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夢見た数だけ


「おねえちゃんのふーせん、ちいさいねー」

 帰り道をショートカットして公園を横切る途中、突然背後からそんなことを言われた。振り返ると、噴水のふちに腰掛けていた男の子がこちらをじっと見ている。身に着けている紺色の園服は、近くにある私立幼稚園のものだ。
 あたしはきょろきょろと周囲を見回した。
「風船なんてどこにもないけど?」
「あるよ。ほらそこー」
 ひとの顔を指差すな。親に教わらなかったのか。
 ちょっとむっとしながら男の子に歩み寄る。
「ないよ。あのね、お姉ちゃん急いでるの。変なこと言ってからかわないように」
 男の子を怖がらせない程度のすごみを込めて言う。しかし男の子にはなんの効果もないようで、
「おねえちゃんのふーせん、ちいさくてかわいそうだねー」
 なんて再びのたまった。しかもちっとも哀れみなど含まれていない、あっけらかんとした口調で。
 これだから金持ちの親はしつけがなってない。
 ここは無視して過ぎ去るべきか、それともダメ親に代わってこのあたしがきちんと言い聞かすべきか。考えていると、男の子は少し離れたベンチのほうを指差して言った。
「あのおにいちゃんのふーせんはちょっとおっきい。となりのおねえちゃんのふーせんはもっとおっきいねー」
 だから指を差すな。もちろん風船なんてものも存在しないぞ。
 もしかして、ちょっと可哀相な子なのかもしれない。そう思うと、男の子の一挙一動がいたいけなものに見えてきた。気がしないでもない。
 ベンチでは、大学生らしいカップルが真っ昼間からいちゃついている。四人掛けだからもっと悠々と座れるだろうに、必要以上に密着しあって、初夏のさわやかな風が台無しなくらい暑苦しい。女のほうが、卒業後は一緒に暮らそうねー、なんて甘えた声で男にしだれかかっていた。
「あ、ふーせんふくらんだ!」
 男の子が珍しい昆虫でも捕まえたかのように嬉しそうな声を上げる。
「……ねえ、その風船ってなんなの?」
「みんながもってるふーせん。あたまのうえのほうにうかんでるよ。おっきくなったりちいさくなったりして、おもしろいんだよ!」
 まともな答えなどはなから期待していなかったが……これは重症だ。
 男の子は目を輝かせて力説する。
「おっきくふくらんだふーせんは、とってもきれいなんだよ。あかとかあおとか、いろんないろがあって!」
「へえ。じゃあお姉ちゃんの風船は何色かなー。緑かなー、紫かなー。それともゴージャスに金色かなー」
 極めてやる気のない声で受け流す。てっきり、「んっとね、みずいろ!」とかなんとか返ってくるかと思ったら、男の子は急に泣き出しそうな顔になって俯いてしまった。
「……おねえちゃんのはね、はいいろ。はいいろはね、いちばんかなしいいろなんだよ。だっておかあさん、はいいろになってとおくにいっちゃったんだもん。もうかえってこないって、おとうさんがいってた」
 男の子の言っていることは、わかるようでわからないようで、でもなんだかものすごく心を締めつけられる思いがした。
 なんて答えればいいのかわからないまま黙っていると、男の子がぽつりと呟いた。
「おねえちゃん、おおきくなったらなにになりたい?」
 あ、デジャヴだ。
 ついさっきも同じ質問をされ、あたしは学校を飛び出してきた。それは今一番、答えに困る質問。いや、答えは簡単だ。『何もない』。
 押し黙っていると、男の子はあたしが答えられないことを悟ったようだった。
「なにもないとね、ふーせんはどんどんしぼんでいっちゃうんだよ。だからね、」
 そこまで言いかけたとき、遠くで男の人の声がした。誰かの名を呼ぶその声に、男の子が振り返る。
「あ! おとうさんだ!」
 男の子は立ち上がると、とことこと男の人のもとへかけていった。その背中をあたしはただぼうっと眺めていた。
 公園を出ていく寸前、男の子がこちらを振り向いた。そして精一杯の大きな声であたしに言った。
「おねーちゃんのゆめのふーせん、おっきくなるといいね!」
「夢の、風船……」
 夢のないあたしは、しぼんだ灰色の風船……。
 あたしは真っ白のままの進路希望調査用紙を取り出した。
 ……大きな鮮やかな風船じゃなくてもいい。せめて、薄く色づいた風船になってくれればいいから。
 ゆっくり考えてみよう。

FIN.

 


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