+CLOVER+

リアトリスの章
− 砂漠の戦姫 3 −


 クローバーが出ていってからどれくらい経っただろうか。階段を下りてくる足音に気づき、アスターはとっさに身を起こした。そして穴を隠すように壁に寄り掛かる。
 足音は一人分。こちらへ近づいてくる。ようやく身の潔白が証明されたのか、それとも処刑の宣告に来たのか。
 やがて足音はアスターの目の前で止まった。牢越しにこちらを見下ろすのは、銀色の鎧を身に着けた体格のいい男。アスターとクローバーをここに放り込んだ兵隊長らしき人物だった。
「釈放だ」
 低い声で一言告げる。そして頭を下げた。
「話はすべて聞いた。セフィアーナ様を救ってくれたというのに大変失礼なことをした」
「いえ、わかってもらえたのならいいです」
 とりあえず誤解が解け、アスターはほっと胸を撫で下ろした。しかし男はそう言ったきりで、牢の鍵を開けようとはしない。それにクローバーがいなくなっていることについても何も言おうとしなかった。
 アスターは不審に思い、男に尋ねる。
「出してくれないんですか?」
 男はしばらく黙ってこちらを見ていたが、ようやく口を開いた。
「アスター=ハーチェリアといったな」
「……そうですが?」
「その名前、リアトリスまで聞き及んでいる。ガルトニア王宮騎士団一番隊隊長だな?」
 突然自分の名前を言われ、アスターは少し驚いたが、そのあとの言葉を聞いて納得した。しかし同時にうんざりもする。どうやら自分が思っている以上に『王宮騎士団一番隊隊長』の肩書きは大きいものらしい。自分の名前だけが独り歩きしているようだ。
 アスターは小さく溜息をつくと、以前にも言った覚えのある台詞を口にした。
「正確には『元』、ですけどね」
 それを聞き男ははっとする。しかしすぐに申し訳なさそうな顔で言った。
「すまない、一番隊はもう……」
「いえ、いいんです。それよりそれがどうかしたんですか?」
 アスターが尋ねると、男は再び黙り込む。その表情が何か思い詰めているかのように険しく、アスターの不審感はさらに強まった。
 やがて決心したように顔を上げた男の口から出たのは、思いもしない言葉だった。

*

「オイ、引渡しの手はずはどうなっている?」
「大丈夫だ。もうすぐここにやって来るはずだからな」
 数人の男たちの声が響く。辺りは薄暗く、四方は岩の壁で囲まれていた。どうやらそこは洞窟のようだった。
 男の一人が下卑た笑いを浮かべて振り返る。
「だとよ。それまで大人しくしてるんだな、お姫様」
 視線の先にいるのは、手足を縄で縛られた二人の少女。一人はセフィアーナ、そしてもう一人はクローバーだった。
 二人は地下水路で出会ったあと、突然見知らぬ男たちに襲われた。セフィアーナは瞬時にロゼアかと思ったがそうではない。男たちは六人いたが、全員彼女と同じオーツだった。さすが戦姫も、大の男六人の不意打ちにクローバーと共に捕まってしまった。そして男たちに連れられカナートを通ってやって来たのがこの洞窟だった。
 セフィアーナは隣に視線を移す。自分と同じように拘束された小さな少女は、不安げに辺りの様子を窺っていた。
 こうなった原因が自分にあることなど聞くまでもない。姫だからだ。
 誘拐して身代金でも要求するつもりなのだろうか。それとも「引渡し」と言うくらいだから、人買いに売り飛ばされるのだろうか。きっと自分にはさぞかし高値がつくに違いない。しかし無関係なクローバーまで巻き込んでしまったことが、セフィアーナにとってはどうしようもなく心苦しかった。
「クローバー、すまない。私のせいで……」
 セフィアーナは小声で呟いた。クローバーはしばらくその言葉の意味を考えていたようだったが、すぐに明るい表情で答えた。
「だいじょうぶ。きっとアスターが助けに来てくれるよ」
「そうか……。お前はアスターのことを信じているんだな」
「うん!」
 クローバーは大きく頷いた。その表情には先程の不安げな様子は微塵もない。セフィアーナはそんなクローバを見ると寂しげに微笑んだ。
「羨ましいな。そんなふうに信じられる相手がいて」
 自分は攫われたことすら気づかれていないかもしれない。もし気づいていたとしても、果たしてこの場所がわかるだろうか。おそらく砂漠のどこかであることは間違いないが、場所がわかったとしても、助けに来る者がいるかどうか。
 うついたまま黙り込んでいるセフィアーナをクローバーがそっと覗き込む。この状況に怯えていると思ったのだろうか、クローバーは元気づけようと声を掛けた。
「だいじょうぶだよ! きっとここから出られる。セフィアーナのことだって、お父さんやお母さんや、ほかのみんなも心配してるはずだよ」
「どうだろうな。お父様は私のことなど、政治の道具にしか思っていないだろう。他の者だって、私が姫でなければきっと……」
 そこまで言って、セフィアーナは自分を嘲るような笑みを浮かべた。クローバーはそんなセフィアーナを悲しげに見つめていた。

*

「そんなことを部外者の僕に話してしまっていいんですか?」
 ――セフィアーナ様が攫われた。
 男から突然そんな事実を聞かされ、アスターは思わず訊き返してしまった。姫が攫われたとなれば国の一大事だろう。それを間違いとはいえ、牢に入れられた一旅人にすぎない自分に話してしまっていいものなのか。
 しかし男はさらに驚きべき事実を明かす。
「攫ったのは他でもない、国王だ。正確には国王が雇った者たちだが」
「国王って……どうして父親が自分の娘を誘拐するんです」
 アスターの質問に、男の表情が苦しげに歪む。そして静かに語り始めた。
「国王はとにかく戦嫌いのお方なのだ。もちろん平和を望んでいるがゆえだろうが……しかし、それ以上に戦争によって掛かる膨大な費用を惜しんでいるような節があった。だから自ら率先して戦を行うセフィアーナ様を疎ましく思っていたのだろう。
 これは以前より一部の人間の間で噂されていたことだが、国王はエクメアの王と密かに取り引きを行ったらしい。姫を差し出す代わりにリアトリスへの不可侵を約束して欲しい、と」
 エクメアとはリアトリスの西隣にあるロゼアの国のことだ。リアトリスの戦相手はほとんどがエクメアの兵なので、リアトリスの目下の敵と言っていいだろう。
「それで姫が攫われたと言うんですか? でもそんな取り引きなんて」
「そうだ、馬鹿げてる!」
 男の声が地下牢に響いた。アスターは思わず肩を震わせてしまう。
 それまでとは打って変わり、感情が高ぶった声で男は続けた。
「たとえこれでリアトリスとエクメア間の戦争がなくなったとしても、おそらくエクメアは姫を盾に理不尽な要求をしてくるに決まっている! それどころか、姫を渡したところで本当に不可侵の契約が守られるかどうかも疑わしい。こんな馬鹿げた取り引きなどあって堪るものか!」
 男は興奮のあまり肩で息をしていた。アスターはその言動に違和感を覚える。
「リアトリスの兵士たる者が、国王に対して『馬鹿げた』だなんて……。そんな発言いいんですか?」
「……私は兵隊長のラグラスという。姫が幼い頃よりその護衛を務めてきた。私はリアトリスの兵士である前に、セフィアーナ様の護衛兵なのだ」
 本来なら当然逆であることを、男――ラグラスはきっぱりと言い切った。その顔には嘘も迷いも一つもない。
「戦を好む姫など褒められた話ではないだろう。しかし戦わなければ守れないものもある。何よりあのお方は誰よりこの国と、この国に暮らす者たちのことを思っておられるのだ。
 私はセフィアーナ様を心より尊敬し、お慕いしている。あのお方の守りたいものを、私も守りたいと思っている。だから――」
 ラグラスはアスターを真っ直ぐ見据える。そして預かっていた剣を差し出し、深々と頭を下げた。
「どうか貴公の力を貸して欲しい! このようなこと、頼めた義理ではないと重々承知だ。しかし他に頼れる者もいないのだ。どうか……ッ!」
 ラグラスの言葉に胸を打たれたのは事実だ。しかしアスターは首を横に振った。
「話はわかりました。兵が動ける状況ではないことも、あなたがどれだけ姫を想っているのかも。けれど僕には関係のない話です。密かに行われていることとはいえ、それなりに腕の立つ者が雇われているでしょう。身の危険を冒してまで姫を助けに行く理由は、僕にはありません」
 それを聞き、ラグラスはゆっくりと顔を上げる。苦い表情を浮かべていたが、アスターがそう答えることを予想していたようにも見えた。
 ラグラスは押し黙りアスターを見る。そして懐に手を入れ何かを取り出した。
「それは……!」
 途端にアスターの顔色が変わる。それは見覚えのありすぎる物だった。
「これはセフィアーナ様が攫われたと思われる場所に落ちていた物だ」
「それじゃあクローバーは……!?」
 ラグラスが取り出した物。それはクローバーの髪飾りだった。
 愕然とするアスターにラグラスの表情はまた歪む。そして重々しく頷いた。
「おそらくセフィアーナ様と共に……」
 やはり一人で行かせたのが間違いだった。どうして何がなんでも引き止めなかったのだろう。アスターは自分の行動を激しく後悔した。
 攫った者たちの目的は、あくまでセフィアーナ一人だ。本来連れ去るはずではなかったクローバーの命の保障は、どこにもない。
「……わかりました」
 アスターはそう言って立ち上がった。そして差し出された剣をしっかりと受け取る。
「協力しましょう」

HOME