+CLOVER+
「まったく、どれだけ心配したと思ってるんですか」
とげのある口調でそう言うと、青年は書簡を手渡した。
「一応心配はしてくれていたんだな」
「当然です! あの高さから落ちたんですよ? 死んだと思うのが普通じゃないですか。それがその日の夜あっさり、しかも無傷で帰ってくるんだから……。隊の者はみんな、隊長は不死身だって騒いでますよ」
「それは悪いことをした。私が死んでいたら、ガルトニア宮廷騎士団一番隊の次期隊長は君で決まりだったのにな、ロサ」
書簡に目を通しながらそう告げる人物を、ロサと呼ばれた青年が睨みつけて言う。
「どうしてあなたはそうなんですか! みんなも僕も、本当に心配してたんですよ!? それに! あなた以外の隊長なんて考えられません。それは隊の者も同じなはずです、アスター隊長」
急に真剣になった口調に驚いて顔を上げると、ロサはつらそうな表情でうつむいていた。その様子にアスターは少しだけ困ったように笑い、その頭にそっと手を置いた。
「……悪かった。でも、私だって死んだと思っていたよ。崖の下で目が覚めた時は本当に驚いた」
「あの女の子……本当にあんな小さな子が隊長の命を?」
「みたいだな。自分でも記憶がないからよくわからないが……。けれど、彼女が高い治癒能力を持っていることは確かだ」
そう言ってアスターはその時の出来事を思い返した。
目の前で肩の傷を治してしまった少女。頭上を見上げると、岩の壁の終わりは遥か上。かなりの高さから転落したというのに、確認できた怪我は左肩の傷しかなかった。しかもこれは崖から落ちる前、ロゼアの兵に斬りつけられた傷だ。
落ちてくる途中岩に引っかかったのか、服はあちこち破れ、血が流れた跡もある。しかしそこに肝心の傷は一つもなかった。脚も腕も、折れた様子も捻った様子もない。
「もしかして、君が?」
アスターはそう尋ねたが、少女は微笑むばかりで何も答えなかった。しかし現に彼女は目の前で傷を治して見せた。恐らく他にあったはずの怪我は、すべて彼女が治してくれたのだろう。そう思い、納得するしかなかった。
その後なんとか崖を這い上がってきたアスターは、少女と共に自軍の野営地へと帰還した。少女を自分のテントに置いてくると、ロサのもとを訪れたのだった。
「……で、どうするんですか? あの子。このままここに置いたって危険なだけですよ?」
「そうは言っても、一人で放り出すわけにもいかないだろう? この辺りはロゼアも多いし、それに――どうやら記憶喪失らしいんだ」
「はぁ?」
ロサは思わず間抜けな声を出す。アスターは読み終えた書簡を畳み直すと、一息置いてから続けた。
「自分がどこから来たのか、そもそもここがどこなのか……いや、それ以前に自分が誰なのかすらわからないらしい」
「なんですかそれは……」
「とりあえず今はここに置いて、王都の方へ連れていこうと思う。それからちゃんとした施設に届けるつもりだよ。幸いなことに、この遠征もあと二日で終わりのようだしな」
「……え?」
きょとんとするロサに、アスターは先程まで目を通していた書簡をひらひらさせて見せた。
「城からだよ。ひとまず二日後、宮廷の方へ帰還しろとのことだ」
「そうですか。今回は随分早かったですね。みんな喜びますよ」
「知らせるのは朝になってからでいいだろう。私も今日はもう休ませてもらうよ。ロサも、明日も早いからな」
「はい。……あ、手ぇ出しちゃダメですよ隊長!」
テントを出ようとしたアスターの背中に向かって、ロサが冗談めかして言った。アスターは一瞬立ち止まったが、振り向かずに一言、
「お休み」
とだけ言ってその場をあとにした。
アスターが今いるのは、王都・ガルトニアの西の国境。
ガルトニアには、国王直属の宮廷騎士団が編成されている。東の大陸最強と謳われる騎士団に、オーツとして生を受けた少年なら誰もが一度は入団を夢見るだろう。
一から十二まである騎士団の隊の中で、アスターは最も戦闘能力に秀でた一番隊の隊長を務めている。若いながらその役目を立派に果たし、優れた剣術と品行を持ち合わせた彼の名前は、ガルトニアだけでなく東の大陸全土に知れ渡っていると言っても過言ではなかった。当の本人だけはそんなことに関心もなく、ただただ与えられた任務をまっとうしているだけだったが。
隊長専用のテントに戻ったアスターは、静かにベッドの脇に腰を下ろすと、そこに横たわっている先客に目をやった。
ぐっすりと眠っている少女。こうやって見るとごく普通の少女にしか見えない。ただ一点、その髪と瞳の色を除けば。自分と同じオーツのものでもなければ、敵対するロゼアのものでもない。一種精霊にも似た神聖で儚げなその色に、アスターは心を奪われかけていた。
「……ん……」
少女の口から漏れた小さな声でアスターは我に返った。少初めて出会った時と同じように、少女はゆっくりと目を開いてこちらを向いた。
「ああ、ごめん。起こした?」
「……ううん。あのね、アスターが帰ってくるまで待っていようと思ったんだけど、でもとちゅうでねむくなっちゃって、それでおきたらアスターがいて……」
必死に説明しようとする少女の姿に、アスターは思わず破顔してしまう。
「そうか。今日は色々あったからね。君も疲れただろう? でも君のおかげで本当に助かったよ。改めてありがとう」
「……どういたしまして!」
少女はアスターに頭を下げられ驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔でそう答えた。アスターも笑い返すが、ふと思い出したように尋ねた。
「ところで、やっぱり何も思い出せない?」
野営地に着いたあと、アスターは少女に色々と尋ねてみたのだが、帰ってきた答えはすべて「わからない」だった。ロサに話した通り、自分の名前も出身も、あの治癒能力についても。
アスターの質問に少女はしばらく考え込んだが、申し訳なさそうにつぶやいた。
「……ごめんなさい」
「いいんだよ、無理に思い出そうとしなくても。でも困ったな。せめて名前くらいわからないと、僕も君をどう呼んだらいいのか」
アスターがあごに手を当てると、少女は急に顔を上げて言った。
「アスターがつけて!」
「え?」
「わたしの名前、アスターがつけて!」
少女の思いがけない提案に、アスターは驚いて一瞬固まってしまった。
ペットに名前をつけるのとはわけが違う。そう簡単に人の名前を、赤の他人である自分がホイホイ決めてしまってもいいものなのだろうか。
しかし少女はダークグリーンの瞳を輝かせて繰り返す。
「ね、わたしの名前、アスターがつけて!」
「うーん、それじゃあ――」
「クローバー!?」
テントの中にロサの声が響き渡った。
次の日の朝。アスターを起こしロサがにテント訪れると、一足早く目が覚めていた少女に昨日の夜の出来事を聞かされたのだった。
「また隊長も変わった名前を付けましたねー。なんでよりによってクローバーなんですか?」
「……なんだっていいだろ」
寝起きの低い声でアスターは無愛想に答えた。
理由は至極簡単なものだった。傷を治した時、少女の額に現れた紋章。それが四つ葉のクローバーに似ていたから、ただそれだけだ。昨日の夜はその場の思いつきで付けてしまったのだが、確かにロサの言う通り、人の名前としては多少……いや、かなり奇妙なものだった。
ロサがその奇妙な名前を確認するように何度もつぶやく。
「クローバー、クローバーねぇ」
「ああもうわかった! やっぱり別の名前にしよう!」
耐え切れなくなったアスターがそう叫ぶと、少女が慌てて二人の間に割って入った。
「いいの! わたしこの名前すきだもん! クローバーでいい!」
必死にそう言う少女に、アスターもロサも一瞬言葉を失ってしまう。少女は自分よりも頭いくつ分も高いアスターを見上げ、その腕を掴んで言った。
「『クローバー』っていい名前だね。ありがとう、アスター」
「あ、ああ、どういたしまして……」
本当に嬉しそうにそう告げる少女――クローバーに圧倒され、アスターはそう答えることしかできなかった。
そんな二人の様子を見ていたロサが苦笑しながら言う。
「ま、本人が気に入っているならいいんじゃないですか? それにしても随分隊長に懐いてるみたいですね、クローバーちゃん。これでやっと隊長にも春が来たってところでしょうか」
「……つまらない冗談だな、ロサ」
「え? 僕は冗談なんて言ってませんけど?」
「…………」
何も言い返せないアスターをロサが楽しそうに眺める。クローバーは一人会話の意味が理解できず、アスターの腕に掴まったまま、頭にはてなマークを浮かべて二人を見上げていた。
その時、隊員の一人が慌ただしくテントに駆け込んできた。ロサがすかさず厳しい口調で咎める。
「朝から騒々しいですね。ここは隊長のテントですよ?」
「もっ、申し訳ありません! しかし……」
隊員の尋常ではない様子に気づき、アスターが尋ねた。
「どうした? 何かあったのか?」
「急襲です! ロゼアの軍がこちらに向かっているとの報告が入りました!」
「ロゼアが!?」
隊員の言葉に驚き、アスターとロサが顔を見合わせる。
「向こうの数は?」
「恐らく三百以上」
「……わかった。ロサ、すぐに隊員を集めろ。出撃の準備だ」
「わかりました」
ロサは頷くとテントをあとにした。アスターもすぐに戦闘の準備を始める。一人取り残されたクローバーだけが、テントの隅で呆然とそれを眺めていた。それに気づいたアスターが慌てて駆け寄り、膝を落としてクローバーに説明する。
「敵の襲撃があって、えーと……とにかく今から戦いに行かなければならなくなったんだ。クローバーはここでじっとしてるんだよ。危ないから、テントからは絶対に出ないように。わかった?」
早口でそう告げられ、クローバーは首を傾げて寂しそうに言った。
「アスター、行っちゃうの?」
「うん、でもすぐに戻ってくるから大丈夫だよ。とにかくクローバーはここで待っていること。いいね?」
「でも……」
クローバーは引き止めるような仕草を見せたが、アスターは立ち上がると腰に剣を差し、足早に外へ向かった。
「アスター!」
後ろからクローバーの呼び止める声が聞こえたが、アスターが振り返ることはなかった。