リアトリス公国は、王都ガルトニアと同じく大陸の西と東の境目に位置している。そのためガルトニアほどではないが、日々ロゼアとの争いが絶えない国でもあった。
　そんなリアトリスには有名なものが二つある。
　一つは、レリア砂漠を縦断する砂上列車。
　そしてもう一つは、国王の一人娘、セフィアーナ姫だ。
　セフィアーナには他国の姫とは大きく異なる点があった。彼女はその手に剣を持ち、盾を持ち、自ら戦いに赴くことを望んだ。常に前線に立ち、強靭な兵士たちに負けずとも劣らずの威を振るう。その姿は勇ましく、そして同時に美しくもあった。ひとたび彼女が剣を振るえば、敵も味方もたちまち目を奪われ、その場に立ちすくんでしまうという。まるで精霊の舞を目にしているかのように。
『砂漠の戦姫』
　いつしか彼女はそう呼ばれるようになり、やがてその二つ名はコルディア大陸全土に知れ渡った。

「それがあの女の子だったとはなぁ……」
　アスターの呟きが冷たい石の壁に反響する。
　暗く狭い部屋だ。廊下にあるろうそくが、心もとなげに揺れている。
　リアトリスの兵士たちが現れた時、アスターと少女は対峙していた。アスターの手には剣が握られ、少女は傷を負っている。はたから見ればアスターが少女を斬りつけたように見えるだろう。弁解をしなければ、当然アスターは罪に問われる。その相手が一国の姫ともなれば、問答無用で城の地下牢に放り込まれても然りだ。
　もちろん誤解だと訴えた。少女――セフィアーナも事態を察し、これはロゼアの男につけられた傷だと主張した。しかし隊長らしき人物は、話は城に着いてから聞くと言ったきりで今に至る。
　牢に入れられてからだいぶ時間が経った。自分の疑いは晴れたのだろうか。それとも、すでに処刑方法の相談でもしているのだろうか。こともあろうに姫を傷つけたとなれば――最悪、死罪になるだろうか。
　どこか他人事のようにぼんやりと考えていたアスターは、隣に座る少女の声で我に返った。
「アスター……」
　深い緑色の瞳が不安げに揺れている。
　まったく状況を呑み込めていないクローバーだったが、そんな彼女でも、さすがに自分たちが歓迎されてるのではないことは理解しているようだった。
「アスター、わるいことしてないよね？」
　その声があまりにもか細く、その表情があまりにも頼りなげで、アスターは少しでも安心させようとクローバーに微笑みかける。
「してないよ。してないけど……少し勘違いされてしまったみたいだ」
「……あの人が、おひめさまだったから？」
　どうやらアスターと兵士たちのやり取りを聞き、クローバーも自分なりにこうなってしまった理由を考えていたらしい。アスターはますますいたたまれない気持ちになり、思わずクローバーの頭に手を置いた。
「大丈夫だよ。クローバーは必ずここから出してあげるから」
「アスターは？　アスターも一緒に出られるよね？」
「僕は……」
　仮に自分の処罰が決まっても、クローバーだけなら助ける方法はある。自分が無理やり連れ回していた、そう言えばいいだけのことだ。こんな小さな少女を連れて旅をしているなんて、むしろそちらの方が疑わしい。
　けれど――そう言ったところでクローバーは納得してはくれないだろう。
　さて、どうしたものか。アスターは低い天井を仰ぎ見ると、後ろの壁に寄り掛かった。その時、ふと背中に違和感を覚える。振り返って暗がりに目を凝らしてみると、ちょうど寄り掛かった壁の部分にわずかだが亀裂が入っていることに気がついた。
　それを見て考え込む。そんなアスターを覗き込み、クローバーが尋ねた。
「どうしたの？」
「クローバー、ちょっとどいてて」
　そう言うとアスターは立ち上がり、クローバーを自分の後ろに下がらせた。廊下の様子を窺い、誰もいないことを確認する。そして再び壁の亀裂に向き直り――

　ガンッ！

　鈍い衝撃音が辺りに響く。クローバーは驚いて肩をすくめた。しかしアスターは気にすることなく再び壁を思いきり蹴る。
　ガツン！　ガツン！　その音は回数を重ねるごとにくぐもっていく。やがてゴトンという音がして、アスターは動きを止めた。
「ダメか……」
　溜息をつき、座り込む。
　亀裂は先程より大きくなり、わずかに穴も開いたが、とてもアスターが通れる大きさではなかった。壁は意外に薄かったようだが、それでも足の力ではこれが限界だ。牢に入れられる前、剣を取り上げられたことを悔やむ。
　クローバーはアスターの隣にしゃがむと、壁にできた穴を覗いた。
「これ、わたしなら通れるよ」
「え？」
　アスターが尋ねる間もなく、クローバーはその穴に頭を入れた。慌ててアスターが引き止めようとするが、クローバーの小さな体は、すでに半分以上が壁の向こう側に行ってる。
「だいじょうぶ、だいじょうぶ」
　壁の向こうからそんな声が聞こえたかと思ったら、クローバーはするりとその穴を通り抜けてしまった。
「クローバー！　クローバー！」
　アスターは穴を覗き込んで叫ぶが、壁の向こうには暗闇が広がっているだけだった。代わりにクローバーの明るい声が返ってくる。
「だいじょうぶだよ。わたし、だれか呼んでくるね！」
「クローバー待って！　そこはどこ？　周りはどうなってる？」
「まわり？　よく見えないけど、水があるみたい。待ってて、アスターを出してもらうようにたのんでくるから！」
「クローバー？　クローバー、戻ってくるんだ！」
　しかしパタパタという足音が遠ざかっていくだけで、返事は返ってこなかった。

　クローバーが通り抜けた先、牢の向こう側は地下水路になっていた。カナートと呼ばれるリアトリス独特の灌漑用水路で、砂漠の地下にまで広がっている。
　だいぶ暗闇に目が慣れたクローバーは、まったく方向がわからないまま水路を進んでいた。一人で心細いが、きっと牢に残されたアスターも同じだろう。自分が助けなければ。そう心に決め歩いていく。
　その時、水路の向こうに小さな明かりが見えた。
　誰かがこちらに向かってくる。クローバーははっとして足を止めた。明かりはどんどんこちらへ近づいてくる。思わず逃げ出そうとクローバーが踵を返した時だった。
「誰かいるのか？」
　聞き覚えのある声に、クローバーは恐る恐る振り返る。光に照らし出されたその顔は、オアシスで出会ったあの少女、セフィアーナだった。あの時と同じく白い装束をまとい、腰には剣を提げている。手に持つ光はランタンのものだった。
「……おひめさま？」
「お前は確か、アスターという男と一緒にいた……」
「クローバー」
「ああ」
　セフィアーナは頷く。しかしすぐに怪訝そうな顔をした。
「どうしてこんな所に？　お前一人なのか？」
「アスターはまだあのせまい部屋にいるの。おねがい、アスターを出してあげて。アスターなにもわることしてないよ！」
　必死に訴えかけるクローバーを見てセフィアーナは納得した。
「そうか、まだ牢に入れられたままだったのか。すまなかったな、私のせいで。だが安心しろ。ラグラスには私からちゃんと説明をしておいた。じきにアスターも釈放されるだろう」
「らぐらす？」
「兵隊長の名だ」
　わからない単語だらけのセフィアーナの言葉をクローバーは必死に解読する。しばらく考え込んだあと、不安そうに呟いた。
「アスター、出してもらえるの？」
「ああ。だからお前も早く戻るといい」
　それを聞き、クローバーの表情が一気に明るくなった。そして大きく頷く。
「うん！　ありがとう、えっと……」
「セフィアーナだ」
「セフィアーナ……。ありがとう、セフィアーナ！」
　不思議な少女だ。セフィアーナは思う。
　この国に住む者ならどんなに幼い子供でも、自分の名前を聞いた途端に態度が一転する。言葉は敬語に変わり、過剰なくらいへりくだる。そもそも呼び捨てにすることなどまずありえない。それなのにこの少女は、そんなことなど気にも留めずに接してくる。まるで『姫』という存在そのものがわかっていないかのように。
　けれど、まったく嫌な気がしない。むしろどこか温かい気持ちになってしまうから余計に不思議なのだ。
「アスターも心配しているだろう。牢まで送っていく。私が一緒なら城の中も歩けるからな」
　セフィアーナはふっと微笑んだ。それまでの凛々しさが消え、優しい雰囲気が彼女を包む。クローバーも嬉しそうに笑い返した。
　しかし二人は気づいていなかった。暗闇に潜み、自分たちに忍び寄る影に――