便利屋×冥探偵日誌 2


203号室デ逢イマショウ 後編



『アア……グ……ッ、う……ア、く……ッ』
 左腕を肩ごと吹き飛ばされた女が、苦痛のうめきとともに崩れ落ちる。長い黒髪が蛇のように畳の上をうねった。うずくまる彼女に向け、「さあ観念しな!」と言い放つと、武史は青い符を手にした。
 貼られたものを冥府へと送る符――これで今回の依頼も完了だと、誰もが胸をなでおろしかけた、そのとき。
「待った!」
 勢いあまってつんのめる武史。なんとか体勢を立て直して振り返ると、タイムをかけた人物をにらんだ。
「なんだよ!?」
「待って、なんか、変。変っていうか……声が、なんていうんだろ……とにかくなんか違和感! おかしいの!」
「それじゃ全然わかんねーよっ」
 武史は反論するが、碧乃はうまく言葉にできないのか、口ごもりながらも女の異変を訴えた。しかし、視えない武史には伝わらないし、魅貴も怪訝な顔をするばかり。何も発言しないところ見ると、石蕗もその異変とやらは感じていないようだった。
 碧乃はじれったそうに柊一朗の腕をつかんだ。
「先生! 先生ならわかりますよねっ!?」
 わかりません、とは言えず、柊一朗は返答に弱る。
 そうしている間に、女は回復してきたのか、ゆっくりと体を起こそうとしている。その様子に気づいた魅貴が声を上げ、武史が再び女のほうに向き直った。碧乃の言いたいことはよくわからないが、今はなにより除霊を優先すべきだ。武史は符を構える。
 しかし、なおも止めようとする碧乃。柊一朗は、助手の必死な訴えなにかを感じ、目を凝らした。
「…………?」
 ゆらりと身を起こす女。その姿が、ほんの一瞬、揺らいだように見えた。
 柊一朗は目を細める。また、女が揺らいだ。――違う。かすんで、いや、ダブって見えた。ふたつの絵を重ねて透かしたように、女の姿がふたり分、重なって見えた。碧乃が言っていたのはこのことか?
「待って!」
 今度は柊一朗が叫ぶ。またか! と苛立ちながら武史が振り返った。
「確かに変だ。重なって見える……。ふたりいるのか?」
 正体がつかめず、柊一朗はひとりごつ。魅貴と石蕗も女の姿に注目した。
 ぐらり、と振れ幅が大きくなる。魅貴が「あ!」と声を上げた。確かに女の姿がぶれて見える。ふたつの姿が重なって、それが今、大きくずれている。
「…もうひとりいるようですね」
「なんだなんだ? まさか分裂したっていうのか!?」
 石蕗の呟きに、ひとり様子をとらえることのできない武史が狼狽するが、答えられる者は誰もいない。どうしようもできずにいると、とうとう女は立ち上がってしまった。先ほどよりさらに醜くゆがんだ形相で、怨嗟の声を吐く。
『ウ、裏切リ者……な……死ンデシマエ……ミンナ、ミンナ……さ、な……死ンデ……』
 女の声に、ノイズのように混じって聞こえるもうひとつの声。
 さな――確かにそう言った。『佐菜』、と。
「上原さん!?」
 叫んだのは碧乃だった。そして同時に、違和感の正体を理解する。
「上原さんの霊がいる! 囚われてるのよ、あいつに!」
「なにィ!?」
 武史は思わず符を持つ手を引っ込めた。
 今この符を貼れば、上原 祐哉の霊もろとも冥府へ送ることになるだろう。しかし、彼は望んで現世にとどまっているわけではない。みずからの意思で成仏可能かもしれない霊を、無理やり除霊することはできないのだ。
「やっかいだな……」
 武史は奥歯を噛む。どうにかしてふたりを完全に引き剥がさなければ。
「社長! さっきの一撃で離れかけたんだから、もう一発食らわせれば……!」
「だめだよ。あの符は強力すぎる。上原さんまでダメージを受けてしまう」
 魅貴の提案を柊一朗が制止する。
 確かに、先刻の攻撃で苦悶しているのは女だけではなかった。上原 祐哉もまた、同じように痛みにあえいでいる。怨霊化していない霊に符を使えば、最悪消滅させてしまう可能性もあった。霊とはいえ元は人――その意思を尊重しない方法は、許されない。
 それならば、と碧乃は柊一朗の背を押した。
「先生出番ですよっ。なんとかしてください!」
「や、僕はほら、防御系だから……」
 柊一朗は左手首の数珠を示しつつ身を引いた。ふがいなさに力なく首を振ると、碧乃はその隣に立つ青年に矛先を変える。
「じゃあ石蕗さんっ、なんとかしてください!」
「…わかりました」
「え」
 ――できるの!?
 石蕗を除く全員が、心の中で総ツッコミ。驚愕の視線を一堂に集め、しかしというかやはりというか、無表情を一ミリも崩さず石蕗は武史の隣へと進み出た。そして、目にもとまらぬ指さばきで、しびびびっと九字を切る。ためらいもなく、やすやすと。
 瞬間、ウッとうめいたかと思うと、女の霊は動きを止めた。その体に重なっていた祐哉の霊が、女とは反対の方向へ引き寄せられるようにするすると離れていく。ふたつの霊体は、いとも簡単に引き剥がれてしまった。
 それを見届け、石蕗は武史にぺこりと礼をする。
「…失礼しました」
 あとはお願いしますと告げ、元の場所へ戻る石蕗。何が起きたのかわからず目をぱちくりさせる武史に、同じくあまりの早業に呆然としていた魅貴が、ふとわれに返って叫ぶ。
「社長! ふたりが離れた! 女のほうも動きが止まってるから、今のうちに早く!」
「……おっ? おお!」
 事態は呑み込めないが、ともかくチャンスらしい。武史は青い符をみたび構えると、女に語りかけた。
「さあそろそろわかってくれたか? あんたのつらさと恨みはじゅうぶん理解したよ。けどな、ここでそうしてたって、報われることはひとつもないだろ? あんたは今、輪廻の輪からはずれてしまっているんだ。すべての魂は、閻魔の裁きを受け、新しい命に生まれ変わることができる。……いや、生まれ変わらなきゃならない。あんたが今すべきことはそれなんだよ。わかるだろ?」
「今度はとびきりの美女に生まれてくればいいじゃない。そんで、男をとっかえひっかえ貢がせ放題よ!」
 まるで緊張感のない碧乃の言葉に、武史は思わず吹き出してしまう。なるほどそれもいいかもしれない。
「ま、そういう人生も送れるってこった。……どうだ? こんなボロアパートで貧乏な男どもを呪い殺すより、ずっと建設的で楽しそうだろ?」
 九字の効果はすでに切れているはずだが、女は黙って耳を傾けている。その表情は、穏やか、とまではいかずとも、静かに落ち着いたものに変わっていた。少なくとも、先ほどまでの突き刺すような憎悪は微塵も感じない。聞き入れてくれたのだろうか。
 武史はふっと微笑むと、女の胸にそっと符を貼りつけた。
 まばゆい光が、女を包む。大きく膨らんだ白い光がやわらかく弾けると、女の霊もまた、消え去っていた。
「逝ってらっしゃい」
 武史は目を閉じ、優しく呟いた。男に遊ばれた哀れな女にしばしの黙祷を捧げ、
「……ただし、アオノンの案を採用するなら、今度は自分が男から恨まれないように気をつけるんだな。――さて、と」
 忠告ののち、もうひとりの霊に話しかける。
「今度は兄ちゃんの番だ。だがあんたにこいつは必要ないか」
 そう言って、武史は取り出しかけた二枚目の青い符をポケットに戻した。
 上原 祐哉の霊は、押入れの前に静かにたたずんでいた。その表情はひどく穏やかで、満ち足りたものだった。
『――ありがとう――』
 五人の頭の中に、そよ風のような青年の声がさざめく。
『最後にひとつだけ――どうかこれを妹に……佐菜に届けてください。それから、約束を守れなくてすまない、と――』
「……ああ。その依頼、確かに承った」
 武史が力強くうなずくと、祐哉は安心したように微笑んだ。その体が、すうっと薄くなる。足元から掻き消えるように、上原 祐哉の霊は、光の粒子となって天へと昇っていった。
 やわらかな静寂があたりを包む。
「逝ったのか?」武史が尋ねると、魅貴は小さく首肯した。残るは祐哉の願いだけだ。武史は先ほど彼が示した押入れのふすまを開けた。
 その奥にひっそりとしまわれていたものは、小ぶりのペーパーバッグだった。持ち手にピンクのリボンが結ばれ、中には同じようにきれいにラッピングされた箱と、一通の手紙が入っている。まるでつい先ほどそこに置かれたかのように、それともそこだけ時間が止まっていたかのように、袋もプレゼントも、ほこりひとつかぶっていなかった。
「……下村 佐菜様……?」
 武史が取り出した封筒を碧乃が覗き込み、あて名に書かれていた名前を読み上げた。
 妹にあてた手紙だ。意図せず最後の一通となってしまった、そして、彼女のもとへ届くことのなかった手紙――
 封はされていない。武史は飾り気のない水色の封筒からおもむろに中身を取り出すと、三枚重ねてたたまれていた便せんを開いた。その行動に、魅貴があっと声を漏らしたが、それ以上止めることはなかった。
『佐菜へ 成人おめでとう』
 その一文から書きだされていた手紙は、右上がりの無骨な字で妹への思いがつづられていた。その大部分が、今まで自分の居所を黙っていたことに対する謝罪の言葉で。
 決して裕福ではない今の暮らしを佐菜に知られたくなかった。それを知って、よけいな心配をかけたくなかった。そしてなにより、彼女からの返事を受け取ることが怖かった――
 もう何年も会っていない自分を、彼女はとうに他人と割り切っているかもしれない。彼女にとって過去の人間でしかない自分からの便りは、新しい生活に水をさすだけのわずらわしい存在だろう。読まずに破り捨てられているかもしれない。それでもいい。そうされて当然だ。けれど、想像することはできても、その現実を突きつけられる勇気が自分にはなかった。だから、いつまでも住所を明かすことができなかった。
「そんなこと、なかったのにね……」
 魅貴がぽつりと漏らした。佐菜はいつも兄からの手紙を楽しみにしていたのだ。やるせないすれ違いだった。
 武史が二枚の便せんをめくる。すると、三枚目の便せんの最後には、半年前まで祐哉が住んでいた、このアパートの住所が書かれていた。
『今度、会おう。いつでも待っているから』
 そのたった数行を書くだけに、どれだけの勇気を要したことだろう。それは結局、実現されることはなかったけれど――
「これ、きっと成人のお祝いだね。会ったときに佐菜さんに渡すつもりだったんだ……」
「ああ。責任持って妹さんに届けてやるから、安心しなよ」
 碧乃の呟きに武史が返す。その言葉は、今もどこかで妹を見守っているであろう、兄に向けられたものだった。

* * *

 それぞれの依頼を無事遂げた二組は、ようやく狭っ苦しい部屋から脱出し、アパートをあとにした。そのままの足で、福岡組を送り届けるべく出発する。運転席に石蕗、助手席に柊一朗、後部座席に残る四捨五入はたち組三名を乗せ、ルポGTIは一路羽田空港を目指した。
「…上原さんですが」
 道中、にぎやかだった車内の会話がふと途切れたとき、石蕗がなんの脈絡もなく発言した。四人の目が自然と運転席に向けられる。
「…お仕事は長距離トラックの運転手をされていたようですね」
 さらりと、とるに足らないことのように、彼は告げた。その間、視線をちらとも動かさず、言い終わったあともただ前方だけを見据えて、石蕗は法定速度で車を走らせ続ける。
「ちょ……え? なんだよブッキー、それどこ情報だよ!?」
 武史の叫びを皮切りに、後部座席が騒ぎだす。本当!? いつ調べたの!? なんでわかったの!? 等々、質問攻めにされるが、石蕗はただ一言、
「…みなさんが事務所を出たあとに」
 ……調べましたということだろうが、そんな回答で納得できるわけもなし。なおもわめく三人に、石蕗は言葉少なに説明を加えた。
 いわく、福岡組の依頼人の名は、柊一朗たち同様、武史が持ってきた手紙のあて名で知ることができた。それを頼りに少々調べてみたところ、兄である上原 祐哉の名前もわかり、現住所と職業も芋づる式に判明したのだという。ちなみに死因は急性心不全――ようするに過労死だった。
「はあ〜……それで消印が全国各地に散らばってたってわけか」
「幽霊に呪い殺されたっていうのは、結局噂にすぎなかったんだ」
 ――じゃなくて!!
 武史と魅貴の息の合ったダブルツッコミ。なるほどとうなずいている場合ではない。福岡のふたりが懸命に調べてもわからなかったことを、石蕗はわずか半日足らずで突きとめてしまったのだ。
「ほっ、ほら! こっちは現地の東京だから、いろいろ調べやすかったんだと思うよ」
 などと柊一朗がフォローをするも、なぐさめにしか聞こえず、みじめさが増すだけであった。のちほど碧乃が、「……石蕗さんを普通の人と比べちゃだめだから」とふたりに耳打ちしたが、それがすべてなのだろう。最後に謎がすべて晴れて逆によかったじゃないか、と無理やりおのれを納得させる武史と魅貴だった。
 その後、明るさを取り戻した一行は、空港の駐車場に到着すると車を降りた。
「今日はありがとう。今回も助けてもらってばかりいて、なんだか申し訳ないな……」
「気にすんな、それはこっちも同じだから。世話になったよ……特にブッキーには」
 言って、武史と柊一朗は石蕗を見る。
「…いえ、私は何も」
 謙遜がすぎる万能秘書だった。
「ねねねっ、今度は仕事じゃなく遊びにおいでよ! 宿は提供するからさっ。荷物持ちふたりとイケメンひとり連れて、グルメ&ショッピングツアーとしゃれ込みまっしょい!」
「うんうん! 絶対来るよ! 碧乃たちも福岡に遊びに来てねっ」
「行く行くー! 中州の屋台で食い倒れたーい!」
 なにやら女性陣は大盛り上がりだ。別れを惜しむのもそこそこに、さっそく次に来たときの計画を立てている。気が早いにもほどがあるだろう。
「それじゃあ」
「またね」
「うん、また!」
「行きますか」
「…お気をつけて」
 おのおの別れのあいさつを告げると、福岡のふたりは空港へ向かい、東京の三人は再び車へと乗り込んだ。

 それからしばらくのち――
 混み合う空港のロビーで搭乗アナウンスを待ちながら、長いすに腰掛けた武史が大きく伸びをした。狭い部屋にすし詰めのコンパクトカー。今日は窮屈な思いばかりしていた気がする。このあともエコノミークラスで一時間のフライトが控えているのだが。
「あーあー、うちもとびきり優秀な秘書でも雇うかなー」
 誰に言うでもなく武史が呟くと、こつん、と後頭部になにかがぶつかった。振り返ると、土産物屋の行列から帰還した魅貴が立っていた。先ほどの小さな衝撃は、東京ばな奈しっとりクーヘンの箱の角だったようだ。
 魅貴は頬を膨らませ、少々ご機嫌ななめの様子で武史の隣に腰を下ろす。
「とびきり優秀な助手だけじゃご不満?」
「……めっそうもございません」
 ははーっと大げさにひれ伏せてみせる武史に、魅貴はうむうむとうなずいた。それから思い出したように携帯電話を取り出し、いずこへとメールを送る。
「ん? 誰あてのメールだ?」
 武史の質問に、魅貴はにんまり笑って答えた。
「この前のお返し。……ま、わかりきってるけどね」

 ちょうど事務所の駐車場に着いたとき、後部座席に座る碧乃の携帯が鳴った。ポケットから取り出しディスプレイを見ると、メールが一通届いている。送り主は魅貴。忘れ物でもしたのだろうかと首をかしげながら、碧乃はメールを開いた。

『件名:そういえば……

 本文:どっちが本命?』

「んな……ッ!!」
 碧乃は思わず絶句する。そして、前回自分が送ったメールを思い出し、みごとにしてやられたことを痛感した。
 わなわなと打ち震える碧乃に、助手席の柊一朗が尋ねる。
「どうしたの碧乃君。着いたよ?」
 返事はない。柊一朗は訝しがりながらも、シートベルトをはずした。うつむいている彼女の顔が真っ赤に染まっていることにまでは気づいていないようだ。柊一朗は助手席のドアを開け、車を降りようとした。瞬間、シートががくんと倒れて前に押し出される。
 ごん、という鈍い音と、ぐえ、という断末魔。
 運転席の石蕗が冷ややかな視線を送ると、そこにはシートとダッシュボードにサンドイッチされた人っぽいものがあった。それをなおも押しつぶし、後部座席の碧乃が無理やり前のドアから外へ出る。ルポはスリードアなのでそこから降りるしかないのだ。車内からいたたたたたとなにか聞こえたような気もしたが、石蕗は気にせず車を降りた。
 ふたりが降車してしばらくしたあと、残る一名が這うように助手席から転がり出てきた。
「遅い!」
 ぼろ雑巾のようなそれに、碧乃が厳しく怒鳴りつける。
「きみのせいだよ……」
 雑巾、もとい柊一朗は涙を浮かべながら呟いた。しかし碧乃にギンとにらまれるとすぐさま黙ってしまう。
「ぶつくさ言ってないでとっと事務所戻りますよ! やることはたくさんあるんだから!」
「報告書の作成とか?」
「それもありますけど……というかそれは丸ごと先生の仕事ですけど。じゃなくて請求書、請求書ですよっ!」
「……請求書?」
「但し書きはガラス代及びふすま修理代。あて名は――」
 碧乃は左手を腰に添え、遥か九州を指差した。
「龍幻寺探偵社!」
 びしりと言い放つと、碧乃は柊一朗の腕を引いてバタバタとあわただしくビルの中へと消えていった。そんなふたりの背を見て、石蕗がほんのわずかに微笑んだとか、そうでなかったとか。

FIN.

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