+CLOVER+
うわさ――
いつの時代、どんな場所にも噂というものは存在する。
これもそんな、ごくありふれた噂の一つ。
『ねぇねぇ、この前西高の教師が車で事故ったって言ってたじゃん』
『ああ、電柱に激突して即死ってやつでしょ?』
『うん。あれねー、また“見た”らしいよ』
『“見た”? 見たってまさか――』
『そう! たまたまその交差点にいた男子がさぁ』
『また!? この前の自殺した女の子のときもそうだったじゃん』
『やっぱりホントにいるのかな〜』
「はぁ!? ばっか、んなわけねーだろ!」
朝の通勤ラッシュで一番混み合う時間。
オレ、藤川 誠二は駅のホームで電車を待っている。ごくふつーの公立高校に通う、ごくふつーの高校生だ。
「そうやってムキになるところが逆に怪しいんだよな〜。茜ちゃん、かわいいしな〜」
「はぁ? そういうおまえこそ怪しいっつーの」
隣でニヤニヤと気に障る笑顔で話しかけてくるのは、クラスメイトの紺野。話に出てきた「茜ちゃん」っていうのは、オレの幼馴染みで同じくクラスメイトの桜井 茜のことだ。
どうやら紺野は茜とオレの仲を疑っているらしい。
断っておくが、オレと茜はただの幼馴染みでしかない。疑われたっていい迷惑ってもんだ。
「二人とも! なーに話してんの?」
そんなくだらない会話の途中、オレと紺野は突然背中を叩かれ振り向いた。
「お、噂をすれば茜ちゃん!」
「うわさ? 何よぅ、私のこと話してたの?」
紺野にそう言われ、ちょっと怒ったように頬を膨らませているのが桜井 茜だ。
オレたちはわりと三人で登校することが多い。ま、三人とも昔からの付き合いだからな。
「よ。おはよ」
「おはよう、誠ちゃん」
この「誠ちゃん」という幼稚園以来の呼び方は、正直言ってやめてほしい。オレももういい加減十七歳なんだ。……なんて言い出せず、結局このままで今に至る。
人の苦労も知らないで、茜と紺野はのん気に今日提出の課題のことなんか話している。そうしているうちに、電車がホームに入ってくることを知らせるメロディーが流れた。オレたち三人はドアの位置に並ぶ。
いつもと何も変わらない。
そう、いつも通りの、ごく普通の朝の風景だ。
しかし今思えば、このときからオレの人生はどこかオカシクなっていたのかもしれない。それはほんのわずかなズレだったのかもしれないけれど――
そのときふと目に留まった。
黒っぽいスーツを着た、どこにでもいるような中年サラリーマン。オレとは反対のホームで、ちょうど向かい合うような形で立っていた。
別にどうともないのだけれど、なぜか目が行ってしまう。そのオッサンだけ妙に周りから浮いて見えるのだ。まるでその空間だけモノクロになって切り取られたように……。
と、反対のホームに電車が入ってきた。徐々に電車は近づいてくる。オッサンは早く電車に乗りたいのか、前にいた人を掻き分け、足元に引かれた黄色いラインよりも前に出てきた。
そういう奴ってよくいる。
でもオレは、なぜかそれを見て思った。
(危ないな)
同時だった。いや、オレのほうが遅かったのかもしれない。
そう思った瞬間、そのオッサンはさも当たり前かのように足を一歩踏み出していた。
足元にホームはない。
一瞬空中に浮いたオッサンの体は、次の瞬間には無様に線路の上に投げ出されていた。そしてゆっくりと起き上がる。
「おっ、おい――」
とっさに俺の口から漏れたその言葉は、すぐに甲高い電車の警笛の音で掻き消されてしまった。
ピィィィ――――ッッ!!!
駅にいた人全員の視線が集中した先、オッサンだけが動じることなく線路の上に立っていた。キィキィと耳障りなブレーキ音を立てて迫りくる電車を、まるでその手で受け止めるかのように。
ホームのあちこちで女性の悲鳴が聞こえた。駅員も慌てふためいている。
でもオレは見たのだ。
そのとき、オッサンのすぐ隣に、もう一人誰かが立っているのを。
全身黒尽くめの格好をした、銀色の髪を持つ人物を――
目が合った、そう思った瞬間、ドンッという鈍い音と共にオッサンの体は宙に放り出されていた。
一際大きな悲鳴が上がる。
電車は五十メートルほど進んでやっと止まった。オッサンは隣の線路に横たわってる。素人目に見ても、もうだめだろうということは明らかだった。
(それよりさっきのアイツ――)
はっとして周りを見渡す。しかし事故の瞬間オレが見た人影はどこにもいなかった。
幻覚……だったのだろうか。しかしその姿はオレの脳裏にはっきりと焼きついていた。
しばらくすると、混乱する人々をよそにオレたちのホームにはいつもどおり電車が入ってきた。みんな動揺が収まりきらないまま電車に乗りこんでいく。車内でも先ほどの事故のことで話題は持ちきりだった。
そしてオレたち三人もまたしかり。
「オレ、瞬間見ちゃった……」
紺野がぽつりと洩らす。
「……私も。なんか、やだな」
「ああ。朝っぱらからあんなもん見て、気分いいわけねーよな」
「ん……。あのあとどうなったのかな……ねぇ、誠ちゃん。……誠ちゃん?」
名前を呼ばれ我に返る。茜は心配そうにオレの顔を覗きこんでいた。
「あ、ああ。なに?」
「なにって……さっきの事故のことだよ。おまえも見てただろ?」
「ああ、見た……」
「やっぱり自殺かなー。リストラってやつ? サラリーマンも最近はいろいろ大変だからなぁ」
「紺野君!」
茜が冗談めかしてそう言った紺野を制す。
オレは二人の会話をどこか遠くで聞いていた。上の空……オレにはあのとき見た黒尽くめの人物がどうしても気になっていた。
意を決して二人に訊いてみることにする。
「なぁ、二人とも事故の瞬間見てたんだろ?」
「ああ」
「見てた、けど?」
「…………」
「なんだよ、真面目な顔して。おまえも気分悪いのか?」
「いや……。その、笑わないで聞いてくれよ?」
妙に真剣な様子のオレに、茜と紺野は不思議そうに顔を見合す。
そしてオレは二人に話しはじめた。あのとき見た人物のことを――
「――ぷっ」
「……紺野?」
「く、くくく……あっはははは! なんだよそれ〜? おまえそれギャグのつもりか?」
「なっ……!」
真剣にオレの話を聞いていたかと思ったら、突然紺野が大声で笑い出した。見れば茜もうつむいて笑いをこらえているようだ。
こいつら……こっちは真面目に話してるっていうのに……。
「真面目に聞けよ! オレはホントに見たんだよ!」
「銀髪黒尽くめの奴をかぁ? あっははは、それってあれだろ? 最近噂になってる『死神』ってやつ」
「そっ……そうだよ! オレはそれを見たんだよ!」
「ぎゃははは、やめろ腹痛い! おまえ真面目にそういうこと言うなよー」
「おい紺野! そっちこそ真面目に聞けって!」
「……ふふっ」
「あっ、茜まで笑うなよ!」
そうして降りる駅に着いた頃、ようやく二人笑いは収まったようだった。しかしまだ笑いがあとを引いている紺野は、オレの肩を叩いて言った。
「あーもうわかったって! あれだろ? 事故なんて見て沈んでたオレたちを明るくさせようとしてくれたんだろ? サンキュ、サンキュ。もー十分笑わせていただきました」
「だ〜か〜ら〜!!」
「わーったわーった。仮にだ、それが噂の『死神』さんだったとしよう。でも藤川、おまえって霊感とかあったっけ?」
「えっ? 誠ちゃんって幽霊見えるの!?」
「……いや、全然」
「だろ〜? なーんで霊感もないおまえが、死神なんて見えちゃうわけ? やっぱり錯覚だよ、目の錯覚!」
「……でも見たんだよ! 見えちまったもんはしょうがないだろ!?」
なおも信じようとしない紺野に食ってかかるオレ。やがて紺野はいい加減あきれたようにこう言った。
「はいはい、じゃあこうしよう。おまえは死神を見た。でもほかの奴らは見てない。残念でした。というわけでこの話はおしまい! ……な?」
「〜〜〜〜〜ッ」
全然よくない。結局二人はオレの言うこと信じてないじゃないか。くそぅ、こんなんだったら話すんじゃなかった!!
オレは激しく後悔した。
でもこの後もっと後悔するようなことが起こるとは、このときのオレは微塵も思っていなかった――