碧乃さんの冥探偵日誌

依頼その6の3


「――碧乃君?」
「ぎゃッ!」
 突然肩を叩かれ、私は思わずみっともない声を上げてしまった。振り返ると、見知った人物が、これまた見知った表情を作って立っている。
「ぎゃッって……女の子の上げる悲鳴じゃないよそれ。何してるの?」
 眉根を下げて苦笑する先生。
「……こんにちは」
「うん、こんにちは。で、何してるの?」
「…………」
 黙りこくる私に、先生は訝しげな視線を向けた。入らないの? と切り口を変えてアプローチされても、その質問にも答えかねます。入りたいのはやまやまなんですが……。
 先生は首をかしげつつも私からの回答をあきらめ、入り口のノブに手を掛けた。
「あっ、まっ」
 てください、という語尾は間に合わず、事務所のドアは開けられてしまった。その中に潜む、天使の顔をした悪魔の襲撃に備え、私は思わず身構える。
 ――が、出迎えてくれたのは、とろけそうなファニーボイス。
「しゅーちゃん、おかえりなさーい」
 ソファーにちょこんと腰掛けた楓ちゃんが、おっくんを抱きしめて満面の笑みを見せる。
「お留守番ありがとう。何もなかった?」
「うん。お客さんもお電話もなかったよ」
 楓ちゃんは胸を張ってうなずいている……が、いやいやいや! 何もなくなかった、何もなくなかったぞ。腹黒少女と性悪ガエルによるサバトがおこなわれていたではありませんか。探偵助手は見た!
 しかし楓ちゃんは、先ほどまでの“ひとり遊び”が嘘のように、ランドセルから計算ドリルを取り出して先生に尋ねていたりする。
 その様子を見る限り、まるっきりごく普通の美少女だ。「ごく普通の美少女」というのもなんだか矛盾をはらんだ表現だが、この際そんなことは捨て置こう。とにかくそのあまりの豹変ぶりに戸惑わずにはいられなかった。
 いまだ入り口で立ち往生していると、そんな私に楓ちゃんが気づき、視線がぶつかった。
「あ」
 と、楓ちゃん。で、出るのか? 本性が出るのか?
「あおのおねーちゃん、いらっしゃいー」
 以上。
 ソフトフォーカスがかかりそうなエンジェルスマイルでそれだけ言うと、楓ちゃんはふたたび宿題に向かってしまった。
 拍子抜けのあまり立ち尽くすが、しかしすぐにぶるぶるとかぶりを振った。ここで油断したらきっと負けだ。なんの勝負なのかはよくわからないが、とにかく気を緩めたらそこでおしまいなのだ。
 私は警戒を解かずに事務所内へ足を踏み入れると、そろりそろりと応接ブースをやや遠回りに迂回しながら簡易キッチンへ向かった。背後に居座る猛獣(を内に潜ませているかもしれない見た目天使)の気配をうかがいつつ、コーヒーを淹れる。これは日課であり、助手の務めであり、へたすれば一日これだけで終わってしまうかもしれない事務所での唯一の仕事だ。たとえ歓迎できないゲストがひとりと一匹いようとも、欠かすわけにはいかないのである。
 ふたつのカップにコーヒーを注ぐと、香ばしい香りがほんの少し心を落ち着かせてくれた。片方に砂糖をひとつ、もう片方に砂糖とミルクをたんまり入れて、テーブルへと運ぶ。
「……どうぞ」
「ありがとう」
「ありがとー」
『気が利くじゃねぇか』
 ふたりと一匹分のお礼が返ってくる。すかさず楓ちゃんがおっくんの頭をぺしりとはたき、
「こら。ちゃんとお礼言いなさい」
 とお決まりの小芝居をすると、少女の興味はすぐに算数の宿題へ移ってしまった。「ていか千五百円のシャツが二割引きだと、えっと……」と呟く小さな唇が、つい先ほど「あんな年増ババアとっとと辞めちゃえばいいのに」なんて吐き捨てていたとはとても思えない。……そこまでは言っていなかったような気もするけど。
 やっぱりあれはなにかの聞き間違いか、さもなくば私ではない別の「年増」のことを言っていたのだろう。うん、きっとそうに違いない。だいいち、はたちのピチピチギャルを指して「おばさん」はないだろう。ええ、ありえないとも。
『――盗み聞きたあいいご趣味だな』
 ピシリ、と音を立てて凍りついた。……のは、私だった。
 直立不動のまま、唯一自由の利く視線を声の出どころへ向ける。私立小学校の紺色のブレザーを身に着けた、小さな背中へ。
 ソファーに腰掛けたその人物は、振り返らない。テーブルに向かい、黙々と宿題に取り組んでいる。けれど私は見た。やわらかな横髪のあいだからのぞく唇が、かすかに動くところを。
「そんなこと言わないの」
 ささやき声は、ひざの上にちょこんと腰掛けるピンクの相方をたしなめる。そして続けた。
「うわさ話は年よりのゆいいつのごらくなのよ?」
 がしゃーん!
 それは私の心が砕けた音か、それとも私の中の和泉 楓という少女像が崩れ去った音か。……どちらでもなかった。カップを乗せてきたトレイが、私の手からすべり落ちた音だった。
 派手に響いたその音に、デスクにいた先生が、そして、目の前の楓ちゃんが顔を上げてこちらを見た。
 後者と目が合う。とたんに私は金縛りにあった。それはもちろん霊的なものではなく、否、仮に霊的なものであったとしても、今の私にその貴重な体験を喜ぶ余裕はまったくなかった。自分の半分しか生きていない少女相手に、情けなくも恐怖を覚えてしまう。目が合っただけなのに。
「…………」
「…………」
 両者無言。
 先ほどの発言は、背後にいた私にも聞こえてたことは本人も承知だろう。いや、聞かせたのだ。わざと聞こえるように言ったのだ。なのにこの少女ときたら、ついさっき痛烈に皮肉ってみせた唇で、今度はにっこりと、極上の笑みを私に向けた。
 嘲笑でもなければ冷笑でもない、年相応の無邪気な笑顔。
 そのとき、ぞわりと全身の毛が逆立った。つま先から頭のてっぺんへ、冷たいものが一瞬のうちに通り抜けていった。たとえるなら、毛虫千匹の超速滝登り。
 ……たぶん人間の、動物の本能なのだろう。危険な敵を前にしたとき、その場から逃げるという行為は。
 気づくと私は、書斎に閉じこもっていた。
 ………………。

 こっっっえええーーーーーー!!!

 なんなんだ。なんなんだあの少女は。いやあの生き物は!
 この感覚には覚えがある。高橋 すみれ、その人を目の前にしたときだ。しかし、彼女の持つある種尊敬できる老獪さとは違う。あの少女の場合はとげしかない。無邪気な悪意だ。和泉 楓、恐ろしい子……!
 私はよろよろと書斎の椅子に腰を下ろし、木製デスクにべったりと倒れ込んだ。天板の冷たさが心地いい……。書斎独特の紙とインクの香りがアロマ代わりになり、しだいに心が落ち着いてきた。
 ここは万能家政夫すら立ち入ることを拒んだ魔の書斎。けれど、今日は比較的片づいている。それもそのはず、つい昨日、私が半日がかりで棚卸しばりの蔵書整理をしたからだ。ちなみにこれは週一でおこなうバイト助手の仕事である。つまり、どんなにきれいに片づけようが、一週間も経てばこの部屋は本の海と化す、賽の河原。
 たとえここが三途の川のほとりだとしても、ドアの向こうが地獄なら、この部屋で残りの時間を過ごしたほうがよほど心が休まった。どうせ今日はもう来客もないだろう。できれば小説の続きを読みたかったが、肝心の本は応接ブースのテーブルの上。ソファーに居座る悪魔とまた顔を合わせるリスクを負ってまで取りに行く気概は、そのときの私にはなかった。
 私はむくりと体を起こすと、なにか代わりに暇をつぶせそうなものを求め、部屋の四方をぐるりと囲んだ本棚を見まわした。

「あれ、碧乃君ずっとここにこもってたの?」
 それからどれくらい経ったのだろうか。書斎には窓も時計もないため、時間の経過がわからない。この部屋の主が、ここで何時間も本を読みふけってしまうのも無理のないことだった。
 書斎に入ってきた先生は、読み途中の本から顔を上げた私と目が合うと、わずかな焦りを浮かべて言った。
「今日は片づいてるよ、ね……?」
「今日“は”、ね」
 ことさら「は」を強調し、さていつまで持つことでしょう、とぼやくと、先生はばつが悪そうな顔でこちらへやってきた。
 私は身を乗り出し、開いたドアの隙間から隣の様子をうかがう。残念ながら、パーテーションで仕切られた向こう側までは見ることができなかった。ぱたりとドアが閉まり、私もまた椅子にもたれかかった。……彼女はまだそこにいるのだろうか。
 私は心霊現象よりよほど恐ろしいあの体験を振り払おうと頭を切り替えた。
「そうだ先生! これこれっ。先生も読んでたんですね」
 掲げてみせたのは、今まで読んでいた一冊の文庫本。それは陰陽探偵シリーズの最新刊だった。
「昨日片づけたときにはなかったと思ったんですけど」
「ああ、うん。今まで自宅に置いてたのをこっちに持ってきたんだよ」
 そう言って見上げた棚には、シリーズ一作目からひとつも欠けずに全巻揃っていた。先生は、流行りの話題作よりも、自分の読みたいものを読むというタイプの人間だったので、少し意外だった。もちろん、陰陽探偵は流行りすたりにかかわらず面白い作品なんだけど!
「そういえば碧乃君も最近読んでたね」
「はい! ほら、今若い女性にも人気あるじゃないですか。それで今度、雑誌で特集を組むことになったから、作者のところへ母が取材に行くそうなんです」
「美登利さんが? ああそっか、ライターをされてるんだっけ」
 先生の言うとおり、私の母・芹川 美登利ミドリは雑誌記者をやっている。本人は、旅行雑誌で温泉に行きた〜い!(取材で)だの、グルメ雑誌でおいしいもの食べ歩きた〜い!(取材で)だの言っているが、現在主に担当しているのは、二十代のOL向けファッション誌と、アート系のサブカル誌。
 自称・業界ではちょと名の知れた美人ライター……らしいのだが、その真偽はさておき、顔出し対談をしたり、コラムを複数連載していたりするのは事実だ。私が幼いころはしょっちゅう取材で家を空けていて、昔ほどではなくなったが、今もまともに帰宅する回数は少ない。お姉ちゃんがお嫁に行ってしまい、とうとう母ひとりになってしまった芹川宅だが、不規則な生活ゆえ、かえってそのほうが気楽でいいと本人は寂しがる様子をみじんも見せなかった。ひとり暮らしやめて実家に戻ろうか? という私の申し出を拒否したくらいだ。いわく、どーせあんたもすぐ出て行くことになるだろうし。
 あんた“も”ということは、すなわちお姉ちゃんと同じように、と言いたいのだろうか……。
 それはそれとして、ファッション誌のほうで陰陽探偵の特集を組むことになった母みどりん。事前にシリーズ全巻に目を通したところ、すっかりはまってしまい、その日のうちに娘に電話で大プッシュすると、その娘もまた作品の虜となってしまったわけである。
「あの人、取材ついでにサインもらう気満々ですよ」
 もちろん私の分もいただいてくるよう伏してご懇願申し上げている。
 作者は御園ミソノ いづみといい、今まで一切メディアに露出したことがない。物書きは裏方に徹するのが美徳と考える私としては、非常に好感の持てる姿勢である。聞いたところによると、まだ三十歳前後のお若いかたらしい。私は勝手に、作品主人公のようにクールで知的なお姉さまを妄想しているのだが、きっと実物もそれほどかけ離れてはいないだろう。
「楽しみだね」
「はい! ……一番楽しみにしてるのは母ですけど」
 あの歳になってもいまだにミーハー人間なのだ。
 私がこぼすと、先生はおかしそうに笑った。それから思い出したようにひざを打ち、
「そうそう。さっきね、依頼の電話が一件入って」
「ほんとですか! 内容はっ?」
「四番を期待しているところに申し訳ないけど、護衛兼周辺調査、かな」
「む、ストーカー関連ですな?」
 ご名答、と返し、先生が詳細を付け加える。
「女性のかたからで、最近、自宅付近で不審な男を頻繁に見かけるから、少し調べてほしいって依頼。どうもつきまとわれてるらしくて」
「若い女性を付け狙うストーカーですか。警察に言ってもすぐには動いてくれませんからねえ」
「うん。それで明日、事務所に来てもらって詳しい話をうかがうことになったから、碧乃君も同席してね。午前十時、遅刻厳禁」
「土日はいつも九時前には来てるじゃないですか。先生こそ、寝坊禁止。……と、あ! 今何時ですか!?」
 時間の話になり、すっかり忘れていたことを思い出す。先生は左手の腕時計を見やって、五時半だけど? と答えた。思いがけず時間が経過していたことを知り、私はあわてて席を立った。
「すみません! 私、今日はこのへんで失礼させてもらいます」
「なにか用事?」
「六時からサークルの集まりがあるんです」
 ……集まりというか、食事会というか、まあ平たく言うところの飲み会である。
 私も探偵助手である前にいち女子大生なのだ。ふだんはバイトを何よりも優先しているが、大学の付き合いもおろそかにするわけにはいかない。せめて月一くらいで顔を出さなければ。
 そんな私の事情を察したらしい先生は、引き止めることはしなかったが、あまりいい顔はしなかった。
「それ、帰り遅くなるんだよね?」
「変な心配しなくても、健全な集いですよ?」
「や、それはもちろんそうじゃないと困るんだけど……。じゃなくて、いや、それも含めてだけど、帰り道、気をつけてね。歩きでしょ?」
「そりゃまあ、歩行困難になるほど飲むつもりはありませんよ」
 なんだか遊び盛りの娘を見送る父親のようだ。こんな心配性な人だったっけ?
「依頼主の女性、佐枝津さえづに住んでるんだって。たぶん碧乃君のアパートの近くなんじゃないかな。だから、ほら」
 ああなるほど、と納得する。つまり私の自宅周辺にうろついているかもしれない不審者に注意しろ、ということらしい。確かに、ほろ酔いで夜道をひとり歩きする若い女性ほど狙いやすい標的はいないだろう。
「わかりました、じゅうぶん注意します。最近はこういうのも持ち歩いてますからね。私もそのへんは気をつけてるつもりですよ」
 そう言って、ポケットから取り出した防犯ブザーを先生に見せる。
 手のひらに収まるたまご型のキーホルダーに、かわいらしく猫を模したチャームが付いていて、こいつを引っ張るとすさまじい警報音が鳴り響くという代物だ。以前、暴漢まがいに襲われかけた一件あって以来、こうして携帯している。周囲に無関心なこのご時世、これを鳴らしたところで誰かが駆けつけてくれるとは限らないが、それでも持っていないよりはましだろう。
「鳴らしたらすぐ飛んできてくださいね」
「僕が? ……善処します」
 例によって苦笑に似た頼りなさげな笑みを浮かべ、それでも先生は無理ですとは言わなかった。よしよし、その言葉を信じて深夜の帰路につこうじゃないか。
 夜道の安全性も保障され(?)、私は飲み会に向かうべく書斎を出た。しかし、“ヤツ”の存在を思い出し、ぴたりと足を止めた。
 パーテーションの向こう側の気配をさぐる。
「……楓ちゃん、まだいます?」
「さっき石蕗が帰ってきて、一緒に三階へ上がったけど。呼んでくる?」
「いえいえいえ! けっこうです! それじゃっ、また明日っ!」
 私は頭がもげる勢いで首を振ると、応接ブースに置いたままだった荷物をひったくり、猛ダッシュで事務所を飛び出した。きっと先生はぽかんとしていたに違いない。

*  *  *

 もうすぐ日付が変わろうとする深夜、寝静まった住宅地の路地を、ひとりのうら若き乙女が歩いていた。
 夜空は曇り、月も星も出ていない。道の脇にぽつりぽつりと並んだ街灯の明りからはずれれば、とたんに足元も見えない暗闇が行く手を阻んだ。アスファルトに乾いた足音を刻みながら、ほんの少しだけ酔いがまわった頭で彼女が考えることは、ひとつ。
 どす黒いコールタールのかたまりに、パウダースノーのような砂糖をまぶした少女のことだ。
 ……苦手なんだよなあ、あの手のタイプは。
 お互い人間である以上、嫌われるのは仕方がない。相性の良し悪しは年齢にかかわらず誰にだってあるものだし、私がそのくらいでへこたれるような人間ではないことは、自分が一番よく知っている。けれど、ああいうふうに、表面だけは“仲良し”を演じられると……。
 愚痴はいいが陰口は好きじゃない。真っ向切って敵意をぶつけてくれれば、こちらもそれ相応の出方ができるというものだが、陰でこそこそやられると、表立って態度に出したほうが悪者に見られてしまう。それになんというか……十歳も年の離れた子供相手に感情的になったら大人として負けかな、というのが一番の本音だ。
 さてこれからどう接すべきか。会うたびにあの花のようにかわいらしい顔で毒を吐かれてはたまらない。かといって、先生が彼女を預かっているあいだ、一切顔を合わさずにいるというのはまず無理だろう。
 むう。霊媒体質の美少女、できれば仲良くしたかったなあ。
 よもやこんなところで人間関係に悩むことになるとは。予想外の事態に頭を痛めながら歩を進めていた私は、ふいに目の前をなにかが横切った気がして足を止めた。
 今、ひとつ先の十字路を、人影が通り過ぎていったような……?
 そのとき、めずらしくオカルトじみたものではなく、“ただの人間”だと直感したのは、先生から不審者の話を聞いていたからだろう。もしかして、今のが例のストーカーなのだろうか。でも、それにしてはずいぶん小柄だったように思える。
 私は小走りで、だが音を立てないよう注意しながら人影が消えた十字路に向かうと、生垣の陰から通りの先をそっとうかがった。けれど、薄暗い路地には人っ子ひとりいなかった。それらしい気配もない。見間違いだったのだろうか。
 予想以上に酔いがまわっているのかもしれない。一瞬とらえた横顔が、……楓ちゃんに見えたのも、あの少女のことばかり考えていたからなのだろう。

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