+CLOVER+


 青空を見て笑う。流れる川を見て笑う。道端の花を見て笑う。
 彼女はまるで初めて目にするかのように、驚き、喜び、感動する。そして決まってこう言うのだ。
「きれいだね」、と。
 彼女の目には、世界はどう映っているのだろう。きっと見るものすべてが新鮮で美しいに違いない。
 それは生きていくうちに、やがて誰もが失っていく感覚。
 彼女もいつか失うのだろうか。世界を美しいと思えなくなる日が来るのだろうか。それがこの旅の結末なのだろうか。
 もしそうだとしたら――僕は、とんでもない罪を犯そうとしているのかもしれない。


リアトリスの章
− 砂漠の戦姫 1 −


 完全な判断ミスだ。
 アスターは心底そう思った。たった一駅、たった一駅分の列車代を惜しんだばかりに、こんな苦労するはめになってしまったんだ、と。

 王都ガルトニアの南、リアトリス公国は国の半分近くが砂漠で覆われている。そのためガルトニアからリアトリスの国都に行くには、東へ大回りしない限り必ず砂漠を横断しなければならない。
 幸いなことに、国都までは直通の列車が出ている。砂漠の中を走り抜ける列車は大陸内でもちょっとした名物だった。しかしそれゆえなかなか値が張る。職に就かずあてのない旅を続けているアスターにとっては、できれば避けたい出費だった。そこで王都の一歩手前、レリア砂漠オアシス駅で降りたのだが――オアシスとは名ばかり。そこは辺り一面、灼熱の砂で覆われていた。
「完全な判断ミスだ……」
 今度は口に出して呟く。
 町まではあとどのくらいなのだろう。ひたすらレールに沿って歩いてきた足跡は、振り返ればもう地平線の果てにまで続いている。当然のことながら、こんな所で降車したのはアスターの他には誰もいなかった。ただ一人、彼の小さな同行者を除いては。
「アスター! はやくー!」
 そう言ってだいぶ先を歩く少女が手を振った。アスターは疲労の溜まった覇気のない声で答える。
「クローバー、そんなに急ぐと転ぶよー」
 今すぐにでも座り込みたいアスターとは反対に、クローバーは随分元気そうだ。砂漠の真ん中に放り出された時も、見渡す限りの砂の大地に「すごい! きれい!」とはしゃいでいた。暑さも疲れも感じていないかのように、歩きにくい砂の上を器用に進んでいく。
 不意にクローバーの足が止まった。そして振り返り、声を上げる。
「アスター! き! き!」
「き?」
 嬉しそうにその一文字を連呼している。アスターは首を傾げたが、クローバーに追いついた時、それが何を意味していたのかを理解した。
 オレンジ色と緑のコントラスト。
 木、だ。地平線の向こうに突如現れたそれは、まるで奇妙なオブジェに思えてしまうほど周りの景色とはあまりにも不釣合いだった。
「オアシスだ」
 そう呟いたアスターの顔をクローバーが不思議そうに覗き込む。
「おあしす?」
「そう、オアシス。助かった……。あそこまで行ったら少し休んでいこう」
「うん!」
 クローバーは嬉しそうに頷いたが、アスターはふと考える。もしかして蜃気楼では、と。
 しかし足を進めるに連れ、アスターの表情は明るくなっていった。どれだけ近づいても覆い茂った草木が逃げることはない。いつの間にかアスターとクローバーは駆け足になっていた。

 木々の間を通り抜ける涼しい風が頬を撫でる。オアシスの緑の中は砂漠の上とは別世界だった。
 立ち木を掻き分けて進んで行くクローバーが再び声を上げる。
「わぁ……アスター、水があるよ!」
 クローバーが指差す先には、小さいが澄んだ水を湛えた泉があった。
 アスターは思わず感嘆の息を漏らす。それはまさに、自分が今一番求めていたものだった。
「行こう」
 そう言って微笑むと、アスターはクローバーの手を取った。そして泉に向かって駆け出したが――

「誰だ!?」

 突然鋭い声が響き、二人は足を止めた。
 見ると、泉には先客がいる。どうやら声の主はその人物のようだった。
「お前たち、何者だ?」
 再び厳しい口調で問いただす。
 最初に目に入ってきたのは真っ白な装束。一枚の布で作られた、リアトリス独特の衣装だった。そして、それに映える漆黒の髪。腰ほどまである長い髪が、さらさらと音を立てるように揺れていた。
 美しい。単純にその形容詞が一番ふさわしかった。そこにいたのは、一人のオーツの少女だった。
「ただの旅人だよ」
 アスターはそう答えると、怪しい者ではない、と両手を挙げた。少女は無言で睨みつける。その手に剣が握られていることに気づき、クローバーは怯えるようにアスターの後ろに隠れた。
 少女の視線は、アスターの目と、彼が腰に差した剣の間を行き来する。その瞳は燃えるような真紅だった。強い意志が宿った瞳。しばらく経ったあと、それがふっと緩んだ。
「こんな所で何をしている?」
 口調は先程と変わらなかったが、右手は剣の柄から下ろされていた。どうやら警戒は解かれたらしい。アスターも手を下ろすと小さく息をついた。クローバーの頭にそっと手を置き、大丈夫だ、と声を掛ける。
「もちろん旅だよ。国都に行く途中なんだ」
 アスターはそう答えると、クローバーの手を引いて泉に歩み寄った。少女はそんな二人を注意深く観察しながら泉の淵に腰を下ろす。
「砂漠を歩いてきたのか? 列車を使えばいいものを」
「あいにく金欠でね。一駅分足りなかったんだ」
 そう言って苦笑しながら泉の中に手を差し入れる。透き通った水が波紋を描き、途端にひんやりとした感覚が全身に広がった。それまでの疲れを忘れるほどの心地よい冷たさだった。クローバーも真似して両手を浸ける。
「つめたい……。アスター、きもちいいね」
 にっこりと笑いかけられ、アスターもつい微笑み返してしまう。それを見て少女が尋ねた。
「アスター? お前、アスターというのか」
「そうだよ。こっちはクローバー。君は?」
「私は」
 少女がそう言いかけた時、背後の茂みが音を立てた。三人が一斉に振り返る。アスターと少女の右手は反射的に剣の柄へ添えられていた。息を潜めて立ち上がると、アスターは庇うようにクローバを背にやる。
 茂みが再び音を立てて揺れた。現われたのは、四人の男。その姿を目にした瞬間、少女は剣を抜いた。
 青い髪に金色の瞳。その容姿は紛れもなく彼らがロゼアだということを示していた。
「ここはリアトリスの地だ! お前たちロゼアが足を踏み入れていい場所ではない!」
 少女はそう叫ぶと剣を構えて走り出した。ロゼアの一人が杖を掲げて詠唱を始めるが、魔術が発動するより速く、少女が杖を弾き飛ばす。そしてそのまま男に斬りかかった。男はとっさに身体をそらすが、剣の先が右腕を捕らえ、肩からひじにかけて大きく傷が走った。
 流れるように少女は身を翻す。背後に立つ男の懐に飛び込み、斜め下から一気に斬り上げた。
 ロゼアは魔術に長けているが、接近戦では圧倒的に不利だ。少女の動きはそれを十分に知った上でのものだった。とても素人ができるものではない。
 アスターはその動きに見入ってしまっていた。しかし、男が取り出した物の鈍い輝きに気づき、我に返る。
「――危ない!」
 少女の背後に回り込み、剣でそれを受け止める。男が取り出したのは短剣だった。
 刃同士がぶつかり合いギチギチと音を立てる。相手の剣を弾き飛ばしたのはアスターの方だった。短剣が宙に舞ったその瞬間、男のみぞおちに膝蹴りを叩き込む。ぐうっと呻き声を漏らし、男は地面に倒れ込んだ。
 アスターは剣を掲げる。このまま振り下ろせば、間違いなく男の首から上は胴体から離れることになるだろう。
 しかしアスターはためらった。心のどこかでその行為を拒む自分が、いる。
 アスターが斬りかかってこないことに気づき、男は這うように後ずさった。よろよろと立ち上がり、一目散に逃げ出す。それに続くように他の男たちもその場を立ち去っていった。倒れていた男も仲間が引きずって逃げ、その場はまた三人だけとなった。
「なぜ斬らなかった?」
 剣を手にしたまま立ちすくむアスターに少女が声を掛ける。アスターは振り返ると少し考え込んだ。
「……僕には斬る理由がない」
「理由?」
「それに、斬る必要もなかった」
 その言葉に少女は怪訝そうな顔をする。
「奴らはロゼアだ。それだけで斬る必要がある」
 きっぱりと言い切る少女に、アスターは少し困ったような笑みを返す。それまで木の陰に隠れていたクローバーが駆け寄り、そんなアスターを心配そうに覗き込んだ。
 その時、またしても茂みが音を立てた。先程のロゼアの残党か、と再び剣を構える。しかし現れた集団を見て、アスターも少女も安堵の表情を浮かべた。
 銀色の鎧に身を包んだ男たち。アスターにも見覚えがあった。リアトリスの兵士たちだ。
 見回りの途中なのだろう。アスターはそう思った。しかしその考えは、次の瞬間、隊長らしき人物が発した言葉によって打ち砕かれた。

「この者を捕らえよ!」

 呆然としているアスターとクローバーを兵士たちが取り囲む。そして、少女に駆け寄った兵士の口から再び予想もしない言葉が発せられた。
「ご無事ですか、姫!?」

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