碧乃さんの冥探偵日誌

依頼その6の5


 夜も更け、しんと静まり返った住宅地の路地を、影がひとつ、すべるように通り抜けていった。向かう先に一台の車を見つけ、影は気配を消して駆け寄る。あたりの様子をしきりにうかがいながら、運転席の窓ガラスを小さく叩いた。応じるように開けられた窓の隙間から、運転席に座る人物にささやく。
「……ホシに動きはあったか?」
「今のところ――って碧乃君!」
 ガチャリとフロントドアが開き、車内から先生が飛び出してくる。ルームライトに照らされたその顔は、ひどく驚いた表情を作っていた。
「何してるのこんなところで!」
「こんなところも何も、自宅から徒歩五分の超ご近所なんですが……。どうしても気になってしまいまして、来ちゃった☆」
 てへっとぶりっ子ポーズで頭を小突いてみせると、先生はなにかを叫びかけ、しかし口をついて出る前にその言葉を飲み込んだ。今は二十三時を過ぎた深夜。こんなところでの大声は近所迷惑にしかならず、その判断は正しかったといえよう。
 先生は文句の代わりに大きなため息をひとつつき、あきらめたように首を振った。
「それでヘタレ、その後なにか進展はあったのか?」
「刑事ドラマの愛称みたいに呼ぶのやめてくれる……?」
「私のことはボスと呼べ」
 ふたたび首を振る先生。
「何もありませんでしたよボス……」
 事務所に戻り、車を持ってきてからもずっと見張っていたが、田増夫人の帰宅後も、不審な人物は現れなかったという。やっぱり夫人の勘違いなんじゃ……と発言しそうになるが、考えを改める。
 まだ張り込み一日目だ、相手もそう簡単には姿を現さないだろう。勘違いだと決めつけるには早すぎる。もう何日かはねばる必要がありそうだ。

「――それで、なんできみはちゃっかり車に乗り込んでるのかな」
 暗い車内で、運転席の先生が額を押さえながら言う。
「やー、助手席ってからには、やっぱり助手が座ってないと!」
「夜は僕ひとりでいいって言ったのに……」
「む、それじゃあなんですか。夫人の安否が気になるあまり一睡もできないまま夜が開け、翌日もうろうとした意識で事務所へ向かう途中、うっかり赤信号で横断歩道を渡りかけたところに猛スピードで突っ込んでくるトラック、誰もが轢かれた! と思ったそのとき、さっそうと現れた謎のイケメンに間一髪のところで救われ、それがきっかけで恋に落ちたふたりは海の見える教会で結ばれて、古い暖炉のある白い小さな家の庭で遊ぶ坊やを眺めながらレースを編むことになってもいいって言うんですね!」
「…………」
 風が吹けば桶屋が儲かる。
 先生は何も言い返すことができないまま、ぐったりとステアリングにもたれかかった。それを降伏のサインと見なし、私は勝利の笑みを浮かべる。手にしていた缶をあおり、ミルクティーを飲み干した。
 しばらくして力なく起き上がった先生が、砂漠で水を求めるように、ドリンクホルダーにささった缶コーヒーによろよろと手を伸ばした。私からの差し入れだ、心して味わうがよい。
 しかし、缶を口元に運びかけたところで、先生の手は止まってしまった。
「……碧乃君」
 低くおさえたその声には、かすかな緊迫感が含まれていた。
 一点を見つめる先生の視線の先を追う。路地の向こう、田増夫人宅の手前。そこには細い十字路があり、その角に立つ電柱の影に、人の姿があった。
 田増家も含め、周辺の住宅はすでに消灯してしまっている。あたりには街灯もないため、目を凝らさなければ気づかなかった。ひそむようにたたずんでいるのは、キャップをかぶった、背格好からして成人男性だ。こちらに背を向けるようにして、十字路の先――すなわち、田増夫人の自宅をうかがっているように見える。
「まさか、あれって……」
 例のストーカー男?
 先生がすばやくカメラを取り出そうとする。が、レンズを向けるより先に、男が動いた。小走りで十字路を曲がり、立ち去っていく。私たちに気づいた様子ではなかった。
「行っちゃいましたね……。追いますか?」
「んん……」
 先生はうなるようにあいまいな返事をよこした。その顔にはわずかな驚愕が浮かんでいる。まさか本当にあの夫人をつけまわすやからがいたなんて、とそう言いたいのだろう。私も同じ思いだった。
 それからしばし考え込んで、先生は答えた。
「またやってくるとしてもすぐには戻ってこないだろうし、ちょっとあたりを見てこようか」

*  *  *

 九重区にはふたつの川がある。ちょうど佐枝津の住宅地に沿うように流れているのが、そのうちのひとつ、伏巳川だ。
 伏巳の『巳』は蛇。すなわち、『蛇が伏せった川』という意味である。
 いにしえよりこの土地を守っていた白い大蛇が横たわっていた跡に、雨水がそそぎ込んで川ができた――という伝承が、その名前の由来らしい。できあがった川がほとんど蛇行していないところを見ると、さぞ寝相のいい蛇さんだったのであろうことがうかがえる。というか、そもそも都内でも群を抜いて歴史の浅いこの街に、いにしえも何もあったものではないと思うのだが……ほとんどおとぎ話みたいなものだ。
 ちなみにこの白い大蛇は、現在、二頭身のかわいらしいおたまじゃくし(にしか見えない)「ふしみー」に姿を変え、九重区のマスコットキャラクターのひとりとして活躍している。
「昔はこの川にもホタルがたくさんいたんだけどね」
 川沿いの細い小道を歩きながら、懐かしむように先生がつぶやいた。
 日付も変わり、住宅地は明かりのついている窓もまばらになる。土手の下を流れる川は暗く、月明かりをみなもに映しながら、さらさらと穏やかな音を響かせていた。ほかに聞こえるのは虫の声だけ。対岸の通りを、ときおり車のライトが通り過ぎていった。
「それ、何時代の話ですか?」
「大げさだなあ。僕が子供のころの話だよ」
「大……正……?」
「……あのね」
 せいぜい二十数年前のことだよ、と先生はあきれたように返した。
「きみは僕を不老不死の妖怪かなにかだと思ってるの?」
「どっちにしろ私はまだおなかの中にもいないじゃないですか。自分が生まれる前のできごとなんて、大昔のことに思えてしまうものですよ」
 ――それに、不死と妖怪はともかく、不老については否定できない。“だって訊かれなかったから”という理由で、じつは三百歳でしたーなんて今ごろ明かされたとしても、半分くらいは信じてしまいそうだ。
 そんなたわいもない会話をしながら、夜露が降りた土手の上を並んで歩く。
 不審な男を追うという名目で住宅地を歩いてまわったのだが、やはりと言うべきか、それらしい人物を見つけることはできなかった。そこで捜索範囲を少し広げ、この川べりまでやってきたのだった。
 ……というのは建て前で、このまま徘徊していると私たちが不審者になりかねないため、いったん住宅地を離れることにしたのである。また車に戻ってもよかったのだが、集中力を保つには適度な休憩が必要なのだ、とかなんとかそれらしい理由をこじつけて、息抜きをかねた捜索を続けていた。実際、車内で長時間見張りをするというのは、想像以上に疲労がたまるのだ。
 そんなわけで、真夜中の散歩と、じゃない、捜索とあいなった。
「そういえば、石蕗さんと……楓ちゃんは、どこへ遊びに行ったんですか?」
「遊園地で一日遊び倒してきたみたい。ああ見えて楓ちゃん、絶叫マシーン大好きだから」
 先生が小さく笑う。私も思わず吹き出した。無表情でジェットコースターに乗っている石蕗さんの姿を想像して。
「楓ちゃんって……なんか、不思議な子、ですよね。ギャップがあると言いますか」
 極力マイルドに表現してみた。さすがにじつの叔父に向かって、あの子恐ろしいですね、とは言えない。
 先生は微笑みを苦笑いに変えて答えた。
「そりゃまあ、姉さんの娘で、母さんの孫だからね」
「そんなこと言ったら、先生のほうがすみれ分はずっと多いじゃないですか。息子なんですから」
「あっはは、確かに。でもね、母さんの遺伝子はX染色体に色濃く出るみたいだから」
「ほおーう。先生と桂太朗さんは、お父さんの遺伝子で半分中和されてるってわけですか。すみれDNAを相殺できるなんて、よっぽど真面目で厳格なかたなんでしょうね」
「……まあね」
 ふいに先生が口を閉ざす。私はおのれの失言を遅まきながら後悔した。
 すみれさんに対する失礼な発言は、もはやお決まりのジョークであるからいいとして(本人にはとても聞かせられないけれど)、先生が反応したのはそこではなく、『お父さん』という単語だ。どうも先生にとってこの話題はタブーらしい。なにやら確執があることは以前から察していたが、それは私が思っている以上に根深いようだった。
 ……どうしてだろう。さっき話してくれたホタルも、きっとお父さんと一緒に見に来ていたはずなのに。
 気まずい沈黙。先生はうつむいたまま押し黙っている。暗闇に目が慣れてきても、街灯のないこの道ではその表情までうかがうことはできなかった。
 こういうとき、私はどうすればいいのかわからなくなってしまう。だから、先に口を開いたのは先生だった。
「――それにしてもあの男、何が目的なんだろうね」
 いつの間にか先生は、いつもの穏やかな表情に戻っていた。……私に気を使ってくれたのかもしれない。
「ただ見守っているだけってわけじゃないだろうし」
「そうですね……。今のところいやがらせも受けていないみたいですし、何がしたいのかさっぱりですね」
 そもそも夫人をつけまわす動機は愛なのか怨恨なのか。前者とは思いたくないが、しかし、下見に来た強盗というふうでもなかった。
「やはり稀有な好みの持ち主か……ん?」
 ふいに足を止めた私に気づき、先生も立ち止まって尋ねた。
「どうかした?」
「今、なにか……声が、聞こえたような」
 声? と先生は首をかしげる。今、河原のほうから人の声が聞こえたような気がしたのだ。
「もしかして、さっきの男がまだこのへんに……」
「いえ、違います。もっと子供の……女の子の声、でした」
「……じゃあ、如月さんが言っていた?」
 みなぎわの少女。
 私も一瞬その噂がよぎったのだが、知ってのとおり、ここで少女が殺されてなどいない。ただし、事件があったことは事実だ。もしかして先生が言っていたように、それが原因でほかのモノが――たとえば少女の幽霊が、引き寄せられてきたのだろうか。そうも思ったのだが、それにしてはここは殺人現場から離れすぎている。
 私と先生は川を見下ろし、耳をすませた。土手の傾斜に覆い茂った葦が、夜風に吹かれてさざめき、その向こうから川の水音が聞こえてくる。そこに人の声は混じっていない。目を凝らしても、河原に人影は見当たらなかった。
 私はほんの少し落胆して視線を戻した。
「すみません。気のせいだったみたいです」
「どうかな?」
「どうかなって……だって、先生もなんの気配も感じなかったんでしょう?」
 人の気配も、そうでないモノの気配も。
「感じなかったけど、でも、碧乃君は耳がいいからね」
「……地獄耳って言いたいんですか」
「そうじゃないよ」
 先生は苦笑した。それからとってつけたようにではなく、穏やかな口調で説明した。
「声ならざる声っていうのかな。そういうのを聞き取る力だけを見れば、碧乃君は僕なんかよりずっと上だよ。だから僕が気づかないような弱い存在でも、その声や音は、碧乃君には聞こえていたのかもしれないってこと」
 それは自分でも知らなかった事実だった。思わず嘘だ、と否定しそうになるが、よくよく思い返してみる。
 確かにこれまで、声はすれども姿は見えず、という事態は何度かあった。二体重なった霊の声を、いち早く聞き分けることもできた。……そういうことなのだろうか。まったく自覚はなかったけれど、つまり、
「私の霊力が高まってきているってことですか!?」
 先生や石蕗さんの影響を受けて? もしかしたらそのうちしびびびーっと除霊なんかもできるようになっちゃったりして!?
 瞳を輝かせて詰め寄る私にのけぞりつつ、先生は苦笑いで答えた。
「それは碧乃君しだい、かな。……ん?」
 先生がなにかを見つけたように、私の後ろへ視線を投げた。
「どうかしました?」
 先ほどとは反対のやりとりをして、私は振り返ってその先を目で追った。暗く静まり返った伏巳川の、向こう岸。
「今、あそこでなにか光ったような気がしたんだけど……」
 先生はつぶやくが、対岸の土手には背の高い葦がうっそうとしているだけで、変わったところは何もない。ただこちら側と違うのは、コンクリートの堤防を登るとガードレールがあり、その向こうには舗装された道路がある点だった。
「車のライトではなく?」
「うーん……そういう感じじゃなかった。もっと小さくて、一瞬だけ光ったように見えたんだけど」
「謎の発光体ですか……。はっ! もしや球電!? って、あーーーッ!!」
「えっ、なっ、なに!?」
 突然声を上げた私に、先生がびくりと肩を揺らす。
 今、今、いま――
「あそこでなにか動きましたっ!」
 私は思わず駆け出していた。土手のふちに立ち、傾斜に繁茂した葦の森を覗き込む。
 今、こちら岸で、すぐそこでなにかが動いたのだ。葦の葉の一部が、風で揺れるのではなく不自然にざわめいたのだ。あれは確実に中で生き物がうごめいた動きだった。
「つっ……ツチノコ!? 河童!? ングマ・モネネ!?」
 それともあれか、ふしみーか!
 興奮のあまり葦の枝葉をなぎ払って土手を降りていこうとする私を、あわてて先生が引き止めた。
「あっ、碧乃君! 危ないって!」
「ええい離さぬかっ!」
「殿中でござる! 殿中でござる!」
「止めるでないー! 今ここでUMAを討たねばならぬのだー!!」
 とかなんとか忠臣蔵ごっこをしていると、またしても足元でなにかががさりと音を立てた。
 ぴたりと動きを止める私と先生。羽交い絞めにされた姿勢のまま固まり、視線だけを下に落とす。――がさ、がさり。二メートル近くある葦の根元で、なにかがうごめいている。生き物の、確かな気配。
「隙ありっ!」
 私は先生の腕をするりと抜け、ふたたび捕まる前に音の出どころをかき分けた。姿を見られることを拒むように、茂みから低いうなり声が響く。なおも葦の葉を分け入って進む私の腕が、その人差し指が、なにかに触れた。ふわふわとしたやわらかい――これは、毛? 体毛?
 手のひらがぬくもりを感じたとき、それは勢いよく飛び出してきた。
「な〜〜〜〜〜〜ご」
 間延びした鳴き声とともに、その生き物は私に飛びついた。とっさによけることもできず、受け止めたはずみでバランスを崩してしまう。
「きゃあ!」
「わっ!」
 短い悲鳴がふたつ上がり、次いでどさりと地面に倒れる音。けれど、背後にいた先生が支えてくれたおかげで、ふたりともしりもちをつくだけで済んだ。
「大丈夫? 碧乃君」
「いたたたた……な、なんとか。ありがとうございます」
 したたかに打ちつけた箇所をさすりながら体を起こそうとしたそのとき、ゴンという鈍い音と同時に後頭部に痛みが走った。ずきずきする頭を押さえながら立ち上がると、そこに先生の姿はない。おやと思い視線をめぐらせ、足元を見下ろす。
 ――いた。なんか仰向けに伸びてる人がいた。
「……大丈夫ですか? 先生」
「………………だめかも……」
 どうやら立ち上がろうとした私の頭が先生のあごにクリーンヒットしたらしい。そういえばあのとき、ぐえ、だか、ぐあ、だか、そんなような断末魔が聞こえたような気がしないでもない。身長差はときに凶器と化すことを学んだ。
 ……それにしても、なぜだろう。こんなふうに果てしなく情けない姿を見ると、妙に安心してしまうのは。
 はっとわれに返った。三十過ぎの男が大の字になっている姿になごんでいる場合ではない。茂みから飛び出したあの生き物はどこへ行ったのだろう。
 あわてて周囲を見まわすが、探すまでもなかった。
 ――いた。またしても足元にいた。いまだひっくり返ったままの先生のすぐそばで、その頬をちろちろと舐めている。白い、もこもことした物体だった。
「な〜ご」
 ……田増夫人の愛猫・カトリーヌちゃんである。
 この巨体、この鳴き声、この首輪――なんかフリルがびらびら付いているショッキングピンクのこの首輪。暗がりでもよくわかる。間違いない、どこからどう見てもカトリーヌちゃんだ。
 白いエスニックはのそのそと這うように進んで、先生のおなかの上にどっかりと寝そべった。ご満悦らしく目を細め、ゴロゴロとのどを鳴らしてすっかりくつろぎモードだ。よほど居心地がいいのだろう。しかし先生のほうはたまったものではなかった。
「おっ……重……ッ!」
 呼吸もままならず、苦しげに身を起こす。布団代わりにしていたおなかからすべり落ちるカトリーヌちゃんだったが、ごろりと一回転し、地面の上に転がされてもまったく動じずに眠っていた。こいつあ大物だ。
「でも、なんでこの子がこんなところに……?」
「家を抜け出してきたのかな。連れ帰ってあげないと……」
 そう言って先生は、丸まっているカトリーヌちゃんを両手で抱き上げた。予想以上の重さに一瞬よろめきかけたところを、私は見逃さない。
 結局、幽霊にもUMAにも会えないまま、メタボ猫を一匹ゲットして、長すぎる休憩は終了した。

「――それにしても碧乃君」
 田増家に戻る途中、たしなめるように先生が言った。
「あんまり危ないことは控えてね」
「危ないこと?」
「さっきみたいに突っ走るの」
 よいしょ、と腕の中で丸まる猫を抱えなおし、先生は続けた。
「昼間ならともかく、こんな暗い中で土手を降りていこうとしたりして。怪我するよ、ほんとに」
「むう……ごめんなさい。でもあそこにいる生き物を確かめずにはいられなかったのです」
 われながらひさびさに暴走してしまったなと思う。なる子ちゃんから九重区七不思議を聞いたりして、元オカ研会長の血が騒いでしまったのだろうか。
 先生は少々あきれたようにゆるく笑う。高校時代はあんなことばかりしていたの? と。
「ングマ・モネネでもモケーレ・ムベンベでもいいけどさ、茂みにいたのが凶暴な生き物だったらどうするの。それこそあの不審者だったりしたら、怪我だけじゃ済まなかったかもしれないよ」
 さすがに動物と人間を見間違えることはない、と反論しかけて押しとどまった。そうと言いきれる保障はどこにもない。ひそんでいたのが不審者でなくとも、危険性のほうが高かったのは確かなのだ。私は自分の軽率さを反省した。
「……すみませんでした」
「わかってくれればいいよ。あの場は僕の監督不届きもあったしね」
「あ、今、子供扱いしたでしょう」
 そういう自分は草のお布団でおねんねしてたくせに、とちょっぴり反撃する。
「あれはきみのヘッドバットが華麗に決まって――」
 弁解しかけた先生の言葉の語尾は、低い鳴き声にかき消されてしまった。
 それまで先生の腕をゆりかごに眠っていたカトリーヌちゃんが、ふいに目を覚まして顔を上げている。金色の双眸は通りに先に向けられ、なにかを訴えるようにふたたび「な〜ご」と鳴いた。促されるように、私と先生も路地の先を見やった。
「あれ……」
 そこには一軒だけ明かりのついた家があった。もう夜中の二時も近いが、明日は――正確には今日は、日曜日だ。夜更かしをしている住人がいてもおかしなことはない。けれど、それが先ほどここに来たときには真っ暗だった家だとしたら。九重区七不思議その25・黒魔術の家だとしたら。
 恐怖はなかった。ただ少し感心していた。なる子ちゃんが言っていた噂も、多少は真実が含まれているようだ。
「単に帰宅が遅いだけなのかもしれませんけどね」
 むしろそういうオカルトのオの字もない理由である可能性のほうが高い。
 先生が苦笑しながら同意すると、さらに「な〜ご」と返事が続いた。カトリーヌちゃんが身じろぎし、先生の腕からぼてんと飛び降りる。……明らかに猫の擬音ではない。しかしカトリーヌちゃん本人は気にする様子もなく、のどを鳴らしながら先生の靴とズボンに白い巨体をこすりつけている。どうやらこの人間のことがいたく気に入ったらしい。
 それから心ゆくまで先生の足にマーキングし終えると、カトリーヌちゃんはてこてこと歩いて田増家へ帰っていった。慣れた様子で玄関ドアにある猫用入り口から家の中へ消える。無用心にも、その小さなドアには鍵が掛けられていないらしかった。もしかしたらカトリーヌちゃん、毎晩のようにこうして家を抜け出してはご近所を徘徊しているのだろうか。
「にしても先生、猫にはおモテになるんですねえ〜」
「あれ、嫉妬?」
「……………………」
 先生はその夜、アスファルトをお布団におねんねすることになった。

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