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*武器


 全速力で事務課へ走り、書類を提出した僕に彼女は言った。
「二十三秒のタイムオーバーです。受け取ることはできません」
 じつにきっぱりとした口調。
 壁に掛けられた時計に目をやる。確かに、秒針は文字盤の『6』を回ろうとしていた。
 この書類は今日の十七時、締め切り厳守。だから、彼女の言い分はしごくまっとう。非があるとすれば僕のほう――だけれど! こちらにだって言い分はある。
 僕は彼女に向けて左手首を突き出した。
「ほら! 十六時五十九分四十八秒!」
 そこにはめられた腕時計は、まだ十七時を過ぎていない。僕の基準はあくまでこちらなのだ。数十秒の誤差くらい、余裕で許容範囲内だろう。いや、許容されるべきである。
 だが。
 彼女はおもむろに受話器を取ると、ボタンを押してどこかへコールした。
『ピッピッピ、ポーン。午後、五時、四十秒をお知らせします』
 耳に押し当てられた受話器から流れてくる、どこか機械的な女性の声。
「きちんと時刻を合わせておかなかったあなたの管理不足です」
 それ以上に機械的な口調で、彼女は表情一つ変えずに言い捨てた。
 なんて融通の利かない女!
 普通ならそう思っていたところだろう。印象最悪だ。書類を受け取ってもらえるまで食い下がっていたに違いない。
 けれど、そのときの僕はといえば。
 ぽかんと、熱に浮かされたように、ただただ彼女の切れ長の瞳に魅入っていた。

 ようするに、僕は彼女に一目惚れをした。


 マニュアル人間。
 彼女を一言で表すならば、その言葉がふさわしいだろう。彼女ほど型にはまった人物を僕は知らない。むしろ、お役所仕事と言ったほうが近いのだろうか。
「困ります」
 凛とした声で彼女は言った。ちなみに、仕事が終わったら食事に行かない? と僕が誘ったあとの台詞だ。
 まあ、そう返されてしかるべきだろう。昨日一度だけ顔を合わせた名も知らぬ男から、いきなりそんな誘いを受けたら誰だって困る。
 しかし、彼女はそんな意味で言ったのではなかった。
「終業後の外食に関しては、正規の手続きをとっていただきませんと」
「正規の手続き?」
「申し込みをするのであれば、こちらの用紙に必要事項をご記入の上、希望日の一週間前にご提出をお願いします」
 との説明を添え、ファイルから一枚の紙を取り出す彼女。
 差し出されたので受け取ると、まず、『終業後における外食同行願い』の文字が目に入る。その下には、なにやらいろいろな欄が設けられていた。申請者名、目的地、終了予定時刻、見積費用……おいおい、実印を押すところまであるぞ。これはいったいなんの記入用紙だ。
 そう尋ねるより先に、一秒の狂いもない事務課の壁時計(なんたって彼女がじきじきに設定しているのだ)が十七時半きっかりを差し、彼女はオフィスをあとにした。

 世に女の武器は数多くあれど――彼女の武器は、これだった。
 ともあれ。
 これが彼女のやり方ならば、僕はそれに従うまでだ。惚れた弱みというべきか。
「申し訳ありませんが、この申請を受理することはできません」
 そのちっとも申し訳なくなさそうな彼女の言葉を何十回と聞き、シュレッダー行きとなった書類枚数がそろそろ三桁に届くんじゃないかというところで、ようやくその台詞にありつくことができた。
「許可します」
 今回ばかりは僕の粘り勝ちだった。

 その後の僕の奮闘ぶりは、あえて語る必要もないと思う。
 デートに誘う際には、『休日における外出同行願い』に、日時場所費用飲食の有無(有なら予定するメニューの一つ一つまで)を逐一記入し、希望日の一週間に提出しなければならなかった。その際、僕が彼女になにかプレゼントしたいと思うのなら、『贈答許可証』に品目を書き上げねばならなかったし(よってサプライズは不可)、いい雰囲気になってきたのでもうちょっと一緒にいようと申し出れば、すかさず『延長願い』が取り出されたし。ムードに飲まれて思わずキスしそうになったときは……ああ、思い出したくもない。
 彼女はいったい、何種類の書類をしたためているというのだろう。
 ……受理されなかった回数? そんなの、数えようとするだけで気が遠くなる。
 けれど。
 それだけの苦労と紙くずの山を乗り越え、僕はとうとうここまで漕ぎつけることができた。
「これ、受け取ってほしいんだ」
 それは記念すべき五十回目のデート。
 夜の九時を回り、いい感じにライトアップされた港沿いの公園にて、僕は彼女に手のひらに収まるほどの小箱を差し出した。ぱかりとふたを開けると、そこには銀色の華奢なわっかが、街灯の光を反射させて鎮座している。緩いカーブの頂上には、申し訳程度の、けれど確かな輝きを放つ、透明な粒。
 いわゆる、給料の三か月分。
 彼女の武器が書類なら、今日の僕の武器はこれだ!
 
「困ります」

 例によって例によって、彼女は反射条件のごとくその台詞を口にした。
「こちらの用紙に必要事項を記入していただきませんと」
 そう言って一枚の紙を差し出す。
 さて、今回はなんだ? 婚姻を前提とした交際志願書か? それとも貴金属贈答許可証か?
 なんにせよ、この手の書類はいやというほど書いてきた。今回だって、すんなり受け取ってもらえるとははなから思っちゃいなかった。これまでの経験を活かし、今日はボールペンも実印も訂正印も、なんなら保険証のコピーまで用意はばっちりだ。今ここですぐさま記入し、彼女に承認してもらおうじゃないか。
 僕は右手にボールペンを構え、用紙と向かい合う。すると、すでに半分近く、彼女の手によって記入されていることに気づいた。
 視線を少し上にずらす。
 
『婚姻届』

 その三文字を穴が開くほど見つめたあと、今度は彼女に視線を移した。
 ……その頬がほんのり赤く色づいていたのは、僕の見間違いでも、夕食のとき口にしたワインのせいでもないだろう。
 ああどうしよう。僕は彼女が好きすぎる。
 彼女の一撃必殺の秘密兵器に、僕は見事に打ち抜かれた。

FIN.

 


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