回顧その1の2


「ごめんなさい。お姉ちゃんたら、関係ない質問ばかりして」
 僕が部屋に入ると同時に、芹川さんはそう言って頭を下げた。
「まともに相手しなくていいんですからね。ほんと、あれじゃどっちが妹なんだか」
 あきれたようにため息をつく芹川さんを見て、思わず笑みを漏らしてしまった。ついさっきも同じことを朱里さんから聞いたばかりだ。
「……どうかしたんですか?」
 芹川さんが怪訝そうに尋ねる。僕は慌てて口元を隠し、いえ、と誤魔化した。
 確かに、一見すると立場が逆転したような姉妹だが、それでもやっぱり朱里さんが姉で、芹川さんが妹だ。本質的なところはものすごく。でもたぶん、芹川さんは気づいていないし、朱里さんはそれでいいと思っている。面白い姉妹だ。
 僕はまた、笑みを漏らしそうになってしまった。しかしそのとき、ふいになにかが鼻腔をかすめた。
「…………?」
“それ”を追うように、部屋の中を見まわす。
 芹川さんの自室は、六畳より少し広いくらいのフローリング部屋だった。
 床にはベージュのカーペットが敷かれ、正面の窓にはそれより一段階明るい色合いのカーテンが掛けられている。その下にはベッドがあり、頭のほうの壁際には、本棚と木製のラック。あまり性別を感じさせない内装だったが、このラックにだけは、女の子らしくこまごまとした置物が並べられていた。……ここにもクラゲのぬいぐるみがある。
 片付いてはいるが、物が多いせいで雑然とした印象は否めない。特に本棚には、コミック・文庫・ハードカバー、大小さまざまな本がすべての段に詰めこまれ、それでも全部入りきらないようで、床に収納ボックスが三つも積まれていた。読書家なんだろうか。
 事務所の書斎を思い出し、僕は少し共感を覚えた。あの部屋だけは、何度整理しても、ものの三十分で元の有様――出した本は出しっぱなしでそのまま床に積んでいく、まさに足の踏み場もない状態――に戻ってしまうため、石蕗も掃除することを諦めている。もっとも、芹川さんの部屋は、それとは比べものにならないくらい片付いているのだけど。
 そんなよけいな思考をめぐらせたあと、芹川さんに尋ねた。
「煙草は吸いませんよね?」
 芹川さんはきょとんとした。まるで質問の意味がわからないかのように。それからややって、先ほどよりもさらに怪訝そうな、むしろ怒りを含んだ表情と口調で言った。
「私が? 私が、ですか?」
 自分でも馬鹿な訊き方をしたと思った。が、もはやあとの祭りだった。後悔先に立たず。
「確か私、昨日事務所へは制服で行きましたよね? 依頼書の記入欄を見れば、それがコスプレでも高校三年生を三回以上やっているわけでもないことはすぐにわかると思うんですけど。それともなんですか? 私が未成年で喫煙をするような人間に見えるってことですか? まあ今時、煙草を吸ったことのある高校生なんて珍しくはないでしょうけどね。でももし、私がそんなふうに見えたのだとしたら――」
 芹川さんはずい、と顔を寄せ、睨みつけながらその先を続けた。
「ものすごく心外です。あなたの探偵としての眼力を疑います」
「……ごめんなさい」
 僕は一言そう返すのが精一杯だった。芹川さんはさらに視線を鋭くし、同じく語気も尖らせて言う。
「私、煙草大っ嫌いなんです。そのもの自体も、喫煙者も、喫煙行為も全部!」
 どうやら彼女にとって、『煙草』という単語が地雷であることは十二分にわかった。これほどまでに毛嫌いするのにはなにか理由がありそうだったが、今はそれよりも、この状況を少しでも好転させることが最優先だ。
 僕は慎重に言葉を選びながら、弁解を試みることにした。
「すいません。……あ、ちなみに僕も煙草は吸いません」
 まずった。芹川さんの怒りゲージが急上昇したのが目に見えた。
 言葉を選んだ結果がこれか……。これでは探偵としての眼力どころか、人としての対応力、気づかい、ギャグセンスも疑わしい。もとより自分に誇れるようなギャグセンスがあるとは、微塵も思っていなかったけれど。ならばいらんことを言うなという話だが、それはもう口が滑ってしまったのだから仕方がない。口は災いの元とはよく言ったものだ。
 再びよけいな思考で現実逃避したあと、僕は、芹川さんが煙草を吸うような人間には見えないこと、もちろん芹川さんが留年も浪人もしていない現役女子高生だとわかっていること、この二点をことさら強調しつつ、なんとか誤解を解くことに成功した。
「ふうん……」
 とはいえ、芹川さんはあまり納得していない様子だ。迫り来る勢いだった顔こそ離してくれたものの、いまだ不機嫌そうな目でこちらを見つめている。
「他人の家は独特の匂いがするとは言いますけど、それにしたって、女の子の部屋に入って『煙草くさい』はないでしょう。私じゃななかったら、即刻追い帰されてたところですよ」
 実際には、追い帰されるよりも恐ろしい目に遭わされたわけだが。
 ――とは、さすがに言わなかった。僕にも学習能力くらいはある。
「すい……ごめんなさい。でも一瞬感じただけで、今は全然匂わないから、たぶん僕の勘違いだったんだと思います。芹川さんだけじゃなく、この家には喫煙者がいないようだし」
「確かにいませんけど……。どうしてですか?」
「リビングにもキッチンにも、灰皿がなかったからね」
「ああ、なるほど」
 芹川さんは、少しだけ感心したように視線を緩めた。
 まあ、単純なことなんだけど、これで多少は失いかけた探偵としての威信と、僕の人間性(むしろこちらのほうが重要だ)が取り戻せたのなら重畳だ。
 それにしても。
『大人しい、礼儀正しい子』という彼女への第一印象は、二日目にして早くも崩れ去った。特に、前半部分。人は見かけによらないということか。……ちょっと違う気もするけど。
「それで、なにかわかりましたか?」
 芹川さんが尋ねる。その口調と表情は、いつの間にか『大人しい、礼儀正しい子』に戻っていた。別に性格を作っているわけではなく、なにかの拍子でスイッチが入ると、先ほどのように怖――いや、アグレッシブな一面を覗かせるだろう。
「今見た限りでは、なんの変哲もない、いたって普通の部屋です。特に原因らしきものは見当たりませんね」
「そうですか……」
 現象が霊的なものだとすれば、なにかしら感じるところがあるはずだ。しかし、気配はまったくない。この部屋には“何もいない”し、“なにかがいた形跡もない”。かといって、彼女の勘違いとも思えない。寝不足が続いている以上、実際になにかが起こっていることは確かだ。
 ポルターガイストの原因は、大きく分けて二つ。そのうち、心霊的起因ではないとすれば――
「私、ですか?」
 ふいに、芹川さんがそう言った。
「……え?」
 その言葉の意味がわからず、僕は訊き返す。
 芹川さんは、勉強机の椅子を引くと、そこに腰を下ろした。そして、指を折りながらすらすらと挙げていく。
「受験は順調、友人関係は問題なし、恋愛は特に不自由してないし、家族仲も良好。この家の中で思春期と呼べる年齢なのは、確かに私しかいませんけど……。でも、思い当たる節はありませんよ。本人が言うのもなんですけどね」
 椅子を左右に揺らしながら、芹川さんはおかしそうに笑った。言葉の意味が呑みこめないでいる僕に、補足するように続ける。
「知ってますよ。ポルターガイストの原因は、思春期の情緒不安定な子供が無意識に発揮するPKだっていうんでしょう?」
「……ああ、宇宙人か!」
 今度は芹川さんが目を丸くする番だった。突然そう呟き、納得したように頷く僕を、解せない様子で見つめている。
 僕はベッドのそばのラックに歩み寄ると、そこに並べられている置物の一つを手に取った。ゲームセンターの景品にでもなっていそうな、水色のクラゲのぬいぐるみ――に見える、まったく別の生き物。傘の部分に目と口が付いているのは、擬人化されているからではなく、そこが紛れもなく頭部だからだ。
 今でこそ人型が一般的になってしまったが、かつてはこの手のタイプがほとんどだった。球状の頭から、触手のような手足が生えた、クラゲやタコにも似た――
「火星人。それもかなりクラシカルな」
 そこでようやく芹川さんも理解し、合点のいった顔をした。それからちょっと意外そうに、
「今頃気づいたんですか?」
 と首をかしげた。
「かの『宇宙戦争』にも登場した、由緒正しき宇宙人です。可愛いでしょう?」
 このぬいぐるみは確かに可愛らしく作られていたが、本家を見たことのある身としては、あまり同意できることはできなかった。
 ――しかし。
 改めて室内を見まわしてみる。ただたくさんあるとしか認識していなかった書籍は、よくよくタイトルを見てみれば、そっち系のものばかりであった。UFO・幽霊・超能力・魔術、そんな単語が背表紙に踊っている。女の子らしい雑貨だと思っていた置物も、やはり同じような類だ。この金色の飛行機っぽいのとか、見覚えあるなあ……。
「古代コロンビアの黄金シャトルです。世界の七不思議シリーズ、全部集めるの苦労したんですよぅ。今は、NASAが認めた宇宙人(全二十四種)シリーズをコンプリート中です」
 今時はそんな食玩が売り出されているのか。
「……好きなんだ、こういうの」
「大好きです!」
 それまでの怒りなどすっかり消し飛んだ様子で、芹川さんは大きく頷いた。それまでにないほど瞳を輝かせていて、本当に好きだということが伝わってくる。マンションに来る前に見せた不安げな面持ちも、今はどこにも見当たらなかった。
 そうだ、と思い返す。昨日、「ラップ音」なんて単語をさらりと口にした時点で、オカルト好きの片鱗はうかがわせていたのだ。
 どうにも、知れば知るほどイメージの変わる少女だった。
 芹川さんは、ほかに質問は? と目で訴えながらこちらを見つめている。語りたくてうずうずしているようだ。しかし、ひとたび訊こうものなら、宇宙の成り立ちをビッグバン理論で一から説明されそうな勢いだったので、申し訳ないが話を戻させてもらうことにした。……ええと、そもそもなんの話をしていたんだっけ。
「ああ、そうだ。確かに、芹川さんの言う、無意識的なPKが原因でもないようですね。自身がポルターガイストの原因だと自覚していないケースは多いですが……僕の目にも、あなたが現象を引き起こしている張本人には見えません」
 僕の台詞が期待していたものとは違ったためか、芹川さんは少々落胆したようだった。しかし、不満を漏らすことなく応じた。
「お姉ちゃんも違うと思いますよ。理由は……わかりますよね」
「ええ」
 あののんびりとした朱里さんが原因というのは、芹川さん以上に考えられない。
 残る家族も除外していいだろう。まだ対面してはいないが、芹川さんの弁どおり、家庭にはなんら問題がないようだ。そういうものは、家の雰囲気でわかってしまうものである。
 超心理的起因でもないとすると……考えはまた一周する。
「効果が期待できるかわかりませんが、これを部屋に貼っておきます」
「それは?」
「護符です。これで悪いものの侵入はほぼ阻めます」
 取り出した札を、部屋の四隅に貼りつけていく。芹川さんは椅子から立ち上がり、興味深げにその様子を眺めて言った。
「悪いもの……悪霊とか、怨霊の類ですか?」
「まあ、そうですね。それが今回の原因とは、まだはっきりとは言えませんが」
「生霊の可能性もありますもんね。これが結界かあ〜」
 また一段と瞳を輝かせている。
 知識があるぶん、説明せずとも理解してくれるのは助かるが、普段の依頼人とはまるで反応が違うため、こちらの調子が狂ってしまう。部屋に入ってからは、彼女にペースを握られっぱなしだ。けれど、不思議と悪い気はしなかった。
「じゃあ、僕はいったん事務所へ戻ります。夜になったらまた――」
 そこまで言いかけたとき、部屋の外から女性の声が聞こえた。朱里さんと一言二言交わすと、次いでばたばたと騒々しい音が近づいてくる。何事かと思い、部屋の外に出ようとすると、ノブに手を掛けたところでドアが勢いよく開けられた。予期せず手前に引かれ、思わずつんのめる。顔を上げると、そこには見知らぬ女性が立っていた。
「碧乃〜、あんた男を部屋に連れこむだなんてやるじゃない。このこのぉっ」
 女性はにやにやと笑いながら芹川さんを肘でつついた。
 その言動に一瞬面食らってしまったが、芹川さんに紹介されるまでもなく、その人物が誰であるかはすぐにわかった。その顔には、姉妹のどちらの面影もある。
「何言ってるの。昨日話したでしょう? 探偵さんに来てもらうって。こちら高橋さん。ほら! ちゃんと挨拶して!」
 芹川さんは、うるさそうに女性を引き離しながら言った。
 女性はびしりと敬礼を決める。
「どうもー。芹川 美登利ミドリでーっす」
「もう! ちゃんとしてってば!」
「みどりんと呼んでください」
 そう言って、今度はしおらしく頭を下げるみどりん――ではなく、美登利さん。なぜに芹川家はこうも個性豊かな面々が揃っているのだろうか。
「あ……どうも、高橋です。先日、妹さんから依頼を受けて、お邪魔しています」
 すると、美登利さんの様子がまた変わる。ぽかん、という効果音がもっともふさわしい表情をしていた。よく見ると、隣の芹川さんも同じような顔をしている。
 なにかまずいことを言ってしまったのだろうか。
『煙草』のときのような剣幕で迫られたらたまらないと、僕は先手を打って謝ろうとした。しかし、謝罪の言葉が出るより先に、美登利さんの右手が振り上げられた。
 ――ばしん!
 勢いよく叩かれた……のは、頬ではなく肩だった。
「も〜! なによぅ、初対面でいきなりお世辞? そんなこと言ったって何も出ないわよっ」
「は……え……?」
「口説こうとしてもだめよ。あたしは旦那オンリーだからっ」
 きゃっ、と可愛らしく声を上げ、両手を頬に当てて恥じる仕草をしてみせる美登利さん。状況が理解できないでいる僕に、あきれながらも説明してくれたのは芹川さんだった。
「たぶんだけど、高橋さんは本気で言ったんだと思うよ。娘が言うのもなんだけど、とても二人の子持ちには見えないから。そんなわけで、母です、この人」
「はは」
 ナポレオンの辞書には不可能という文字がなかったそうだが、そのとき、僕の辞書からはその単語が消えうせていた。『はは』――この二文字の意味するところを理解するには、思考回路を再構築する必要があった。
「つまり、碧乃アンド朱里ズマザーよん」
 どこぞの魔法少女よろしくポーズを決め、美登利さんはそう言った。
 明るい茶色のショートカットに、ジーンズにTシャツというカジュアルな服装。メイクはそれほど濃くないが、どう見ても朱里さんとは五、六歳ほどしか離れていないように思える。なによりその言動が、『母親』という言葉からイメージさせる女性像とはかけ離れていた。
「失礼しました。てっきりお姉さんかと……」
「よく間違えられます。まあ、こんなんじゃ仕方ないですけどね」
 芹川さんはため息をつくと、横で踊っているかのように体を揺らしている美登利さんに目をやった。
「調子に乗るんで、あまり喜ばせるようなこと言わないでくださいね」
「いえいえ、じゃんじゃん言ってくれてかまわないわよ。なあに? 若くて美人で可憐でスタイル抜群なお母さまですねって? やーねもうっ!」
「……こうなりますから」
 額を押さえる芹川さんに、僕は苦笑いを返した。
 美登利さんはひとしきりはしゃぎ終えると、両手を腰に当ててこちらを覗きこんだ。
「高橋、えーと、下の名前はなんていうの?」
「柊一朗です」
「よっし、柊一朗くん! あたしあんたのこと気に入ったわ。ぜひ夕食をご馳走させてあげようじゃないの。今、朱里が買い出しに行ってるからね」
 ぎょっとしたように異論を唱えたのは芹川さんだ。
「いきなり何言ってるの? 高橋さんはこれから帰るところなんだから」
 途端に美登利さんはしゅんとこうべを垂れ、小さな子供のような瞳で見上げてきた。
「そうなの?」
「えーっと……まあ、その、なんていうか」
 なぜか素直に「はい」と言えなかった。いや、美登利さんの眼が、言わせてくれなかった。もしも申し出を断ろうものなら、とんでもない目に遭わされそうな気がする。
「どうなの? このあたしの料理が食べられないっていうの?」
 口調こそ穏やかだが、無言の圧力で脅しをかけてくる。この絡み方は酔っ払い並みにたちが悪かった。隣で芹川さんがしきりに首を振っているが――
「ぜひ、ご馳走にならせてください」
 としか、僕は答えられなかった。
 スイッチが切り替わったかのように、美登利さんの顔がぱっと明るくなる。
「嬉しいわぁ。美登利、腕によりをかけちゃうっ」
 スキップする美登利さんに腕を取られ、僕はリビングへと連れ去られた。やはり、どう考えても成人した子供がいるようには見えない……。
 背後からは、心底あきれ果てた芹川さんの声が届く。
「どうでもいいけどお母さん、ずいぶん早いお帰りね」
「そりゃ半ドンだからに決まってるでしょ?」
 ふと口にした死語が、唯一、この姉のような母の年齢を感じさせた。

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