||| 銀色の月 |||


『藤川 誠二という人間に会ってきた』

 冥界。再び目の前に現れたグレイが、何の前置きもなくそう告げた。
『なんでそんなこと――!』
『……やはりここのところ様子がおかしかったのはそのせいか。まさかおまえがそんな顔をする日が来るとはな』
『!!』
 そんな顔――そう言われたシオンが再び驚いたような表情をし、とっさにグレイから顔をそむけた。それは彼の言うとおり、“感情のない天導使”にはおおよそ似つかわしくないものだった。
『シオン、なぜそんなにあの人間にこだわる?』
『別にこだわってなんて……。ただ、少し興味が湧いただけだ』
『本当に単なる興味だけなのか? それは……俺たちが目的を果たすことに、支障をきたすものではないんだな?』
 シオンはうつむいたまま何も答えない。そんなシオンの様子を目にし、グレイが小さくため息をつく。
『おまえの百人めは、藤川 誠二に関係のある人間なんだろう?』
『…………』
『おまえ今、何を考えている? そのことを藤川 誠二に教えるつもりなのか? まさかその人間を――』
『違う! そんなこと、考えてなどいない!』
『以前のおまえなら、こんなことで取り乱したりしなかったはずだ。それもやはりあの人間の影響なのだろう?』
『違う……』
『シオン』
 グレイが諭すような口調で、静かに名前を呼んだ。シオンがゆっくりと、恐る恐るといった様子で顔を上げる。
『いいかシオン、俺たちは確かに死神ではない。だが、天使でもない。リストに載った人間を助けることなどできはしないんだ。それに……それはもっともタブーとされていること。それはおまえもわかっているだろう?』
『……わかってる』
『わかっていない!』
『――ッ』
『じゃあなぜそんな顔をする? シオン、おまえその魂を運ぶのが嫌なんだろう? ……でもな、思い出せ。俺たちがこの姿を与えられたときから、目的はただ一つだったはずだ。おまえの中の“一人一人”は何を望んでいる? それを叶えるためにはどうすればいい?』
『わかってる……。そんなこと、グレイに言われなくてもわかってるんだ――!』

「シオン……シオン!!」

 声が聞こえる。遠くで誰かが呼ぶ声が。
 俺は、あの場所に行かなくては――


09 : 惑いの月光


 今、オレの目の前にはシオンがいる。
 ついさっきまでコイツに会ったら言わなくちゃ、と思っていたことがたくさんあったはずなのに、いざ本人を目の前にしてみると、それが一言も出てこない。今はただ、コイツがまだ『ここにいる』ってことにすごく安堵している。
 オレは吹っ飛んでしまった『言いたかったこと』をかき集めながら話しだした。
「その……グレイって奴に会ったんだ。おまえと同じ、天導使の」
『そうか……』
「もうシオンには関わるな! とか言われちまったぜ。すっげー偉そうな態度でさ」
『何、聞いたんだ?』
「……いろいろ。天界にたどり着いた魂がそのあとどうなるかとか、天導使のこととか。おまえらがどこに住んでて、なんでこんなことしてんのか。それに、おまえらの正体も」
『!! ……そうか……』
 おまえらの正体――オレがそう言った途端、シオンは明らかに驚いた顔した。しかしそれはすぐにつらそうな、苦しそうな表情へと変わる。あのとき――若葉の魂を持ち去るときに見せた表情にも少し似ていた。
 今、シオンはどんな気持ちなんだろう?
 こんな表情を見せるシオンがオレたちとは違う生き物だなんて、やっぱりオレには考えられなかった。だってなんとも思っていないのなら、こんな顔するはずないじゃないか。
「なぁ、人間だったときの記憶とかは、ないのか? その、オレが馬鹿みたいになんも考えずに生きてるせいかもしれねぇけどさ、よくわかんねぇんだよな。グレイもそうだったけど、どうしてそこまで生きるってことを拒否しちまうのか、さ」
『……一人一人のはっきりした記憶はない。けれど、なんとなく、感情の欠片みたいなものは残っている』
「感情の、欠片?」
『深い深い絶望感とか、どうしようもない倦怠感、どろどろとした憎しみ、それに孤独。生きることなんてくだらない、生まれてこなければよかった……。俺にあるのはそんなものばかり。そんな感情を持って死んだ人間たちだから、こうして魂が冥界に留まってしまったんだ』
 生きることなんてくだらない?
 生まれてこなければよかった?
 シオンの口から出てきた言葉は、どれもオレには理解できないものばかりだった。
「けど……けどさ! おまえはどうなんだ? 天導使になる前の魂じゃなくてさ、今のおまえはどう思ってるんだ?」
『今の、俺……?』
「そう、そうだよ。今のおまえ! シオンは何を考えているんだ?」
 オレの言葉に、シオンが不意を突かれたような顔をする。はっとしたような、そんな顔。だけど、すぐにそれは自虐的な笑みに変わってしまった。
『セイジはなにか勘違いしているんじゃないのか?』
「え?」
『確かに俺は人間だった。以前はセイジと同じように下界で暮らす、人間だった。でも今は違う。今は、感情なんて持たない天導使だ。思うとか、考えるとか、今の俺にはそんなもの存在しない。
 俺は始めから『シオン』という一つの存在だったわけじゃない。セイジも知っているとおり、いくつかの魂が集まってできたものなんだ。人の形を与えられたそれに、ただ『シオン』という名前をつけただけ。『シオン』という人間はどこにもいない。俺が天導使になる以前にも、そしてこれからも――!』
 半ば独白のようなそれを、シオンはまるで自分に言い聞かせるかのように吐き出した。
 ――まただ。そう言い終った途端、シオンはまた苦しそうな顔をする。
 どうして自分の存在をそんなにも否定する? 天導使が人間であっちゃいけないのか? それもグレイが言っていたとおり、再び生を受けることを拒否しているからなのか?
 オレにはやっぱり理解することなんてできなかった。けれど、たった一つ、これだけは言えることがある。
「でも今は! 今はいるじゃないか、オレの目の前に! ここにいるおまえは、シオンじゃなくてなんなんだよ? 今話してるおまえは誰なんだよ!?」
『俺……俺は……っ』
「おまえが今そんな顔をするのはなんでなんだ? 感情がないんなら、どうしてそんな顔をする? それは、それはおまえがつらいからだろ? 『シオン』がつらいからなんだろ!?」
『けど……ッ! けど、俺の中の一人一人が拒否するんだ。余計なことは考えるな、ただ魂を運んでいればいい。だから俺は……っ』
「そうだとしても! おまえはどうなんだよ? 一人一人の魂とかじゃなくて、今のシオン自身はどうなんだよ!?」
『わからない!!』
 初めて見る顔だった。
 シオンがそうやって声を上げるのも初めてのことだったが、それ以上にそう叫んだその顔は、今までにないほど感情を剥き出しにした表情だった。深い紫色の瞳からは、今にも涙が零れ落ちそうなほどだ。
『わからないんだ……。こんなこと、今まで一度もなかったんだ……。ワカバが死んだとき、この魂を運びたくないって思った。セイジにあんな目で見られたくないって思った。でもわからないんだ! 俺には、どうしてそんなふうに思ってしまったのか……!!』
「――ば」
『……セイ、ジ?』
「バッカじゃねぇの、おまえ!」
『!?』
「あのな〜……それ! それがおまえの気持ちなんだよ。若葉の魂を運ぶのは嫌だ、それは『シオン』の気持ちだ。立派な感情だよ!」
『これが、感情……?』
 呟くようにそう言ったシオンは、例えるなら……そう、いわゆる鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていた。あっけにとられたような顔。
 たぶん、コイツは本当にわかっていなかったんだろう。自分には感情がない――そう思いこもうとしていたシオンにとって、自分の中に初めて芽生えたそれは、とても理解できないものだったんだろう。それが『感情』だってわからずに、きっとコイツも一人で悩んでいたんだ。
 なんだかオレは急に嬉しくなってしまった。
 ほかの天導使はどうであれ、シオンはオレと同じ人間だ。今ははっきりそう言える。これを喜ばずしてどうする?
 ――けれど、このときのオレはそのことで頭がいっぱいで、もう一つ、大事なことを忘れてしまっていた。シオンの言葉で、オレは一気に現実に引き戻されてしまう。いや、現実どころか、どん底に叩き落されてしまうことになる。
『……セイジ』
「なんだよ?」
『やっぱりセイジには、言っておかなくちゃいけない。これは、『俺』がそう思ったことだから』
 シオンの言っていることがよくわからず、オレは首をかしげる。またつらそうな、苦しそうなあの表情に戻ったシオンは、空中から一冊の本を取り出した。――鬼籍だ。そしてオレにそれを差し出す。
『……百人目が現れたんだ』
「!! そうか……。仕方ないよな、なんだかんだいっておまえは天導使なんだ。シオンが天界に住むことを望むなら、オレは何も言わないよ。口出す権利もないしな」
『違う、そうじゃないんだ』
「……シオン?」
『いいから、見てほしい』
 オレはやっぱり首をかしげながら鬼籍を受けとる。シオンの表情は、ますます暗くなるばかり。いったどうしたっていうんだ?
 しかし、鬼籍の最後のページを開いた途端、オレの疑問は吹っ飛んでしまった。
「な――なんだよこれ……! シオン、どういうことなんだよ、これは!!」
『……そこに書いてあるとおりだ』
「そこに書いてあるとおりっておまえ、そんな、こんなこと……! なんとかならないのかシオン!?」
『鬼籍は絶対。そこに載った人間は、必ず死を迎えることになる』
「そんな……。嘘、だろ?」
 鬼籍の最後のページ、百人め。
 この魂を天界へ運べば、シオンは目的を果たすことができる。そう、それは仕方がないこと。オレには『生きることを拒否する』ということは最後まで理解できなかったが、シオンがそれを望むなら仕方がないことだ。オレにどうこう言う権利はない。
 けれど……けれど。そのページを見た瞬間、オレの頭の中は真っ白になってしまった。
 認められない。認めたくない。

【百  桜井 茜】

 オレはその四文字を目の前にし、ただ呆然と立ちすくんでいた。

HOME