*


「ときどき思うのよ。自分が見ていないところは、本当は存在していないんじゃないかって」
 彼女は若干呂律の回らない口調でそう言った。
「あるいは、なにか得体の知れない混沌としたものになっているんじゃないか」
 言葉の意味を飲み込めないでいる僕に、彼女はつまりね、と続ける。
「私たちは目で見て、あるいは触って、そこで初めてその存在を認識するの。世界を、と言ってもいいかもしれないわね。だから、認識の外――自分がその存在を確認していない世界、たとえば」
 そこで言葉を切り、彼女はグラスを持った手でクローゼットを指差す。
「そのドアの向こう。開けるまでは、中がどうなっているかはわからないわけじゃない? 畳んだ服がしまってある。それはもちろんそうだけど、もしかしたら知らないうちに次元のひずみなんかが発生して、中にあるもの全部吸い込まれちゃってるかもしれない。あるいは、服たちが意思を持って動きまわっているかもしれない。その可能性は、どう? 0.0001パーセントくらいはあるんじゃない? だって、見えてないんだもの。そこで何が起こってるかなんて、実際ドアを開けてこの目で確認するまでわかるわけがないんだから」
「ふむ、それは興味深いな」
 彼女の話はなかなかに納得できるものだった。ただ一つ、なぜなんの脈略もなく、唐突にそんな話題を持ち出したのか、という点を除いては。
 直前までしていた話といえば、気になる新ドラマがどうの、なんて他愛もない会話だ。最近は漫画のドラマ化が多いなー、と漏らした僕に、そういえば駅前の本屋で原作漫画フェアやってたよ、と彼女が返して。
 そんな、さしたることもない話題。
 そもそも、意識だの認識だの、彼女との会話において、そんな小難しい単語が用いられることは、これまでただの一度もなかったのに。いったいどういう風の吹き回しだというのだろう。
 話の意図するところが理解できないでいる僕に、彼女は気づいたようだった。
「つまりね」
 再びその接続詞。
「自分の見ていないところでは何されてるかわかったもんじゃないってこと!」
 スコン! という少々間の抜けた音とともに、額に軽い痛みが走った。
 一瞬、何が起きたのか把握できなかったが――床を見ると、ビールの缶が転がっている。カラカラといまだ回転を続けるそれは、中央がへこみ、歪んでいた。中身は空のようだが、口から琥珀色の雫を飛ばしている。
 ……投げた? 僕に向かって、これを?
 その行為が信じられずにそろりそろりと顔を上げると、彼女の顔は真っ赤に染まっていた。それは当然、アルコールが入ったせいだけでなく――
「昨日一緒にいた子は誰よ!」
 叫び声にも近い勢いとボリュームで彼女は怒鳴った。
「き、昨日?」
「駅前! 本屋の通り! 夜の九時! 手ぇ繋いで歩いてた! セミロングの女の子!」
「あ、ああ、あああれはその、なんだ、えっと、ほら」
 やばい、見られていたのか。
「…………妹?」
「おまえには妹が十二人もいるのかーーーー!!!」
 スコンスコンと次々に空き缶が飛んでくる。それをなんとかかわしながら必死の言い訳。
「違うんだ! あれはなんていうか、サークルの飲み会で……そう! 酔ったはずみでつい、さっ!」
「うるさい黙れ浮気者ぉぉおおお!!!」



 お酒は、本当に怖いです。
 つい僕の中の悪い虫がうずきだし、ふだん温厚な彼女は鬼神に変貌を遂げます。
 けれど、お酒に助けられることもまた、多いのです。
 さんざん暴れて疲れ果てて翌朝目を覚まして大地震が起きたあとような部屋の惨状を目にして彼女は一言、
「……あれ? なにこれ、どうしたの?」

FIN.

 


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