石蕗さんの家政夫日誌

a certain Suturday...


 まずは、先日のあらましを記すべきだろう。
 所長の通報により、すぐに警察が駆けつけた。その中には佐伯氏の姿もあり、氏が捜索中であった、女性の家に押し入ったというくだんの犯人が、まさしくこの男性であったことが発覚する。曰く、これまでにも同じような前科が多数あり、そのたびに標的の女性を変えてはつきまとっていたらしい。今回、運悪くその標的に選ばれてしまったのが芹川さんだった、ということだ。
 男性のストーカー行為は、芹川さん以外の人間にも害を及ぼしていた。
 まず一つ、事務所への嫌がらせメールとファックス。送信主はいずれも男性であった。芹川さんのバイト先を突きとめ、そこに彼女と毎日のように行動を共にする男がいること知り、それを妬み恨んでの行為だったのだろう。
 次に、如月さんが感じていた妙な視線。これも犯人は男性であった。しかし、視線の対象は如月さんではなかった。彼のターゲットは、彼女が暇さえあればカメラを片手に付け回していた人物、芹川さん。前述のとおり芹川さんにつきまとっていた男性の視線と気配を、同じく芹川さんにつきまとっていた如月さんが、本人より敏感に感じとってしまっていた、というのが真相だ。つまり、行為そのものだけを見れば、暴漢魔も如月さんも大差はないということだった。
 事実を知った芹川さんが黙っているはずもなく、如月さんの顔を見るなり詰め寄った。
「わわわわたしはただっ! せせ、先輩に対する尊敬と敬意を行動に移しただけであって……!」
「じゃあそのカメラは何よ、そのカメラは」
「こここれはそのっ、先輩メモリアル第二号の制作を……」
 親に叱られる子供の図。身をすくめる如月さんの声は、しだいに消え入ってゆく。芹川さんがさらに問いただすと、如月さんはたまらず所長の背後に逃げ隠れた。
 仁王立ちで睨む芹川さんと、涙目で震える如月さんに挟まれ、所長は苦笑を浮かべる。
「ま、まあまあ。如月さんも悪気があってやったわけじゃないんだから。だいいち碧乃君、どっちのストーキングにも気づいていなかったんでしょ?」
 それはそのとおりで、二人の人間に始終見張られていたというのに、当の芹川さんはその気配すら感じとっていなかった。いわば台風の目。結果として、中心人物の受けた被害が一番小さかった。
 図星を突かれた芹川さんは、わずかにひるむも、すぐに怒りの矛先を所長へ向ける。
「だいたい先生もいけないんですよ!? 真っ赤なバラの花束なんて持ってくるから、勘違いされて襲いかかられるはめになって!」
「だってあそこの花屋さん、バラはこれしか置いてなくて……。適当に包んでくださいって言ったら、なんかラッピングして渡されるし。僕だってここまで持ってくるの恥ずかしかったんだから」
 芹川さんの言うとおり、男性が襲いかかってくるきっかけになったのが、このバラの花束であった。
 男性から女性に花束を渡す。そんな光景を目にしたとき、二人の関係はどのように映るだろうか。それが真紅のバラだったら。勘違いとはいえ、それは男性が逆上するにじゅうぶんな行為であった。
 そもそも、なぜ所長がバラの花束などを持って現れたのか。
 理由はキャロラインちゃん捜索にある。複数の目撃証言により、キャロラインちゃんがこの住宅地内にいることは確かであった。ならば、彼の好物を持っておびき出そう、というのが芹川さん考案の作戦。その彼の好物というのが、ほかならぬバラの花びらであったのだ。
 結果的には、作戦は大成功だったといえよう。
 我々の足元では、体長一メートルを超えるグリーンイグアナ、すなわちキャロラインちゃんが、今も一心不乱に花びらをはんでいた。暴漢騒ぎがあってもパトカーが現れてもどこ吹く風。チャームポイントであるつぶらな瞳を眠そうにまたたかせ、路面に散らばる花びらをたどっては食べ、たどっては食べている。
 突然この巨体が目の前に現れれば、いかに頭に血が上った暴漢とはいえ驚くだろう。おかげで男性に一瞬の隙が生じ、所長の投げ技も綺麗に決まった。ある意味では、今回最大の功労者といえた。
「とにかくなる子ちゃん! 会長命令により、今後一切の隠し撮りおよび尾行行為を禁じます!」
「そぉんなあ〜!!」
 いつの間にか集まっていた人だかりの中、如月さんの叫びが響く。気を失っていた男性は叩き起こされ、佐伯氏と共にパトカーで運ばれていった。キャロラインちゃんはこのあと飼い主の仲原さんに引き渡し、今回の依頼は完了。
 これにて一件落着。

*  *  *

 ではなかったことを、翌日、現段階では本日、思い出す。
 肝心の問題が解決していなかった。芹川さんと一緒にいた男性のことは、この一週間、結局わからずじまいだ。所長にとってはなによりそれが一番重大な件であり、事務所にやってきた芹川さんを見ると、再びあの煮えきらない態度に逆戻りしてしまった。芹川さんも芹川さんで、先日所長がそれなりによいところを見せたというのに、いまだ不機嫌な態度のまま。こちらの理由もわからずじまいだ。
 それでも、たびたび思うがやはり彼女は大人であった。
「昨日はちゃんとお礼を言うのを忘れてましたから……。その、危ないところを、ありがとうございました」
 ぶっきらぼうな物言いなのは、照れが混じっているせいもあるだろう。所長と目こそ合わせなかったが、芹川さんはそう言って頭を下げた。
 対する所長はわかりやすい。見るからに気恥ずかしげな様子になり、何度もどもりつつ、礼には及ばない、という趣旨の言葉を伝える。
「でも、ちょっと驚きました。……先生、もしかして強い?」
 そのときばかりはとげとげしさが消え、純粋な驚嘆と疑問を投げかける。
「中学までね、合気道習わされてて。護身術程度だったけどね」
「あ、なるほど合気道。どうりで柔道とは違うと思った……。ふむふむ、良家のお坊ちゃんだとそういう可能性もあるのか。私、先生のことちょっとだけ見直しました。今後は先生に対してヘタレって言う回数、一日十八回までに控えたいと思います」
「ああ、それでも十八回なんだ……。いや、うん、ありがとう」
 いつもの芹川さんらしい発言に、所長の態度からも、自然とわだかまりが消えていく。
「でも強くはないからね。もうずいぶん昔のことだから、型なんてめちゃくちゃだし、もともと素質もなかったし。それにほら……やっぱり、ね」
「やっぱり?」
「……年だね。ひさびさに投げ技なんてやったら、筋痛めちゃったみたいで」
 たはは、と情けない笑い声を漏らし、所長は右肩をさすった。
 なぜこの人はみすみす挽回の機会を潰してしまうのだろう。それもみずからの手で。天然だとか、要領が悪いだとか、そういった問題ではないように思える。おかげで、それまでかすかに尊敬のまなざしすらうかがえた芹川さんの表情は、当然のごとく反転した。
「ヘタレ」
 呪詛のような呟きが吐き出される。芹川さんの顔には、もはや失望と幻滅しか浮かんでいない。怒る気力もないようだった。
「ヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレヘタレ」
「ええっ!? ちょっ、碧乃君、言ったそばから十九回も言ってるよきみ!」
「うっさいヘタレ。黙ってろヘタレ」
「ああーっ! 二十一回! もう二十一回!」
 かくいう所長も、年がどうとか言ったそばから小学生のような反応であった。

 その後、芹川さんのヘタレ発言が三桁に届きかけた頃。
 事務所の入り口をノックする音。来客が訪れた。現れた人物は、ドアを開けた途端、目にした光景に頬を緩ませる。
「あらあら碧ちゃん、楽しそうねえ」
 この呼び方をする人物は、知る限り一人しかいない。芹川さんは振り返ると同時に声を上げた。
「お姉ちゃん!」
 芹川さんの五歳年上の姉、芹川 朱里アカリさん。
 何度か顔を合わせたことはあるが、今週事務所を訪れた人物の中では、群を抜いて珍しい客人であった。予期せぬ来訪に、芹川さんも目を丸くしている。朱里さんには同伴者がおり、次いでドアをくぐってきた人物に再び驚愕する。
「あれー、橙也トウヤさんまで! 二人してどうしたの?」
 そう言って駆け寄る芹川さんだったが、もっとも驚いている人物は別にいた。
 デスクにて、茫然自失となっている、所長。
 仰天のあまり声も出ない様子だった。それもそのはず、朱里さんと共に現れたのは、見覚えのありすぎる顔。日曜日、芹川さんと親しげに連れ合っていた、あの男性だったのだから。ここ数日、己を悩ませていた元凶が、みずから事務所を訪ねてくるとは夢にも思わなかったであろう。
 しかし、芹川さんは商店街での件を目撃されていたことなど知るよしもない。どころか背後で固まっている所長にも気づかず、客人二人と談笑を始める。
 聞くところによると、朱里は報告があって事務所を訪れたとのこと。芹川さんは首をひねるも、朱里さんの手に目を落とすとすぐに合点がいったようで、少々意地の悪い笑みを浮かべた。そして、朱里さんの隣に立つ人物を肘でつつく。
「うまくいったみたいですね、橙也さんっ」
 それを受け、男性は頭をかきつつ照れ笑いを返す。
「おかげさまで。これも碧乃ちゃんとの練習があったからこそだよ」
「だから大丈夫だって言ったじゃないですか。返事なんて最初からわかってたも同然だったんですから」
 なにやらなごやかに語らう三人のもとへ、ようやくフリーズが解除された所長がおずおずと歩み寄った。疎外感と割りこみにくい雰囲気を肌で感じながらも、かろうじて一言発することに成功する。
「……碧乃君、そちらのかたは?」
 そこでようやく所長の存在が認識され、朱里さんが再会の挨拶を述べる。しかし、所長の視線は彼女の隣に釘づけであった。視線の先、男性が一礼すると、所長も慌てて礼を返す。
 所長は初めてお会いしますよね、と芹川さん。それに対し、いいえ、もう一週間その人のことばかり考えていました、などと所長が答えられるはずもない。曖昧な返事でごまかすと、芹川さんは遅まきながら男性の紹介をした。
「笹野 橙也さん。もうすぐ私のお兄ちゃんになる人です」
「………………おに?」
 所長は再び固まった。
 混乱を通り越し頭は真っ白。言葉の意味すら呑みこめず、放心状態で目の前の男性を見つめていた。
 そんな所長を放り、三人は和気あいあいと語りだす。もう、碧ちゃんったら。気が早いなあ。だって本当のことだもん。すべての会話は所長の右耳から左耳へと通り抜けてゆき、一つも頭の中に留まることはなかった。朱里さんの左手薬指に光る指輪も目に入らず、しばらくして朱里さんと笹野氏が別れの挨拶を告げても、意味をなさない呟きを漏らすだけ。残されたのは、いつの間にか所長の手の内にあった一枚のカード。
「来月、式を挙げることになりました。高橋さんもぜひご出席してください」
 渡された際に添えられた笹野氏の言葉を理解したのは、二人が去ってからずいぶんあとだった。

「あー……朱里さん、結婚するんだ……」
「だからそう言ったじゃないですか。何聞いてたんですか?」
 今頃になって把握した所長に、芹川さんはあきれた顔をする。姉と将来の義兄がいるあいだは楽しげな様子だったというのに、二人が帰った途端、芹川さんは手のひらを返したように再び不機嫌になってしまった。
 それでも疑問が払われ、同時にクロの見解がシロに変わり、所長は心底安堵して息をつくのだった。
「なんだ、そっか……。朱里さんの恋人、ね。プロポーズの予行練習、ね。そっかそっか……」
 披露宴の招待状を眺め、脱力のあまり椅子の背にもたれかかる。そんな所長に訝しげに眉根を寄せると、芹川さんは一呼吸おいてから切り出した。
「そんなことより先生、ご実家にお帰りにならなくていいんですか?」
 所長は首をかしげながら身を起こす。すべてが勘違いであったことがわかった今、所長はすっかり普段のとおりに戻っていた。脈絡に欠ける芹川さんの言葉にも、まごつくことも、余計な詮索をすることもなく、一言どうして? と返す。
 対する芹川さんは、態度と口調にいっそうとげとげしさが増していた。もはや苛立ちを隠す様子もない。なにか大事な用があるんでしょう、と半ば吐き捨てるような口調。
「桂太朗さんと桜子さんが事務所に駆けこんできたじゃないですか。よっぽどのことなんでしょうね」
「碧乃君、聞いてたの?」
 火曜日のできごとだ。
 よもやあのとき彼女がドアの向こうにいたとは知らず、所長は若干驚きを見せる。芹川さんは、結果的に盗み聞きの形になってしまったことを謝罪するが、かたくなな態度を崩すことはなかった。その睨んでいるといっても過言ではない視線に気づいているのかいないのか、所長は苦笑して答える。
「母さんにも困ったものだよ。あのあと本人からも電話がきてね」
「それだけ大切な日だってことですよ。何時からなのか知りませんけど、うかうかしてる暇なんてないんじゃないですか」
「大げさだなあ。僕に行く気はないって、母さんにもきっぱり伝えたよ」
「でも! もう日程まで組んで、会場とか、準備とかもいろいろ……。それに、先生一人の問題でも……」
 しだいに歯切れが悪くなっていく芹川さんの理由を、ここまできても所長は解していないようだった。あっけらかんと一言告げる。
「いいんだよ、誕生会なんて」
「………………たん?」
 固まったのは、芹川さん。
 混乱する間もなく頭は真っ白になる。言葉の意味を呑みこめず、放心状態で目の前の所長を見つめていた。先ほどとそっくり立場が入れ替わる。
 例によってそんな芹川さんを置き、所長は一人語りだす。
「母さんもいい年して何をやっているんだか。そりゃ誕生日はめでたいけど、いちいちパーティーを開くだなんて、小学生じゃないんだから。毎年律儀に参加してる兄さんと姉さんもよくやるよ。僕はパス」
 と、ここまでは同じ流れであったが、理解をするのは芹川さんのほうが格段に早かった。
「なんだ、そっか……。誕生会、ね。すみれさんのバースデー、ね。そっかそっか……」
 芹川さんは気が抜けたように独りごつ。それから安堵と脱力が入り混じった笑みを口元に浮かべ、盛大なため息を一つ。我に返った途端、コーヒーを淹れてくると告げるが早いかキッチンへ走った。逃げるように所長の前から立ち去ったのは、己の勘違いを恥じているからなのだろう。
 カップにコーヒーをそそぐかたわら、お見合いじゃなかったのか……という芹川さんの呟きが耳に届いた。しかし、所長には聞こえていなかったらしく、
「そうだ碧乃君。今日の夕食、如月さんも誘ってどこかへ食べに行こうか」
 のん気にそんな提案をする。クライアントの仲原さんより、法外な報酬が入ったためだ。
 結局、ここ数日芹川さんの気が立っていた理由は、最後まで所長に伝わることはなかった。芹川さんにとっては好都合だったのか、単に所長の鈍さを再確認する結果に終わったのか。
「いいですねー! せっかくだから、ちょっと高めなところにしましょうよ。リッチなディナー、リッチなディナーっ」
 歌いながら戻ってくる芹川さんは、すっかり機嫌が直った様子なので、どちらにせよひとまずよしとしておきたい。
「じゃあどこにする?」
「うーん……。あ、石蕗さんどうですか? どこかお勧めのお店とか」
「…フレンチダイニング、ル・レーヴ」
「却下」
 間髪入れずに所長が打ち消す。あまりにきっぱりと拒絶したため、芹川さんは少々あっけにとられた。
「どうしてですか? あそこの料理、すっごくおいしいですよ?」
「ダメ。ゼッタイ。」
「……変な先生」
 芹川さんは腑に落ちない様子で呟くが、所長は頑として受けつけなかった。最終的に、回らないお寿司屋さんへ行こう、というところで意見は落ち着く。運ばれてきたコーヒーを一口飲むと、所長はほっと息をついた。
 ミルクなしの砂糖一つ。芹川さんが淹れるいつもの味。
 これでまたしばらくは、平穏な日々が続くことだろう。

 ――了。

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