回顧その1の3


 美登利さんに捕まり、リビングで話し相手をさせられること一時間強。
 朱里さんが買い物から帰ってくると、トークショーはようやく一時中断となった。途中で愛想を尽かしてしまった芹川さんは、今は自室にこもっている。僕も一息つき、事務所に連絡を入れるため外へ出た。石蕗に夕食は不要だと伝えておかなければ。
 外はまだ雨だった。夕方以降は本降りになると、朝の予報で告げていたことを思い出す。本来なら夕焼けが一望できるであろう五階からの眺めは、薄暗い雲が空を覆い、すでに夜の闇が訪れていた。外廊下を湿った風が時折吹き抜けてゆく。
『…はい。高橋探偵事務所です』
 きっちり二回のコールで相手が出る。抑揚はないが明瞭なその声は、電話越しだとかえって聞き取りやすかった。
「あ、石蕗? 僕だけど」
『…はい。そろそろかかってくるのではないかと思っていたところです』
「……そう。えーと、悪いんだけど、今日は夕食いらなくなったから」
『…はい。そうだろうと思い、一人分しか用意してありません』
「…………そう」
 付き合いが長い僕でも、さすがに毎回この調子だと、予知能力かなにか備えているんじゃないかと疑いたくなってしまう。有能すぎる秘書というのも考えものだ。
「そっちは変わりない?」
『…はい。変わりなく依頼は一件もありません』
 それがデフォルト状態の事務所というのもやはり、考えものである。
 近いうちに必ずこの現状を打開してみせると心に誓いつつ、僕は腕時計に目をやった。
「七時前には一度帰れると思うから」
『…それはどうでしょう』
「え? ――うわっ!?」
 突然、体が後ろにそれる。背後から伸びてきた二本の腕に両肩を掴まれた。そのまま首をがっちりホールドされ、身動きが取れなくなる。
「こーんなところにいたのねっ」
 腕の主であり声の主は、キッチンで料理をしていたはずの美登利さんだった。
 美登利さんは、腕を緩めるどころかさらにきつく締め上げて言う。
「みどりん特製の夕食ができたわよぅ。早く食べにいらっしゃいな」
「……は、はい……ぐぇ」
 まずい、意識が遠のいてきた。
 なんとかチョークスリーパーを決められる前に脱出し、ゴホゴホと咳きこみながら目尻の涙を拭う。「冷めないうちに早く早くっ」と笑顔でせかす美登利さんを見ていると、怒る気にはなれなかった。気合の入りすぎた彼女なりのスキンシップなのだろう。そうなのだろう……。
 ふと思い出し、会話の途中だった携帯電話を耳に当てる。しかし、聞こえてくるのは断続した電子音だけだった。どうやら切られてしまったらしい。
 僕は小さく嘆息すると、美登利さんに背を押されながら室内へ戻った。

 ダイニングのテーブルには、すでに料理が並べられ、芹川さんと朱里さんも席についていた。美登利さんが自分の席に座ると、あまる椅子は一つ。よって、僕は自然と残る四角の一辺に腰を下ろすこととなった。
「さあさあ、遠慮せずにじゃんじゃん食べちゃってね。おかわりもたくさんあるんだから」
 正面の美登利さんが小皿を配りながら言う。お言葉に甘え、僕は手を合わせると箸を取った。
 食卓を彩る品々は、意外にも和食一色だった。素朴だが手の込んだ、家庭料理の定番が並んでいる。美登利さんのイメージから、勝手に横文字の料理を想像していたため、これには少し驚いた。
 味のほうも、文句の付けようがなかった。温かみのある味、とでもいえばよいのだろうか。いつも食べている石蕗の料理は、それはもう店で出せるようなレベルなのだが、そこにはないおいしさを感じた。母親ならではの味、なのだろう。
 失礼な話ではあるが、初めて美登利さんの母親らしい一面を見た気がする。
「ねねねっ! ぶっちゃけた話、探偵ってどのくらい儲かるわけ?」
 なんて、食事中ひっきりなしに質問されていると、そんな感銘も吹き飛びそうになってしまうが。
 たまりかねた芹川さんが美登利さんを咎め、二人は言い争いを始める。朱里さんはそれを微笑みながら眺めている。なんともわかりやすい構図だった。
 にぎやかで楽しい夕食が終わると、芹川家の三人は片付けに取りかかった。美登利さんが食器を洗い、朱里さんがそれを拭き、芹川さんが棚へと戻していく。ごくありふれた家庭の光景なのかもしれないが、僕の目にはことさら新鮮に映った。そういえば、二人以上での食事というのも、ずいぶん久しぶりだったように思う。
 見事なバケツリレーにより、後片付けはあっという間に終了した。ことごとく手から食器が逃げてしまう僕があいだに入っていれば、こうはいかなかっただろう。なんせ以前、十数枚の皿を犠牲にした結果、「…もう所長は二度と手伝わないでください」とのお達しを家政夫より承った腕前だ。食べるだけ食べておいて申し訳ないが、おとなしく見学に始終させていただいた。
 三人が一段落ついたところを見計らい、僕は申し出た。
「ごちそうさまでした。それでは僕は、」
「そうよね。ご飯のあとはお風呂よね」
「……はい?」
 椅子から立ち上がったところで固まっている僕ににっこりと笑いかけ、美登利さんは王様が召使いを呼ぶ調子で手を叩いた。
「お客様には一番風呂を」
 すると、ついさっきまで流しにいたはずの朱里さんが、背後からひょっこり現れる。その腕に大事そうに抱えれているものは、綺麗に折りたたまれた、バスタオル。それをまるで表彰式で賞状を渡すように差し出してくる。
 芹川さんが盛大にため息をつき、キッチンから出ていった。リビングのソファーにどさりと腰を下ろし、テレビをザッピングしはじめる。自分はもう関わるまい、背中がそう語っていた。
 僕はなすすべなくタオルを受けとる。満面の笑みの美登利さんと朱里さんに挟まれ、僕はもうバスルームへ足を運ぶほかなかった。
「一名様ご案なーい!」
 石蕗の予見にはずれはない。

*  *  *

 結局、夕食に引き続きお風呂までご馳走になり、今日は事務所へ帰らずそのまま芹川家に泊まりこむことになった。
 バスルームから出ると、奥の和室にお布団を敷いておきましたから、と朱里さんからやんわり告げられる。泊まりこみは泊まりこみでも、一番重要なのは夜中であって、すなわち今日は寝ずの番で怪現象の動向をうかがうことになるのだけれど……朱里さんの笑顔があまりにも善良すぎたため、僕は「ありがとうございます」と礼を述べることしかできなかった。
 仕方がないので、深夜まで本でも読んで時間をつぶそうと、和室に向かおうとした僕を呼び止めたのは、もちろん美登利さん。
「土曜の夜はやっぱりこれっしょ」
 取り出されたるは、キンキンに冷えた缶ビールが二本。それを両手に掲げ、こっちへいらっしゃいなとダイニングへ誘う彼女もまた、僕のこれからの仕事を理解していないようだった。
「なによぅ、あたしの酒が飲めないっていうの?」
 まだビールは開けられていないはずだが、すでに美登利さんは酔っ払いのそれだ。夕食のときのような調子で迫られ、僕はおとなしく席に着くことになる。一応仕事中なので、と勧められたビールを押し返すのが精一杯だった。
 どうも僕は、芹川家の女性陣には流されるままだ。
「朱里はお酒だめだし、碧乃はまだ未成年だし、せっかく一緒に飲み交わせる相手ができたと思ったのにぃ」
 ぼやきながら、美登利さんはつまみ用に作ったねぎやっこをつつく。恨めしそうにこちらを睨むが、それでも酒を無理強いすることはしなかった。そのあたりの良識と加減は持ち合わせているらしい。
 などとほっとしたのもつかの間、今度は芹川 美登利トークショー・夜の部が開幕され、結局は延々お酌に付き合わされるはめになってしまった。
 ふと壁の時計に目をやれば、いつの間にやら十一時過ぎ。朱里さんはとっくに風呂から上がって自室に戻ってしまったし、リビングでテレビを観ていた芹川さんの姿も消えている。問題の時間まで暇をつぶせたのはいいけれど、深夜までこの調子では逆に疲れるというか……体力が持ちそうにない。
 僕はなんとかこの場をお開きにする方向へ持っていこうと試みる。
「ご主人、ずいぶんお帰りが遅いんですね。いつもこんな時間まで?」
「んー……そうねえ、いつ帰ってくるのかしらねえ」
 酒に強いのか、それとも常にできあがっているも同然のせいか、美登利さんは酔ってもほとんど変わりがなかった。それでもいくぶん舌足らずになった口調で言う。
「きっと今頃、金髪のお姉ちゃんたちとヨロシクやってるわよ」
 思いがけない返答に、僕は言葉を失ってしまった。
 美登利さんは頬杖をつき、目を伏せ、右手に持った缶をゆるゆると揺すった。憂いを感じさせるその仕草に、僕はまた余計なことを訊いてしまったのだと悟る。
 ほう、と美登利さんは小さく息をつく。テーブルに落とされていた視線がゆっくりと持ち上げられた。そのときの僕は、焦りと申し訳なさが混じったひどい表情をしていたに違いない。美登利さんはそんな僕に気づくと、一瞬きょとんとなり、それから手を叩いて豪快に笑いだした。
「やあね、なんて顔してんの! 勘違いしないでよ。金髪のお姉ちゃんっていっても、頭にわっか乗っけて羽生やしたお姉ちゃんのことだから」
 今度は僕がきょとんとする番だった。美登利さんはさらにおかしそうに笑い、これこれ、と人差し指で天井を指す。
「雲の上よ。天国、天国。もう十二年も前の話よ」
 ああ――それで合点がいった。違和感の正体はこれだったのだ。
 この家に来たとき、最初に感じた“なにか欠け落ちているもの”。それは男性の存在、生活感だった。この家には、目につくところに男物が一切ない。それ以前に、食器も歯ブラシも、個人で使用するものは基本的に三人分しか揃っていない。もっと早く気づくべきだった。
 十二年という歳月は、夫を亡くした悲しみを乗り越えるにじゅうぶんな長さがあったのかもしれない。美登利さんは、先ほど見せた物憂げな様子が嘘のように、あっけらかんとしていた。
「女三人の暮らしだからさー。逆に男の子が一人いてくれたほうが安心なのよ」
「……はあ」
 それで半ば脅しをかけてまでして家に引き留めたわけか、と強引に解釈する。
「それにね」
 ふいに、美登利さんがそれまでに見せたことのない表情を作った。穏やかで、優しげな、昔を懐かしむようなまなざしを僕に向ける。
「柊一朗くん、あの人にちょっと似てる」
「……僕が、ご主人に?」
「うん。雰囲気かなー。押しに弱いところとか、なーんか頼りなさげなところとか。いい人オーラはびんびん出てるんだけどね。……だから忠告しよう!」
 突然声を張り上げると、美登利さんはびしりと人差し指を突きつけた。
「きみは将来、尻に敷かれるタイプだ!」
 決まった……。美登利さんはそう呟いて悦に入る。
 忠告というか宣言というか予想というか、出し抜けにそんなことを告げられても、言われた側は返事に窮すばかりだ。目をしばたたかせている僕をよそに、美登利さんは缶ビールの残りを一気にあおって席を立つ。
「さーて、風呂でも入って寝るかあ!」
 本日のトークショーはこれにて終了。閉演の合図のように、美登利さんはリビングの明かりを消して去っていった。
 あんな奥さんじゃあ、尻に敷かれざるを得ないよなあ……。
 一人ダイニングに残された僕は、腑に落ちないまま和室へと向かうのだった。

 タンスが二つと、足の短いテーブルが一つあるだけの八畳間の和室。普段はあまり使用されていない様子のその部屋には、朱里さんが言っていたとおり、中央に布団がきちんと敷かれていた。しかし、もっとも目を引くものは別にあった。
 部屋の隅にある、黒い仏壇。そこは、仏間でもあった。
 僕は美登利さんの話と、あのとき見せた表情を思い出し、仏壇の前へ歩み寄った。
 遺影の中では、一人の男性が微笑んでいる。年は三十歳前後。眼鏡をかけた、穏やかで誠実そうな印象を受ける人物。美登利さんは僕に似ていると言っていたけれど――当然のことながら、外見はそうでもない。けれど、年齢が近いせいだろうか。僕は不思議と親近感に似た感情を抱いた。
「…………」
 そのとき、ふいに背後に気配を感じた。振り返ると、入り口のふすまに隠れるように、隙間からこちらを覗いている人物がいた。
「芹川さん? どうかしましたか?」
 目が合った途端、芹川さんは気まずそうにうつむき、何も言わずに立ち去ってしまった。彼女らしくない態度に首をかしげる。いや、昨日会ったばかりで彼女らしいも何もないのだけれど、それでもその様子は引っかかりを覚えるものだった。
「なにか話があったんじゃないですか?」
 リビングのソファーで膝を抱えていた芹川さんは、背後からかけられた声に小さく肩を震わせた。それからためらいがちにこちらを振り向き、呟くように返す。
「いえ、別に……。すみません、覗き見みたいなことをして」
 ううん、と僕が首を振る。
 芹川さんはいたたまれないように視線をめぐらせると、また前を向いて膝を引き寄せてしまった。明かりの消えたリビングで、何も映すことのない暗いテレビの画面を眺める。そうしていると、その背中は実際よりもひどく小さく見えた。
 僕は先ほどまで座っていたダイニングの椅子に、再び腰を下ろした。彼女の言葉が本心ではないことは、わかっていたから。
「母に付き合わせっぱなしですみません」
 それからしばらく経って、芹川さんはぽつりと漏らした。
 僕はまた、ううん、と一言。
「お父さんのこと、聞いたんですね。あの部屋に行けば、わかっちゃうことでしたけど」
 別に隠していたわけじゃないんですよ、と続けるその声には、特筆すべき感情は含まれていなかった。怒りも哀しみもない、けれどそのどちらでもあるような――表情がうかがえないことが、その判断をより困難にしていた。
「……十二年前っていうと」
「五歳です。まだ幼稚園。だからほとんど覚えてないんです、父のこと。私が小さかったせいかな、背の高い人だった印象があるんですけど。なんとなく記憶にあるのは、いつもかけてた眼鏡と、大きな手――よく頭をなでられたんです。それから」
 饒舌だった芹川さんは、そこまで言って口を閉ざした。体を縮めるように、膝に顔をうずめる。まだ乾ききっていない髪が、はらりと肩から落ちた。
 薄暗い部屋の中、零時を回って一際強くなった雨音だけが静寂を破る。それは無言の彼女を代弁しているかのようで、ただただ物悲しさを重ねて響いた。
 かけるべき言葉が浮かばない僕は、芹川さんが話しだすのを待つことしかできなかった。そんな自分がひどく歯がゆく、情けない。けれど、どれだけ責めてもどうすることも叶わず、
「――まっ、あれです! 亡くなった人は、どうしたって亡くなったままです」
 沈黙を破ったのは、芹川さんのきっぱりとした声だった。
 芹川さんはソファーから飛び降りると、くるりとこちらに向きなおった。その顔には気丈な笑みが浮かんでいる。
「大事なのは今を生きること、なんてねー。ほら、母と姉があんなだから、芹川家は私がしっかりしないと」
 でしょ? 冗談めかして同意を求める彼女に、僕は諾とも否とも答えられなかった。芹川さんははなから回答など期待していなかったのか、そのまま自室のドアへ向かう。
「それじゃ、お休みなさい。護符の効果に期待したいと思います」
 ぺこりと一礼。わざとらしいほど明るく告げ、芹川さんは部屋の中に戻ってしまった。
 僕はまた一人、ダイニングに残される。閉ざされたドアをどれだけ見つめても、得られる答えなど一つもない。その向こうにいる彼女の様子は、ましてやその心の内など、今の僕にはうかがい知ることはできなかった。
 また、雨脚が強まったようだ。
 せめて今回で怪現象がやみ、彼女の悩みが一つ解消されることを願うばかりだった。

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