回顧その1の1


「…アンプサイ」
「インプラント」
「透視」
「…シュマイドラー効果」
「金縛り」
「り、り、臨死体験。……あ!」
「はい、なる子ちゃんの負けー」
「そんなぁ! 今のなし、なしです!」
「ダーメダメ。石蕗さん、罰ゲームはなんにしましょうか?」
「…ひとりマイムマイムでコンビニ買出し」
「それいい!」
「待って待って待って!!」

 三階の自宅から事務所へ降りると、ずいぶんにぎやかな声が聞こえてきた。どうやら今日も如月さんが遊びに来ているらしい。
「三人とも……何やってるの?」
「オカルトしりとりです。先生も混ざりますか?」
「いや、遠慮しとくよ……。ていうかとうとう石蕗まで参加してるし。その遊びはとっくにブームが去ったと思ってたんだけど」
 そう言ってデスクに腰を下ろすと、碧乃君がチチチ、と人差し指を振ってみせた。
「流行りというものは、一度過ぎ去ったあとまためぐってくるものなんですよ。今はオカルトしりとり第五ブーム到来中です」
「第五って……」
 そういえば以前、オカルトしりとりは、誠明高校オカルト研究会(今は都市研と名を変えているが)伝統の遊びだと碧乃君が言っていた気がする。今度のブームはいつまで続くことやら。
 けれど彼女たちにしてみれば、遊び自体よりも罰ゲームを考えることのほうが楽しいらしく、今も「ベッサンソンのタイミングで入店ね!」「…天むすを買ってきてください」などと盛り上がっている。石蕗の無表情でさえ楽しげに見えてくるから不思議だ。実際、楽しんでいるのだろう。
 変わったなあ。石蕗も、この事務所も。
 ふと窓の外に目をやる。今日も雨が降っていた。しとしとと、音のない柔らかな雨。そういえば、あの日も同じように雨が降っていたっけ……。

*  *  *

 とっくに梅雨が明けたというのに、もう五日も雨が続いていた。探偵事務所を構えてから早三年。ただでさえ少ない客足は、完全に途絶えていた。これは本格的に転職を考えるべきかもしれない。
 ――そんなときだ。彼女と初めて出会ったのは。

 コンコン。
 雨音に紛れ、控えめなノック音が部屋に響いた。パソコンに向かっていた石蕗が席を立ち、ドアに歩み寄る。開いた先に立っていたのは、制服に身を包んだ一人の少女だった。
「…どうぞ」
 石蕗に促され、少女はためらいがちにドアをくぐった。
 水色の傘を入り口に立てかけ、雨に濡れた肩口をハンカチで拭う。簡単に身なりを整えてから、少女は部屋の中へと進み出た。不安と好奇心が入り混じった表情で周囲を見まわしながら、応接用のソファーに腰掛ける。それでもまだどこか落ち着かない様子で視線をめぐらせていた。
「当探偵事務所には、どういったご用件でいらしたんですか?」
 正面に座った僕が声をかけると、少女ははっとして向き直った。しかし、すぐには用件を言わず、黙って視線を落とす。わずかに湿ったセミロングの髪が頬にかかった。その様子は、どう切り出すべきか考えているようにも見えた。
 そうしているうちに、石蕗が淹れたてのお茶を運んでくる。少女は小さく会釈してそれを受けとると、一口飲んでからようやく口を開いた。
「人づてに聞いたんです。こちらでは、多少変わった依頼も受けていただけると」
 僕は少しだけ面食らった。今時の女子高生にしては言葉遣いがしっかりしている。内心、どうせたわいもない依頼内容だろうと高をくくっていた自分を反省した。心構えを改めて少女に対応する。
「ええ、承っております」
 それを聞くと、少女はほっとしたように表情を緩めた。
 この質問から入るということは、四番、つまりオカルト絡みの依頼なのだろう。少なくとも、彼女はそう考えてこの事務所へやって来た。石蕗もわずかに反応し、離れたデスクから視線を向けている。
「調べていただきたいことがあるんです。その、うまく言えないんですが……私の家に、なにかいるんです」
「なにか、と言いますと?」
「わかりません。それを調べて、できれば追い払っていただきたいんです」
 追い払う。そう表現するからには、彼女になにかしら害を与えているのだろう。
「その『なにか』は、ただそこにいるだけなんですか? それとも、具体的になにかしてくるんですか?」
「姿は見えません。ただ、気配を感じるというか……。夜中になるとラップ音が鳴ったり、机やタンスが震えたりするんです。それが日に日に激しくなっていって」
「それは家全体ではなく、特定の部屋だけで起こっていませんか?」
「はい。私の部屋でしか起こっていません」
 話を聞く限りでは、典型的なポルターガイスト現象だった。
 ドイツ語で『騒がしい霊』を意味するこの現象は、おもに物や家具がひとりでに移動したり、原因不明の音が鳴り響いたりする。その起因は超心理学的なものから心霊的なものまで諸説さまざまだが、同時に単なる勘違いだったり、明らかになってみればなんてことのない理由だったりする場合がほとんどだ。
 どちらにせよ、実際に現場を見てからではないとなんとも言えない。依頼件数ゼロの今、断る道理もなかった。
「あの……お話、受けていただけますでしょうか」
 いつの間にか長く考えこんでいたようで、少女が不安そうに顔を覗きこんでいた。すっかりお茶も冷めてしまっている。些細なことで長考に陥るのが僕の悪い癖だ。
「ええ、もちろんです。この依頼、確かに承りました」
 瞬間、少女の顔がぱっと明るくなった。
「ありがとうございます!」
「では、こちらの依頼書にご記入をお願いします」
 言うより先に、石蕗が用紙とペンを少女に手渡していた。相変わらず仕事が速い。それに比べて僕は、肝心なことを忘れていた。
「申し遅れました。当探偵事務所所長、高橋 柊一朗です」
 本来ならば最初に渡しておくべき名刺を今頃になって差し出す。
「こちらは、秘書の石蕗」
 書き終えた依頼書を受けとり、石蕗が軽く一礼する。つられて少女も頭を下げた。それから名刺と僕と石蕗のあいだに視線を往復させ、思い出したかのように彼女は告げた。
「芹川 碧乃です。よろしくお願いします、高橋さん」

*  *  *

 次の日の土曜日。
 空には厚い雲がかかり、今日も天気は優れなかった。霧のように細かな雨が路面を濡らしている。
 昼食を済ませると、調査のため芹川さんの自宅へと向かった。依頼書に記されていたのは、事務所からそれほど遠くない住宅街に建つマンションの一室。最寄の駅から頭に叩きこんだ道順に進んでいくと、通りの向こうに見覚えのある水色の傘が見えた。わざわざ芹川さんが迎えに出てくれたらしい。
「こんにちは」
 傘の下から覗かせた顔は、私服のせいか、昨日よりも少しだけ幼い印象を受けた。それに、どこか疲れているようにも見える。
「こんにちは。やっぱり昨日も現象は続いたんですか?」
「あ……はい」
「以前よりもさらに激しく?」
「…………」
 芹川さんは表情を曇らせて頷いた。おかげでここ最近は寝不足が続いているのだという。疲れているように見えたのは、そのせいだったらしい。
「もう一週間近く続いていて……。さすがに体が持たなくなってきたんで、高橋さんのところに依頼することにしたんです」
 そう言って小さく笑う芹川さんの目元に薄っすらとクマが見えるのは、傘が落とした影のせいだけではないだろう。顔色も良くない。体が持たなくなってきたというのは、決して冗談ではないようだった。

 芹川さんに続いてマンションに入り、エレベーターで五階へ向かう。
『501 芹川』
 インターホンを押すと、返ってきたのは女性の声だった。芹川さんが一言「私」と告げると、ぱたぱたと足音が近づき、続いてガチャリと開錠音。ドアを開けて中から顔を出したのは、芹川さんによく似た、もう少し年上の女性だった。
「お帰りなさい、碧ちゃん」
「ただいま。こちら、昨日話した探偵の高橋さん」
 紹介されて慌てて頭を下げる。
「はじめまして。高橋と申します」
 女性も丁寧にお辞儀を返した。緩やかなウェーブのかかった長い髪を揺らし、のんびりとした口調で名乗る。
「姉の朱里アカリです。昨日は碧ちゃんがお世話になりました」
「お姉ちゃん! そういうときは『妹』って言うの!」
「あら、わたしったら、ついいつもの癖で」
 ふふふ、と笑う朱里さんを見て、芹川さんは呆れたようにため息をついた。顔はそっくりでも、性格は正反対の姉妹らしい。
「ほら、お客さんをいつまでも玄関に立たせておかないの! お姉ちゃんはスリッパを持ってきて」
「はいはい」
 朱里さんはスカートを翻し、スリッパラックへ向かう。妹に指図されているのに、なぜか嬉しそうに笑っていた。

「探偵さんって聞いたから、どんなかたなのかと思っていたけれど、見た目は普通の人なのねぇ」
 案内されたリビングのソファーに座ると、朱里さんがこちらをしげしげと眺めながら言った。そこには意外だという思いと、わずかにがっかりしたような意味合いが感じられた。
 コーヒーを手にキッチンから戻ってきた芹川さんから、すかさず横槍が入る。
「お姉ちゃん! 失礼なこと言わないの! 地味〜で没個性な外見だからこそ、周囲に埋没して尾行や調査を遂行できるんじゃない」
 ……なにげにひどいことを言われたような。
 しかし朱里さんはおおいに納得したのか、しきりに頷いている。確かにそのとおりなのだから、何も言い返すことはできないのだけど。
 カップを口に運びながら、周囲に目をやった。
 広めの4LDK、掃除の行き届いた室内、木調で統一された家具。窓際の観葉植物はパキラだろうか。落ち着いた雰囲気で、温かみのある生活感が漂っている。特別なにか良くないものを感じることもない、ごく普通の住まいだ。しかし……
 違和感、とは違うが、この部屋にはなにか欠け落ちているものがあるように感じられた。
「確か、現象はいつも同じ時間帯に起きているんですよね?」
 朱里さんの隣に腰を下ろした芹川さんが頷く。
「はい。誤差はありますけど、だいたい夜中の二時半前後です。それから五分ほど続いて、すぐに収まるんですが……」
「それを体験したのは芹川さんだけですか?」
「…………」
 芹川さんが無言で顔を覗きこむと、朱里さんは、わたし? というように首をかしげた。
「碧ちゃんはものすごい音がしたって言うんだけど、わたしには覚えがないのよねぇ」
「二人の部屋はすぐ近くなんですか?」
「ええ、隣同士です。こっちがわたしの部屋で、その奥が碧ちゃんの部屋」
 そう言ってリビングの左手に並ぶ二つのドアを指す。
 これもまた、オーク調のごく普通のドア。二つともまったく同じ造りだが、芹川さんの部屋のドアノブにだけ、ぬいぐるみのストラップが掛けられていた。……クラゲ?
「探偵さんは、普段どんなお仕事をされているんですか?」
 突然話題が飛んだ。視線を戻すと、朱里さんが満面の笑みでこちらを見つめている。
「やっぱり殺人事件を解決したり、企業に潜入して極秘データを盗んだりしてるんですか?」
「えーと……」
 返答に詰まり、思わず芹川さんに視線で助けを求めると、芹川さんは額に手を当てて大きく息をついた。
「も〜……お姉ちゃん! そういうのはフィクションの世界の中だけの出来事なの。作り物よ、作り物! 実際の探偵の仕事なんて、浮気調査とかペット探しとか、地味で地道でひたすら根気がいるんだから。それに二つ目は探偵じゃなくてスパイじゃない!」
「そぉなのぉ?」
「そうなの!」
 芹川家に来て十数分、すでに二回も地味と言われてしまった……。
 もしかして、本物の探偵を見て一番がっかりしたのは、ほかならぬ芹川さんだったんじゃないだろうか。別に僕が悪いわけではないのだけど、妙に申し訳ない気分になってしまった。
「もう、お姉ちゃんがいると全然話が進まないんだから!」
 芹川さんはたまりかねたように立ち上がると、そのままつかつかと自室へ向かった。
「高橋さん、調査のほうお願いします」
「ええ〜? 碧ちゃんばっかり探偵さんを独り占めしてずるいわ。わたしもお話聞きたいのに」
 芹川さんに続いて席を立とうとした僕を、すぐさま朱里さんが引き止める。すると条件反射のように芹川さんから怒声が飛んできた。
「高橋さんは遊びに来たんじゃないんだから! 仕事の邪魔しないでよね!」
 キッと睨みつけ、部屋の中へと姿を消す。……嵐が去った。

「――ふふ」
 ふいに聞こえた笑い声に振り返ると、朱里さんが微笑ましそうに目を細めていた。
「しっかりした子でしょう? わたしのほうが妹みたい」
「確かに」
 つい頷いてしまうと、そこでまた朱里さんがおかしそうに笑う。けれど、その顔に影が差した。
「碧ちゃん、ここのところずっと元気がなかったんです。人前ではいつもどおりふるまっているけれど、十八年も一緒にいるんだもの、隠していてもわかってしまいます。でも、わたしでは役に立てないみたい。だから……」
 ふっ、と朱里さんの表情が変わる。穏やかな、けれど真剣な顔つき。
「どうか、あの子の力になってあげてください」
 まっすぐに見つめられ、僕は思わず立ちすくんだ。
 今の朱里さんは、妹を思う姉そのものだった。どこかずれた頼りないお姉さん、というイメージは、一気に吹き飛んでしまった。本当は誰よりも妹を理解し、その身を案じているのだろう。
 真摯に応えなければ失礼にあたる。僕は再び気持ちを入れ替えた。
「はい。尽力します」
「……ありがとうございます」
 朱里さんは深々と頭を下げた。初めて会ったときと同じ動作なのに、その印象はまるで違う。――が、顔を上げた朱里さんは、それまでどおりの様子に戻っていた。
「お仕事のお話、碧ちゃんには内緒で、あとでこっそり聞かせてくださいねぇ」
 にっこりと、まるで小さな子供のような……そう、“どこかずれた頼りないお姉さん”の表情と口調だった。どちらが本当の朱里さんなのか、わからなくなる。たぶん、どちらも本当なのだろう。

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