファーのかかとを鳴らし――
「え……!?」
 すれ違う瞬間、少女は目を疑った。
 そこにあったのは、よく見知った顔。鏡を覗けば、いつでも見られる顔。
『わたし――!?』
 声が重なる。もう一人の少女も、少女と同じ瞳を、少女と同じように大きく見開いていた。
 まったく同じ、驚いた表情が二つ。とても他人の空似ではない。それはまるで、姿見に映した虚像と実像だった。

 ――しらないほうがいいことがあるよ。

 みたび、空耳が聞こえた。刹那、もう一人の少女の顔が歪んだ。目を細め、唇の端を持ち上げ、笑みにも似た奇妙な表情を作る。
 その瞬間、虚像と実像が入れ替わった。




 少女は何事もなかったかのように歩きだす。路地を行くのは、彼女一人きり。

FIN.

 


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