*紅茶


「元気ないね」
 そう言って、マスターはカップを差し出した。
 シンプルだけど品のいい白いティーカップの中は、琥珀色の液体で満たされ、甘い香りと温かな湯気を運んでくる。あたしは何も言わず、目の前に置かれた紅茶を見下ろした。

 大通りから一つそれた細い裏路地に、ひっそり店を構えているカフェ・プリムローズ。
 ドアベルを鳴らして店内に入れば、木目調で統一された内装と、落ち着いたクラッシク、それから、マスターの人の良い笑顔が出迎えてくれる。ランチタイムや午後のティータイムは女性客でにぎわっているけれど、平日の午前中はたいてい空いている。
 水曜日の、午前十時。
 カウンターの奥から三つめは、いつの間にかあたしの特等席になっていた。

「飲まないと冷めちゃうよ?」
 いつまでたっても口をつけようとしないあたしに、マスターは言った。
「紅茶は温度が肝心だからね。お客さんにはいつでもベストを味わってもらいたい」
 にっこりと微笑んであたしを促す。
 カップを両手で包むと、じんわりと温かさが伝わってきた。こくん、と一口。優しい味がのどを通りすぎてゆく。
「……オレンジペコー?」
「当たり」
 毎週毎週通いつめたおかげで、だいぶ紅茶の種類には詳しくなった。ついでに、マスターに顔と名前を覚えてもらえたというおまけ付き。
「なんとなく実夏ちゃんのイメージ」
「あ、それ、『みかん』って言いたいんでしょ」
 ちょっと頬を膨らめてみせると、マスターはいたずらっぽい笑みを返した。
 あたしのオーダーはいつも決まっている。「マスターのおまかせ」。一押しのフレーバーが出てくるときもあるけれど、試作品という名の、今にも化学反応を起こしそうな謎の液体を飲まされることもある。
 それでも、マスターが選んでくれた紅茶なら。あたしは文句を言わずいつも飲み干す。
 けれど、今日は。
 これを飲んでしまったら、あたしがここにいる理由がなくなってしまう。

 中身を半分残して、カップをソーサーに戻した。
「口に合わなかった?」
 そんなあたしを見て、マスターが心配そうに尋ねる。あたしはすぐに首を振った。
「ううん! そんなこと、ない。すっごくおいしい」
「そっか。よかった」
 穏やかな、おとなの微笑み。
 今のあたしにはとても直視できなくて、目を背けるようにカップの残りを一気にあおった。少しだけぬるくなった紅茶とともに、あたしの想いも全部飲み干す。
 空になったティーカップは、まるであたしの心の中だった。
 全部消してなくしたつもりなのに、想いの雫が未練がましく底に残っている。
「――ごちそうさまでしたっ」
 あたしなりのさよならの文句。今はそう言うのが精一杯だった。
 席を立つと、マスターがいつもと変わりない笑顔で、いつもと変わりない言葉をかける。
「またどうぞ」
 もう、「また」はないんだよ。
 心の中でそう呟いて、あたしは店をあとにした。カランコロン、とドアベルがあたしの代わりに泣く。結局、最後まで言うことができなかった、「お幸せにね」の一言をかき消して。

 あたしがあの特等席に座ることは、もう二度とない。

FIN.

 


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