||| 銀色の月 |||


11 : 欠けた月はまた満ちて・後


 人は死ぬ間際、今までの人生が走馬灯のように見えるのだという。だとしたら、今まさにオレはその状況にあった。
 ――だけど、そのときのオレには何も見えてこなかった。あまりに突然すぎたせいかもしれない。現にオレには『死ぬ』という実感がまるでなかった。
 通り過ぎていく景色は、逆さまのままどんどん地面に近づいているようだったけれど、そのしょ自分がどうなってしまうかなんて、そのときのオレの頭の中には微塵もなかった。ただ代わりに頭をよぎったのは、いつか聞いたグレイの言葉だった。

『俺たち天導使が運んでいるのは、すべての人間の魂ではない』
『下界に未練があったり、突然の事故で自分が死んだことに気づいていなかったり、そんな人間の魂だ』

(ああそれ、まさにオレのことだな。じゃあオレの魂も天導使に運ばれんのかな……。案外シオンだったりして。だったら、それも悪くないかもな。
 ……って、それはねぇか。アイツの百人めは茜だったし――)
 そう思った瞬間だった。

『……セイジ!』

 誰かに名前を呼ばれた気がした。
 ――茜? いや違う。アイツのオレの呼び方は、「誠ちゃん」だから――

『セイジ!!』

 もう一度名前を呼ばれたそのとき、急にオレの周りのものすべてが止まったような気がした。風も、時間も、そしてオレ自身さえも。なにか、空気よりももっと柔らかい、透明ななにかに包みこまれているような不思議な感じ。暖かくて、心地よくて、まるで誰かの腕に抱かれているような――
 抱き起こされるように、天地逆さまだった体が元に戻る。そしてこれはオレの錯覚じゃなく、本当にゆっくりとそのまま空中を落下していった。やがて、ふわりという表現そのままに地面へと着地する。
 今自分の身に起きたことが何がなんだかさっぱりわからず、オレはその場に呆然と立ち尽くしていた。その様子を見ていた奴らが周りに集まってくる。
 当然だ。四階建て、高さ二十メートルはあるだろう校舎の屋上から落ちて、当の本人は傷一つないんだ。しかもわけのわからない力でゆっくりと地面に降り立ったときている。
 オレは呆然としたまま辺りを見まわした。あの声の主は、いったい――?
「――! シオン……シオンなのか!?」
 はっとして名前を呼んだが、返事は返ってこない。
「シオン? シオンなんだろ!?」
『……セイジ……』
「シオン! やっぱりおまえだったんだな! ……? どうしたんだよシオン、その体」
 オレの目の前にシオンがいつもどおり音もなく現れた。しかし現れたその姿は、いつもとはだいぶ違うものだった。向こう側の景色が見える――透きとおっているのだ、シオンの体が。もともとどこか儚げで不安定だったその姿は、今にも消えてしまいそうなほど薄れてしまっている。まるでシオンという存在自体がなくなってしまいそうなほどに。
『セイジ……。間に合って、よかった』
「シオン? どうしたんだよ!?」
『鬼籍に載った人間を助けることは、もっともタブーとされていること。俺はそれを犯してしまったから』
「え……? でも、それは茜だろ? それに、茜を助けたのはオレ――」
『あのとき……セイジが茜を助けに行くと言ったとき、見えたんだ。……セイジの死ぬ瞬間が』
「決まってんだろ! 助けるんだよ!!」――そう言って走り出そうとしたオレを止めたシオン。オレはその言葉で、あのときシオンの様子がおかしかったことを思い出した。なにか恐ろしいものを見てしまって怯えているような、そんな表情をしていた。
 そのときふと、前にシオンが言っていたことが頭をよぎる。

『死期の近い人間は見ただけでわかる』
『見えるんだ。死ぬ瞬間が……フラッシュバックみたいに』

 つまりオレは死ぬことになっていた――?
「どういう、ことだよ」
『あの瞬間、俺の鬼籍の最後のページは変わっていた。百人めはアカネではなく、セイジ、おまえになっていたんだ』
「オレが、おまえの百人めに――!?」
『タブーを犯した者は、もう天導使でいることはできない。さよならだ、セイジ』
「シオン? さよならっておまえ……なんでそんなこと言うんだよ!?」
『おまえに「人間だ」って言ってもらえたとき、すごく嬉しかった。ずっとセイジみたいになりたいと思っていたから……。セイジの言葉で、俺は自分の気持ちに気づくことができた。だから最後までその気持ちに従おうと決めたんだ。俺は、おまえを死なせたくない。おまえには生きていてほしい。だから、これでよかったんだよな?』
「だからっておまえ――!」
『いいんだ。これでよかったんだよ』
 そう言いながらも、シオンの体はさらさらと音を立てるように消えていく。まるで風に飛ばされていく砂粒のように。もう本当にそこにいるのかいないのかわからないほどに薄れてしまっている。
「バッカやろ……一人で勝手に決めてんじゃねぇよ! オレ、おまえに天界まで運んでもらえんなら、それも悪くないかもなって……思ってたんだぞ?」
『嘘ばっかり……。それに、オレはおまえの魂は運ばない。……運びたくない。それは俺が、『シオン』がそう思っているから』
「なんだよ、オレがわざわざ運ばせてやるって言ってんだぜ……?」
『ふふ……一緒にいれて、楽しかった。ありがとう、セイジ――』
「シオン……? シオン!!」
 ――そこにはもうシオンの姿はなかった。俺の言葉に答えてくれる奴はどこにもいなかった。

 アイツは、シオンは本当に消えてしまったんだ。おそらく“天界に永住する”という目的は、もう果たすことはできないのだろう。だけど、消える前のアイツはちっとも悲しそうじゃなかった。むしろどこか幸せそうな――
 そういえばシオンのあんな笑顔、初めて見た。アイツもあんな顔できんじゃねぇか。
 ……だけど、最後に。オレも、伝えたかったな。

「オレも楽しかった。ありがとう、シオン」


『シオンは、消えてしまったんだな』
「……ああ、そうだよ」
 いつものように突然現れたグレイにそう答えると、グレイは何も言わず空を見上げていた。その表情は相変わらず無表情のままだったけれど、でもどこか寂しそうな、少し安堵したような、そんなふうにも見える表情だった。
『シオンがやった行為は、天導使のあいだではもっともタブーとされていることだ。それを犯した者は、シオンのように消えてしまう。そして当然罰も受けることになる』
「罰? なんだよそれ!?」
『俺たち天導使にとってはもっとも酷な罰だ』
「だから! なんなんだよそれは!?」
『下界で一からやり直し――つまり、再びこの下界で生を受けることになるということだ』
「それって……生まれ変わるってことだろ? じゃあシオンはまた人間として生きられるのか!?」
『そうだ。一年後か、十年後か……もしかしたらこの瞬間にも、シオンはこの下界で新たな生を受けているのかもしれないな。だが、それがおまえの知っている『シオン』とは限らない。見た目も性格も、大きく変わっている可能性のほうが大きい』
「かまうもんかよ。どんな奴だろうが、シオンに変わりはねぇんだからな!」
 そのとき遠くから名前を呼ぶ声が聞こえた。
「誠ちゃん!」
 振り返ると、屋上から急いで降りてきた茜がこちらへ走ってきていた。オレを見つけると血相を変えて駆け寄ってくる。
「茜……」
「誠ちゃん! 無事だったの!?」
「ああ、平気だよ」
「よかったぁ……。でもあんな高いところから落ちたんだよ!? ホントにどこもなんともない!?」
 何も知らない茜にとっては、オレが無事でいるのが不思議に思えて当然だろう。半ばパニック状態でオレの体をあちこち眺める。
 そんな茜とのやりとりを見ていたグレイがため息をつき、あきれたように言った。
『まったく……。シオンもおまえのような人間などと関わらなければ、こんなことにならなかったものを』
「……ああそうかよ」
『もう二度とおまえの顔は見たくないな』
「それはこっちの台詞だっつーの!」
 オレは思わずそう叫んでしまったが、その言葉を聞く前にすでにグレイは姿を消してしまっていた。
 相変わらず自分の言いたいことだけ言って消えやがって……。最後の最後まで偉そうな奴だった。だけど、そうか、シオンはまた人間として生きることができるのか……。
 オレを見て茜が不思議そうに尋ねてきた。
「誠ちゃん? 誰と話してたの?」
「え? ……秘密。」
「???」



ちょっと寂しくなるけど……
しばらく会えなくなるだけだよな、シオン。
いつか再び出会うその日まで、オレは精一杯生きていくから。
おまえが心底羨ましがるような、そんな平凡で、オレらしい生き方。

……信じてるから。
きっとまた会えるって、信じてるから――

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