冥界――
人間たちが暮らす下界と、魂の行き着く先である天界の狭間に存在する世界。
下界のよどんだ、しかし『生』のエネルギーに満ち溢れた空気と、天界の澄みきった神聖な空気とが入り混じった混沌の世界。
両極端の空間に挟まれたそこは、とても不安定な存在だった。
そして、そこに留まっている者もまた――
シオンは冥界の混沌とした空気の流れに身をゆだねていた。
ゆらゆらと揺らめく陽炎。灰色の世界。
泥水のようにまとわりつき、底なし沼のように引きずりこんでいく。ぬるま湯に浸かったまま、だんだんと溶けていくイメージ。
――このまま溶けてなくなればいいのに。
シオンはただ、ゆったりと動くその流れに身を任せ、何をするでもなく宙を漂っていた。ここではすべての時間がゆっくりと流れている。
手にしているのは一冊の本。少し小さめで、それほど厚くもない黒い革表紙の本――鬼籍だ。
ここに連なる名前は、もうすでに下界には存在しない者の名前。そして、これからそうなる者の名前。
次で百人目。
一番最後のページには、先ほど現れたばかりの名前が書かれていた。
【百 桜井 茜】
桜井 茜――シオンはその名前に聞き覚えがあった。誠二と一緒にいるところをよく見かけたあの少女だ。彼のことを「誠ちゃん」と呼び、いつも楽しそうに話をしていた。
シオンは一度尋ねたことがあった。
『アカネはセイジの恋人なのか?』
彼の答えはこうだった。
「はぁ!? お前まで何紺野みたいなこと言ってんだよ! いいか? あれはな、『幼馴染み』ってやつだ。わかるか? おーさーなーなーじーみ! 確かにガキんときから一緒にいるからな。普通の女友達に比べりゃ仲はいいかもしれない。でもな、だからって恋人ってわけじゃないんだ。そのへんを間違えんじゃねぇぞ?」
そう言って、妙に力説されたのを覚えている。
シオンには、恋とか愛とかいう感情は、いまいち理解できなかった。それでも誠二が茜のことを大切にしていたのはよくわかったし、確かに恋人とまではいかなくとも、それに近い感情を持っていたのは確かだ。
その茜が鬼籍に載った――
そのことがどういうことを意味しているかは、誠二もよく知っているだろう。
……そう、茜は死ぬ。それが一時間後か一週間後かはまだわからないけれど、だが、茜はもうすぐ死ぬ。それだけは確かだった。
――このことを知ったら、彼はどうするだろう。
『シオン』
突然名前を呼ばれ、シオンはゆっくりと目を開けた。
目の前に立っていたのは、彼と同じく銀色の髪を持ち、全身を黒で身に包んだ人物――
『……グレイ』
シオンは自分でも確かめるように、ゆっくりとその名前を口にした。
『シオン、帰っていたんだな』
『…………』
『最近やけに下界に降りているようだが、何をしてるんだ?』
『別に、何も』
『仕事以外になにかしているんだろう?』
『……何も。何もしてない』
シオンはそれだけ言うと顔をそむけ、その場から立ち去ろうとする。しかし、グレイが投げかけた言葉に足を止められた。
『お前、次で百人なんだろう?』
『…………』
『それならわかっているはずだ。あとはその人間の魂を導けばいいだけ。ほかに何をすることがある? いいかシオン、俺たちがなんのために天導使になったのかだけは忘れるなよ』
『……わかってる』
そう答えると、シオンは再び立ち去ろうとした。
『――シオン!』
グレイが叫んだが、もうすでにシオンの姿はなくなっていた。
あれから下界ではどのくらい時間が過ぎたのだろう。
シオンはあの轢き逃げ事故で死んだ若葉の魂を天界に届けてから、一度も誠二の前には現れていなかった。なぜだかわからないが、会うことができなかったのだ。
――今まで何度も同じことをしてきたはずだ。鬼籍に載った人間の死を見届け、その魂を天界へと運ぶ……。
生まれたばかりの赤ん坊の魂を運んだこともあった。誰にも看取られずに死んでいった老人の魂を運んだこともある。溺れている子供を助けようとして死んだ父親もいた。
九十八人、ありとあらゆる死に立ち会ってきた。どの魂を運ぶときも、たぶん、自分の中には特別な感情なんてなかった。
(そうだ、俺は人間じゃない。天導使なんだ。感情なんて持たない、天導使――)
しかし、九十九人め、若葉のときだけは違った。なぜかあのとき、自分はこの魂を天界へ連れて行きたくないと思ってしまった。それがなぜなのかは、今もわからないままだけれど。
(それに、セイジ)
彼はどうしてあんなにもつらそうな顔をしていたのだろう。誠二はあの少女――若葉とは赤の他人のはずだ。現に鬼籍に【浅木
若葉】の名前が現れたときだって、「今度は女みたいだけど……」と、たいして何も感じていないようだったじゃないか。
それなのに、なぜ?
どうして若葉の死を目の前にしたとき、彼はあんなにもつらそうだった? 悲しそうだった?
それは人間ではない自分にはわからない感情――?
誠二に近づいたのは、「天導使が見える人間」という存在への興味本位だった。最初はそれだけだったのだ。
けれど彼と時間を過ごすうちに、その興味は誠二自身へと変わっていった。天導使である自分に人間のように接する誠二。アカネや、コンノに対するのと同じように話しかけてくるセイジ。
だが、若葉の事故のとき、彼の自分を見る目はそれまで接してきたときとはまるで違うものだった。得体の知れないものを畏怖するような――そう、まるで『死神』を目の前にしたような。
そんな目で自分を見て欲しくはなかった。
なぜだろう。
それもやはりわからない。
ただ、彼にそんなふうに見られることだけは、とても、とても――