彼と彼女のホワイトデー 【教師×生徒 編】

 三月十四日。
 一ヶ月前の今日と同じくらい、とまではいかないが、教室内はいつもより少しだけざわめいていた。

「ねぇ、何頼んだの?」
「えー? 私は愛がこもってればなんでも嬉しいよ♪ なーんて」
「うっわ〜。これだから彼氏持ちは」

 放課後。そんな会話が聞こえてくる教室の横を通り抜け、西崎は社会科教員室へと向かっていた。
 学年末テストも終わり、残すイベントは通知表の配付といったところか。学校も半日で終了し、数日前から授業らしい授業はなくなっていた。三学年を受け持つ教師陣は、進学やら就職やらでてんてこ舞いになっているのだろうが、二学年副担任の西崎には、それもあまり関係のないことだった。

 社会科教員室に到着すると椅子に腰掛け、カレンダーに目をやる。
 三月十四日、月曜日。
 今日はかの有名なアインシュタインの誕生日だ。一般相対性理論、ノーベル物理学賞受賞のアインシュタインだ。知らないのか?
 そう言ってあしらってやろうと用意しておいた台詞(と言っても別に調べた訳ではなく、彼の脳内に納まっているごくごく常識的な事柄の一つ)は、どうやら口にすることなく終わりそうだった。
 ちょうど一ヶ月前の見事敗退を記したあの日から、ミノリが西崎のもとへやって来る回数は徐々に減っていった。そして数日前から、とうとう放課後にすらやって来なくなってしまった。このところ、姿さえ見かけていない。
 ミノリも受験生だ。愛だの恋だのにうつつを抜かしているよりも、将来に直結する受験勉強の方が重要に決まっている。それは当然だ。
 ――けれど。けれどだ。それじゃあなんなんだ、この感覚は。
 西崎の心の中には、えも言われぬモヤモヤしたものが渦巻いていた。その得体の知れない感情に、どうにか理由をつけようとあれこれ考えを巡らす。が、西崎の思考はブツリと中断されてしまった。

「失礼しまーす!」

 久々に耳にした威勢のいい声。相変わらず校舎中に響き渡りそうなその声の主が誰であるかは、振り返らずともすぐにわかった――けれど、西崎は思わず振り返ってしまった。
「お久しぶりです、コースケさん!」
「お前……」
 ひどく驚いている西崎の様子に、ミノリは不思議そうに首を傾げる。
「あれ? 今日は『西崎先生だ』って訂正しないんですか?」
 ミノリにそう言われてはたと気がつく。

『失礼しまーす、コースケさん!』
『西崎先生だ。何度言えばわかる、岡本』
『ミノリです。コースケさんこそ、何度言えばわかるんですか?』

 もはや通例と化したやり取り。それを忘れてしまうくらい呆然としていたようだ。ミノリに指摘されてそのことに気づき、そんな自分にさらに驚く。
 無言のままの西崎に、ミノリはさらに不思議そうな顔をするが、すぐににっこりと笑った。それはいつもの何か企んでいる笑みではなく、嬉しさのあまり自然と出た笑顔だった。
「私、とうとう手に入れましたよ、試合の出場権!」
 思いがけないミノリの言葉に、今度は西崎が首を傾げる。
「出場権?」
「そうです! ……もしかして、忘れちゃったんですか?」
「…………」
 出場権、出場権。
 頭の中で何度も繰り返してみるが、思い当たる節がない。こいつ、部活何やってたっけ?
 そんな西崎にむっとすると、ミノリはカバンの中から一枚の紙を取り出した。
「合格したんです、第一志望! 昨日通知が届いたんですよ!」
 そう言って差し出された紙を受け取る。
 そこにはあったのは、大学名と学部と学科。そしてはっきりと書かれた「合格」の二文字。その下には、岡本ミノリの入学を許可したことを記す文章が書かれている。世に言う合格通知というものだ。
「コースケさんが言ったんじゃないですか! 大学受かったら相手にしてやるーって」
 ミノリにそう言われ、ようやく思い出す。
 一ヶ月前の会話だ。確かに自分は、「高校を卒業するまでは恋愛対象にならない。相手にして欲しいなら大学に受かってからだ」という内容を示唆した台詞を、闘技場やリングに例えてミノリに話していた。
 なるほど。それで出場権というわけか。
「……思い出しました?」
「ああ、そういえばそんなことも言ったな」
「でしょでしょ! 出場権はゲットしたし、これであとは卒業するだけですねっ」
 そう言って喜ぶミノリを見ているうちに、先程まで西崎を悩ませていたモヤモヤした気持ちは次第に消え去っていった。
 ようやく調子が戻ってきたな。そう思い、ふっと小さく笑った西崎にミノリが気づく。
「何笑ってるんですか? あ、コースケさんも嬉しいんでしょ〜?」
「西崎先生だ。……まさか。勘違いしてるお前の姿がちょっと面白かっただけだよ」
「勘違いー!? どういうことですかそれ!」
 打って変わって急に慌て出すミノリの様子に、西崎はさらにおかしそうに笑う。
「そのまんま。喜んでいるところ悪いが、俺は『考えとく』と言っただけで、大学に受かったら相手にしてやる、なんてことは一言も言ってないぞ?」
「な、な、なんですかそれ! そりゃ確かにはっきりとは言いませんでしたけど、あの会話の流れからいくと、そう言ってるも同然じゃないですか!」
「だからそれが勘違い。お前が勝手にそう思い込んだだけで、俺はそんなつもりで言った覚えはこれっぽっちもない」
「そんなの詐欺だぁー!!」
 喜んで、驚いて、怒って。本当に見ていて飽きないと思う。
 西崎がクスクスと笑うと、ミノリはさらに怒りをあらわにして叫んだ。
「私がどれだけ苦労して受かったと思ってるんですか! コースケさん断ちをしてまで受験勉強に打ち込んだっていうのに!」
「なんだそれ?」
「コースケさん断ちですよ! ほら、『好きなもの断ち』ってあるじゃないですか」
 好きなもの断ち。
 それが正式名称かは知らないが、自分の一番好きなものを我慢する代わりに願いを叶えてもらう、一種の願掛けのようなものだ。本当に効果があるのかどうかは謎だが、こういうのは気持ちが大事なんだろう。ミノリのやりそうなことだった。
「私の場合、もちろんそれはコースケさんになるわけです。それでコースケさんに会いたい気持ちを抑え込んで、心を鬼にして受験勉強に励んでいたんですよ!」
「ああ……それでこのところ顔を見せなかったのか」
「そういうことです。……あ! コースケさん、私に会えなくて寂しかったんじゃないですか〜?」
 ふと西崎の動きが止まる。
 寂しかった、ねぇ。
 無論そこまではいかないが、ミノリのいない日常に退屈していたのは事実かもしれない。西崎はようやくあのモヤモヤの正体に気づいた。
「ああ、そうだよ」
 そう言った瞬間のミノリの反応を見たくて、西崎は本来なら絶対口にしない答えを返した。
「ええ!」
 驚きのあまり、ミノリは思わず一歩飛び退く。西崎の返事が脳に届くまで、だいぶ時間が掛かったようだ。その後五秒ほど硬直したのち、ミノリの顔は一気に赤面した。
「ホントですかホントですかホントですかッ!?」
 興奮した様子で迫るミノリ。予想以上のリアクションに、西崎は思わず吹き出してしまった。
「冗談だよ、そんなわけあるか。できればあの静かで平和な時間をもっと長く味わっていたかったくらいだ」
「……ですよねー。コースケさんのことだもん、そうだと思っていましたよ」
 そう言って溜息をつくと、ミノリは壁に寄りかかった。そのがっかりした様子を見て西崎はしばらく考える。
 そうか、大学受かったのか。確か、最後の模試の判定はCだと言っていた。そう考えるとかなり努力したのだろう。

 ――こういう時は、どうするんだっけ?

「……岡本、今日はなんの日か知ってるか?」
「今日ですか? えーと……?」
 イベントごとに目がないはずのミノリが忘れているなんて、よっぽど受験で頭がいっぱいだったのだろう。本当に、明日は槍が降るんじゃないだろうか。
 ……なんて、今日のところはそんなこと言わずにおいてやろう。
「岡本、合格祝い連れてってやる」
 西崎はそう告げると鞄を取り出し、帰り支度を始めた。ミノリはぽかんとしたままその様子を眺めている。そして、ようやく口から出たのはたった一文字。
「は?」
「はじゃない、合格祝いだ。前に言ってた駅前の喫茶店、連れていってやる」
「え、ど、どういう風の吹き回しですか?」
「嫌なら別にいい。無駄に金を使わなくて済むからな」
 呆然とするミノリの前を、西崎は冷たくそう言って通り過ぎる。
「……め、めっそうもない! ありがたく祝っていただこうといただきたく存じ上げます!」
 わけのわからない日本語で答えると、ミノリは慌てて西崎のあとを追った。
「コースケさんからデートのお誘いだなんて……! これは明日は槍が降るかもしれませんね!」
 それはこっちの台詞だ。そう思いつつ即答する。
「デートじゃない。合格祝いだ」
 まさに敵に塩を送る心境。
 ――けれど、今日くらいは甘やかせておいてやろう。それくらいの努力をこいつはしたんだから。……ついでに、バレンタインのお返しもこれでチャラだ。

+++

 駅前の喫茶店。店内ではいちごフェアが開催中で、ミノリは迷わずデラックスストロベリーパフェを注文した。
 これ以上ないくらい嬉しそうな顔でそれを口に運んでいるミノリ。反対に西崎は、腑に落ちない表情でその様子を眺めていた。
 あのモヤモヤの正体なんて、本当は最初からわかっていた。ただ、それを認めたくなかったのだ。だって、たかが女子高生一人に翻弄されているようで、それってなんだか気に食わないじゃないか。
 そんな西崎の思いなど露知らず。特大パフェをぺろりと平らげたあと、ミノリはふと思い出したように言った。
「コースケさん! 今日ってホワイトデーじゃなかったですか!?」
「……今日はアインシュタインの誕生日だ」

 ミノリ、知らないところで二勝目獲得。



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