十五夜想曲 -Lunatic nocturne-



 カーテンを閉めかけて、ふと手を止めた。夜空に浮かんだ白い月が、大きな瞳のように窓ガラスの向こうから見下ろしている。
 今日は十五夜。満月の夜は、決まって喉が渇く。そして、あの夜の出来事を思い出さずにはいられない。
 僕と、彼女の、たった一夜の邂逅を。

* * *


「こんばんは。素敵な夜ね」
 森野 朔夜サクヤはそう言って頭上を見上げた。
「鏡のような月が出てる」
 街灯も人通りもない路地だったが、足元に注意せず歩けるのはそのおかげだった。
 僕と彼女は肩を並べ、どちらともなく歩きだす。その姿は、もしかしたら恋人同士のように見えたかもしれない。決して嫌な気はしなかった。僕は彼女にある種の好意を、あるいは仲間意識に似た感情を抱いていたからだろう。
「昔の人は発想豊かだったんだね。僕には餅つきをしてるウサギなんて、一度も見えたことがない」
「見ようとしてないからじゃない? 外国では、女性の横顔なんですって。だとしたら、あそこに映っているのは誰なのかしら」
 森野 朔夜はクラスメイトだった。逆に言えば、僕たちの接点はそれだけだった。
 会話らしい会話もしたことがない、同じ教室で授業を受けるだけの二人。けれど、赤の他人は、ときに血よりも濃い繋がりを持つ。その夜、僕はそれを知った。
「ねえ知ってる?」
 彼女の口調は、内緒話を打ち明けたくて仕方がない女の子のそれだった。
「満月の日には犯罪が増えるそうよ」
「バイオタイド理論? ロマンティックな話だけど、科学的根拠はなかったはずだよ」
「あら、でも身近に立証者がいるじゃない」
 いつからだろうか、学区内でペット殺しが多発していた。始めのうちは毒入りのエサを食べさせるだけだったが、やがて手口はエスカレートし、最近では“解剖”までおこなっていると聞く。朝起きて、変わり果てた愛犬の姿に卒倒した飼い主もいたらしい。寂れた住宅地とはいえ、極端にひとけがないはそのためだ。
 犯人は、通称「ハイド」。これこそ最初に言い出したのは誰だろう。由来はもちろんかの有名なスティーヴンソンの小説からで、事件の起きる夜が、決まって満月だからだという。
 すべて噂の範疇だ。正確なデータが公表されているわけではない。ただ、嘘であろうとまことであろうと、そちらのほうが噂話として華がある。それだけのことだ。
「地球の約八十パーセントは水。ヒトの体の約八十パーセントも水。あの大きな海を満ち引きさせてるんですもの、私たち人間にも影響を与えていると考えるのは、別におかしな話じゃないわ」
 サーカディアンリズムがあるのなら、月のリズムがあってもいいでしょう? と彼女は首を傾ける。長い黒髪が、流れるように細い肩を滑った。そのとき、かぎ覚えのある香りがふわりと鼻腔に届き、僕は音を立てずに唾を飲んだ。
 僕の隣を行く彼女は誰だろう。机に向かい、黒板を書き写している森野 朔夜とはまるで別人だ。いつも二つに結んでいる髪を下ろしただけで、こんなにも印象が変わるものなのだろうか。
 知らず知らずのうちに震えていた唇を舌でなぞる。乾いているだけで、味はしなかった。
「満月の日に出産が増えるっていうのは、よく聞くね」
「新月の日にも、ね」
 みずみずしい花びらのような唇を弧の形にしならせ、彼女は微笑む。
「私が生まれた日も新月だったの」
「ああ、だから“朔”夜」
「そう。……嬉しいな。下の名前、覚えててくれたんだ」
 そう言って照れたようにはにかむと、その一瞬だけ、教室で友人たちとたわいもない会話ではしゃぐ、僕のよく見知った森野 朔夜が戻ってきた。
「不思議ね。こうやって話すのは初めてなのに、すごく自然な感じがするの」
 僕も、とは言わなかった。言うまでもないことだったから。
 それから僕らは、行くあてもなく路地をさまよった。ほんの十数分だったかもしれないし、何時間もそうしていたのかもしれない。寝静まった民家の通りはすれ違う人もなく、歩幅の違う二人分の足音だけが、この世界で唯一の音だった。
 途中、どんな会話をしただろう。家まで送る? と僕が尋ねたことは覚えている。例のハイドが動物だけでは飽き足らず、先月、とうとう人にまで手を出したという噂も流れている。けれど、彼女は首を横に振った。
「人間だって動物よ?」

 やがて小さな公園に着くと、一つしかないベンチに、僕らは並んで腰掛けた。
 遊具といえば、ブランコと鉄棒しかない廃れた公園だ。狭い砂場には、おもちゃのスコップが捨て置かれたように転がっている。きっと持ち主はもう現れないだろう。そんなどうでもいい考えが、ぼんやりと浮かんでは消えてゆく。
「もしかしたら狼男かも」
「え?」
「ハイドの正体」
 森野 朔夜の話は唐突だ。月面を跳ねるウサギのように、あちらへ行ったりこちらへ行ったり。その突拍子のなさが、僕には新鮮で、楽しかった。
 だから思ってしまう。ここで別れるのは惜しいと。できることなら夜が明けるまで、ずっとこうしていたいと願う。それは、叶わないことなのだけど。
「本当に綺麗な月」
 彼女はうっとりとため息をつき、空を仰ぐ。肩が触れるほどの距離にその横顔があった。僕の頭の中は、彼女のまとう残香で満たされる。
「こんな名前だけど、私、満月のほうが好きだな。今日みたいな、真珠のような月。胸がざわざわするの」
 それは心地よいさざめきだという。
 彼女は目を細め、両手を胸に当てた。黒い皮手袋に包まれた手のひらが、呼吸に合わせて小さく上下する。それは森野 朔夜の生の証。僕は魅入られたように目を離せなくなる。その緩やかな動きに呼吸を重ねると、僕と彼女は一つになれたような気がした。
「ねえ、あなたにはあの月、どんなふうに見える? 死んだ女のよう? それとも――」
「小さな女王?」
「銀の花?」
「酔った女?」
 一瞬、間を空け、僕らは同時に噴き出した。
「サロメは純情だったのよ。それこそ月のような生娘みたいに」
「……そうかもね」
 サロメは月を見た。ナラボートも小姓もヘロデ王も月を見た。そして情欲と嫉妬に溺れ、その身を滅ぼす。ただ一人、預言者ヨカナーンだけは見なかった。彼は月もサロメも見ず、ただ神の姿だけをその目に映していた。
 みな、愛するものしか見ていなかったのだ。
 僕の瞳には何が映っているだろう。彼女の瞳には?
「結ばれない想いは、哀しいわね」
 森野 朔夜は立ち上がり、両手を虚空に伸ばした。高く高く、すがるように、抱くように。淡い月光を全身に浴びて佇む彼女は、めまいがするほど美しかった。
 彼女は上着のボタンに手を掛ける。膝まで隠す長いコートは、まだ夏の暑さが残る夜には不釣合いな格好だった。けれど、闇に溶け込むような黒色は、今夜この場にふさわしい。
 衣擦れの音とともに、幕が上がる。カラン、とコートのポケットから零れ落ちたナイフが、月明かりを反射して彼女にスポットライトを当てる。舞台に立つのは、白いスリップワンピースに赤い花を咲かせた黒髪の少女だった。
 僕は思わず息を呑む。
 彼女は誰だろう。力を込めれば、たちまち折れてしまいそうな華奢な肢体。清純でありながらも、見るものを誘惑してやまない蠱惑の笑み。すべてを見通す深い瞳。手袋さえ剥ぎ取られた細い腕が、想い人を求めて再び宙をかく。
 彼女は、森野 朔夜は、サロメでありヨカナーンであった。
「僕は、」
 かすれた声が漏れる。心臓の高鳴りを抑えられない。熱に浮かされたように全身が火照り、僕もまた上着を脱ぎ捨てた。
 いつの間に月はこんなに低くなったのだろう。手を伸ばせば掴めてしまいそうなほどに。まるでヨカナーンの首を乗せた銀の皿のようだ。死んだ女のようだ小さな女王のようだ銀の花のようだ酔った女のようだ――

* * *


 あの日以来、森野 朔夜は学校に来ていない。欠席理由は、なんだっただろう。暗い面持ちで教室に入ってきた担任は、生徒たちになんと告げたんだったっけ。喉がカラカラで思い出せない。
 ハイドの噂は、飽きもせずに囁かれ続けている。とうとう動物には見向きもしなくなったらしい。……彼らは知らないのだろうか? 人間だって動物だ。彼女の言葉が蘇る。
 僕はカーテンを閉めた。机の引き出しを開け、あの夜こっそり持ち帰ったナイフを手に取る。銀色の刃にくすんだ赤。切っ先を指でなぞると、冷たくなめらかな感触が伝わる。それは、一度だけ触れることを許された彼女の肌を思い起こさせ、僕は誰にも知られないようにと、黒いコートのポケットに忍ばせた。
 あの日、あの場所に、「月は月のよう」と述べるヘロディアスはいなかった。いたのは愚かな月狂いが二人だけ。
 僕は最期に彼女に口づけをして思った。月に映った横顔は、きっと彼女のものだったのだ。


 さあもう行かなくちゃ。

 月が、呼んでる。



FIN.秋祭り2007




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