+CLOVER+

はじまりの章
− プロローグ 3 −


 ロゼア襲撃の知らせを聞いてから十分もしないうちに、そこは戦場と化した。
 アスターもその中の一人として戦っていた。目の前に立ちはだかる敵兵を斬りつけると、男は断末魔の悲鳴を上げ、崩れるように倒れ込んだ。やがてその男は動きを失ったが、アスターがそれを確認する間もなく今度は炎の矢が飛んできた。すかさず左手をかざすと、腕にはめられたブレスレットからシールドが現れ、攻撃を弾き返す。すぐにアスターが攻撃を仕掛けてきた相手を斬りつける。男はやはり悲鳴を上げて倒れ、やがて事切れた。
 相手の攻撃を防ぎ、斬りつける。そこに「人を殺している」という感覚は、あまりない。アスターにとって、それは騎士団に所属する者としての任務の一つであり、このコルディア大陸に生まれた者の宿命として割り切っていた。そこに疑問を持ってしまったら、たぶん戦争なんてできないだろう。
 戦っている時のアスターは常に無心だった。ただ反射的に、身体の動くままに相手に剣を向け――

「アスター!」

 その時不意に自分を呼ぶ声が聞こえ、アスターは現実に引き戻された。声の主を探して辺りを見回すと、目に入ったのはここにいるはずのない人物。戦場には不釣合過ぎる、幼い少女の姿だった。
「クローバー!」
 その名前を呼び、アスターは慌てて少女のもとへと駆け寄った。
「どうして来たんだ! テントから出るなって言っただろう!?」
「ごめんなさい……でもアスターが心配だったから……」
 アスターが叱りつけるように言うと、クローバーは怯えたような表情でそれだけ呟いた。
「とにかく、こんな所にいたら危険過ぎる! 早くテントの方へ戻って――」
「アスター!」
 言葉を遮り、クローバーが突然声を上げた。アスターが驚いてその視線の先を追うと、無数の炎の矢が二人目掛けて向かってきていた。
 ――間に合わない!
 そう思った瞬間、アスターの目の前に一人の人物が飛び込んだ。ブレスレットをかざし、シールドで攻撃をすべて弾き返す。
「ロサ!」
「何やってるんですか隊長!」
 振り向いた人物は怒りを含んだ口調でそう言ったが、アスターのそばでうずくまっている少女に気づくと再び声を上げた。
「クローバーちゃん!? なんでここに……」
「テントから出てきてしまったんだ」
「出てきたって、危なすぎますよ! 早く戻らないと!」
 ロサもアスターと同じことを言ったが、クローバーは先程の攻撃に驚いたのか、無言のままアスターにしがみ付いて動こうとしなかった。その様子を見てロサが言う。
「隊長、早くその子をテントに連れていってあげてください」
「私が? だが今戦場を離れるわけには」
「大丈夫です。兵の数ではこちらが勝っていますし、戦況も今のところ有利に進んでいます。クローバーちゃんをテントに置いてすぐに戻ってきてくれれば問題ありません」
 ロサにそう言われ、アスターは足元にしがみ付いているクローバーを見下ろした。よほど怖かったのか、その小さな身体はかすかに震えている。とても一人で戻れそうな様子ではない。
 アスターは小さくため息をつくと頷いた。
「わかった。さあクローバー、行くよ」
 その言葉に恐る恐る顔を上げたクローバーを抱き上げると、アスターはテントのある野営地へと向かった。

 戦場から少し離れた先。隊のテントが設置された野営地までやってくると、アスターは抱きかかえていたクローバーを降ろして言った。
「まったく、ちゃんと言うこと聞かなきゃ駄目じゃないか。あそこがどれだけ危険かわかっただろう?」
「ごめんなさい……」
 クローバーはうつむいたままそう答えた。そんなクローバーを見てアスターはまた小さく息を吐く。そしてそっと頭に手を置くと、今度は優しい口調で告げた。
「わかればいいんだ。それじゃあもう行くけど、今度はちゃんとここにいるんだよ?」
 そう言って再び戦場へ戻ろうとしたアスターだったが、何かに引っ張られて足を止めた。振り返ると、クローバーがアスターの服の裾を握っている。
「クローバー」
 アスターは困ったように名前を呼んだが、クローバーは今にも泣き出しそうな表情になる。
「アスター、行っちゃだめ」
「そうはいかない、もう戻らないと。ロサだって待ってるんだ」
「行っちゃだめ!」
 クローバーはそう言って掴んだ裾を離そうとしなかった。困り果てたアスターは、膝を落とすとその肩に手を置いた。そしてクローバーを諭そうとした、その時。

 ドォ……ン!!

 突然、地鳴りのような轟音が響き渡った。同時に地面が大きく揺れ、大気がびりびりと震動する。けれどそれは一瞬で収まってしまった。
「なんだ……?」
 アスターが驚いて周囲を見回すが、辺りは静まり返っているだけで、何が起こったのかはさっぱりわからなかった。しかし、アスターはすぐにその異変に気づく。
 ――静か過ぎる。
 戦場からは離れているとは言え、激しい戦乱の音は先程まで野営地まで届いていた。しかし今はなんの音も聞こえてこない。剣がぶつかり合う音も、人々の喧騒も。辺りは異様な静寂に包まれていた。
 アスターは得体の知れない不安感に襲われ、弾かれたように戦闘が行われているはずの場所へ走り出した。
「アスター!」
 クローバーが慌てて名前を呼んだが、その時のアスターの耳には何も届いていなかった。

*

「なんだ、これは……」
 呆然とつぶやくアスターの目の前には、悪夢のような光景が広がっていた。
 そこはついさっきまで戦場になっていたはずの場所だった。自分もその中で戦っていたはずだ。
 しかし、そこでは戦闘など行われていなかった。それどころか誰一人としてその場所には存在していない。生きている人間は、誰一人も。
 アスターが辿り着いた時、その場所はすでに変わり果てたものとなっていた。戦っている者は一人もおらず、代わりにあったのは地面にえぐられたようにできた大きなクレーターと、その周りに倒れている人々。始めの二、三人を調べると、アスターは生死の確認をすることさえ諦めてしまった。横たわる人々がすでに事切れていることは、誰の目にも明らかだ。
 今まで多くの戦いを経験してきたアスターだったが、これほどまでにひどい戦場を見たのは初めてだった。人々がまるで壊れて捨てられた人形のように投げ出され、ぴくりとも動かない。仲間だったオーツの隊員も、敵方のロゼアの兵も。そこにいたすべての者が、今はもう、死んでいる。
 アスターは夢遊病者のようにふらふらとその場所を彷徨っていたが、視界の端に入ったものにふと足を止めた。
 紺色の服。それは自分が身に着けているものと同じ騎士団の制服だった。横たわっている人々の中にはその服を着た者が当然何人もいたが、うつ伏せに倒れているその背中は妙に見覚えのあるものだった。
 しゃがみ込みんでその顔を覗き込んだ瞬間、アスターは愕然とした。
「ロサ」
 かすれた声が漏れる。それは有能な部下であると同時に、かけがえのない友人でもあったその人物の変わり果てた姿だった。
「ロサ……ロサ!!」
 抱き起こして揺さぶるが、冷たくなった体から返事が返ってくることはなかった。
 アスターはもう何も考えることができなかった。突然の出来事に「悲しい」という感情さえも失われ、ただ呆然とその場に座り込んでいた。その後ろでクローバーが一人、アスターの代わりに静かに涙を流していた。

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