*闇夜


 騒々しい繁華街を抜けて駅から電車に乗り、すっかり人気のなくなったホームに降りた。
 ドアから吐き出されたのは俺一人。それでも律儀に発車音が鳴り響き、酔いつぶれたオヤジと疲れきったサラリーマンをぽつりぽつりと乗せた最終電車は走り去っていった。しんと静まり返ったホームは、少々ホラーじみたものがあったりして、見慣れたはずなのに薄ら寒いものがあった。長居は無用と足早に帰路を目指す。
 改札口から駅前へ。駅前から表通りへ。表通りから住宅街へ。
 景色が代わるたびに道が狭まり、それにあわせて辺りはどんどん暗くなってゆく。やがて、道路の脇に点々と置かれていた街灯も途切れてしまった。とたんに夜が色を濃くしたのを感じた。
 ――今日はやけに暗いな……。
 ふとそう思って見上げた空に、月はなかった。
 今日は新月らしい。どうりで、と納得する。星はいつものようにそこにあるけれど、その小さなまたたきでは足元を照らすまでにはいたらない。
 影もできない暗闇の中、俺は無意識のうちに足を速めていた。なにかに急かされるように、なにかに追い立てられるように。寝静まった細い路地に、一人分の足音がいやに響いた。
 ――早く帰らないと。
 ただそれだけを考えて、ひたすら家を目指す。
 十字路を曲がった先の二階建てアパート。ゴールを目前に、俺はいつの間にか駆け出していた。そしてドアにたどり着く。
 ――いる。絶対いる。
 壁一枚隔てた向こうに確かな気配を感じ、ノブを握る手に力が入った。目を閉じ、一度深呼吸をする。乱れていた心臓音が正常に戻ったのを確認すると、覚悟を決めてドアを開けた。
 その瞬間、形容しがたいにおいが鼻を突いた。俺は思わず顔をしかめる。
 部屋の奥へ進むたびに、においはより濃さを増してゆく。そして、かすかに聞こえる音。ぺちゃり、ずるり、と水を含んだ音が耳に届く。その中に紛れるようにして、無数の気配がうごめのを感じた。
 リビングに足を踏み入れたとき、気配は輪郭を持って現れる。
「おっかえり〜」
 ……開口一番、そんな言葉を発して。
 部屋の中でうごめく――もとい、飛び回る無数の白。その中央に座り込んでいた「一番大きな白」がにこにこと笑いかけてくる。
「今ちょうどお餅つき終わったところだよー。食べる?」
 その手には、まだ湯気を昇らせている白い餅が握られていた。そいつは餅に負けないくらい白い髪を揺らしながら、ぽってりとしたそれを両手で引き伸ばし、ほらほらびろ〜んなどと言ってはしゃいでいる。空腹には毒としか思えない凶悪においしそうな香りを発しながら。
「……その前にこいつらをどうにかしろ」
 つきたてほかほかお餅の誘惑を振りきり、周囲に散らばる「小さな白」を指差した。
 ソファーの上、テーブルの下、テレビの裏、棚の中、そこらじゅうで飛び跳ねる白――ウサギたち。テーブルの一匹は小さな杵を握り、その正面の一匹は小さなうすを押さえている。ぺったんぺったんと、リズミカルに杵を上下させ、そのたびにつきたてほかほかお餅が山のようにできあがっていく。
 じつにおいしそ……いや、迷惑極まりない。ひとの部屋で餅つきだなんて!
「待って待ってー。これから磯辺焼き作るんだから」
「作るな! 俺はきな粉派なんだよ!」

 今日は新月で当たり前。
 だってこいつが――“月”が、俺の部屋に遊びになんて来ているのだから。

FIN.

 


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