回顧その1の4


 ばさばさと無造作に紙束がめくれる音ではっとした。
 いつの間にか寝入ってしまっていたようだ。意識が途切れる寸前まで読んでいた文庫本が、手の内から零れ落ちていた。拾い上げ、しおりを挟みなおし、壁に背を預けた姿勢のまま大きく伸びをする。腕時計に目をやると、短針が文字盤の『2』を通りすぎるところだった。
 美登利さんの寝酒(とはとても言えない量だったけど)に付き合わされ、芹川さんが自室に戻るのを見送ったのが十二時過ぎ。あれから約二時間。ほんの数分うとうとしていただけかと思ったら、意外にも時間は経過していたらしい。
 和室には窓がないため、外の様子はうかがえない。それでも耳に届く雨音を聞く限り、天気は相変わらずのようだった。この調子では、今日も一日中雨だろうか。このあたりで梅雨明けの初夏らしく、からっと晴れてくれてもばちは当たらないと思うのだけど。
 ――さて、と。
 一度深呼吸し、頭を包み込んでいた眠気を吐き出す。
 問題の時間まで、あと三十分。しかし、二時半きっかりになにかが起こるとは限らない。多少のずれはあるだろうし、なにかが起こってから行動に移したのでは遅い。そろそろ、その「なにか」に備えて待機しておいたほうがいいだろう。
 とはいえ、女の子が眠っている部屋にお邪魔することはさすがにできない。そのドア一枚向こうのダイニングで様子を見させてもらうことにする。
 ……できることなら、護符が功をなして何事も起こらずに済めば一番いいのだけど。
 なんて、楽観的な思いを浮かべながら体を起こす。しかし、天井からぶら下がった蛍光灯の紐に手を伸ばしたところで、『彼』と目が合ってしまった。
 写真の中の彼は穏やかに微笑んでいるが、その笑みの向こうから釘を刺さされたような気がした。確かに、娘の護衛にあたる人物の心意気がこれでは、父親として不安の一つも抱くだろう。
 先ほどの考えを反省し、僕は仏壇に向かって小さく頭を下げた。
 この仕事は自動車の運転と同じだ。都合よく考えてしまう「だろう運転」は禁止。常に「かもしれない運転」を心がけなければ。「もしかしたら」という言葉を使うのなら、その先に続くのは、betterな出来事ではなくworseな出来事。そのあたりが、僕はまだ徹底しきれていない。
 電気を消すと同時に気持ちを切り替え、和室を出る。すでにどの部屋も消灯され、灯り一つない廊下は暗く静まり返っていた。人々が寝静まっている深夜独特の空気の中、先ほどよりもはっきりと聞こえるようになった雨音だけが響いている。そこに、フローリングの床をきしませる一人分の足音が混じった。
 美登利さんが眠っている寝室のドアを通り過ぎ、ダイニングルームへ。
 電気をつけてみたものの、あまりに煌々として落ち着かなかったため、一番小さな電球だけつけて椅子に腰を下ろした。オレンジ色の淡い光が、室内をぼんやりと照らしている。夕食でにぎわったテーブルの上には、食器も、飲み散らかされたビールの空き缶もなくなり、きれいに片付いているが、同時にほんの少しの物寂しさも感じた。
 背もたれに寄りかかり、手持ち無沙汰に視線を泳がせる。暗順応してきた目が真っ先にとらえたのは、二つ並んだドアの、片方のノブにぶら下げられた例のぬいぐるみ。見た目クラゲな宇宙人は、地球外生命体よろしく水色の体を暗闇に浮かび上がらせていた。
 部屋の主は、芹川 碧乃。オカルト好きな、ちょっと変わった女子高生。
 礼儀正しいと思いきや……いや、礼儀正しいことには違いないのだけれど、物怖じせずに自分の意見を述べることができる女の子だ。それは今どきの若者によくある無遠慮さではなく、自身の確固たる意思によるものだろう。その率直さはいっそ小気味よさを感じるくらいで好感が持てる。このあたり、美登利さんの血が濃厚に受け継がれているんじゃないかと思う。
 けれど、そんな彼女も弱さを持ち合わせている。
 自室に戻る前、リビングで見せたあの姿。あれは、怪現象に対する不安や恐怖とは、別の感情から来るもの――のように、感じた。それが今回の現象に関係しているのかはわからないけれど、でも、『それ』はきっと彼女の奥深くに根付いているものだ。もうずっと、長いあいだ。
 できることならそれを解消してあげたい。そこまではできなくとも、せめて解消する手助けをしたい。
 と、思うのは、過ぎた考えだろうか。本人に言えば、心配後無用よけいなお世話です、と笑われそうだけれど。
 ……ところで。
 寝るときに一番小さな灯り(僕は豆球と呼んでいるけれど、たぶん正式名称ではないだろう)をつけて眠る人は多いだろう。僕は逆に、真っ暗でないと寝られないタイプだ。だから、ダイニングを包むこのオレンジ色の薄明かりの下で眠る習性はなかったのだけれど――
 きっと、美登利さんのお酌の相手を長々させられ、肉体的にも精神的にも疲弊していたのだろう。そんな体に、雨の音はこれ以上ない子守唄となって染み渡っていった。

*  *  *

 自分が眠りに落ちていたということに、もちろん睡眠の最中に気づくことはできない。たとえば明晰夢でも見ない限り。普通は目が覚めて、そこで初めて今の今まで眠っていたことを自覚する。
 だから、僕が二度目のうたた寝をやらかしてしまったことを理解したのは、頭上の灯りのように薄ぼんやりとした意識の波から、ちょっとばかり息継ぎに顔を出したときだった。
 なにかが僕を、海上へと誘う。そのなにかが『におい』であることに気づいた瞬間、脳内を覆っていた霞がさっと晴れた。
 嗅ぎ覚えのあるにおい。それも、つい最近。
「……煙草……?」
 煙たくて、思わずむせそうになる、決していい香りとは言えないヤニ独特のあのにおい。それはほかにたとえようがなく、煙草くさい、としか言いようがなかった。僕は喫煙しない人間だけれど、だからこそ、わずかに鼻腔に届いた空気の変化に反応することができたのかもしれない。
 においの出どころを追った先と、僕の予想は合致した。
 デフォルメエイリアンが揺れるドア――の、その向こう。芹川さんの自室だ。
 ……揺れる?
 ドアノブに掛けられたぬいぐるみは、ゆらゆらと左右に揺れていた。風もないのに、ゆらゆらと。
 周囲は無音。変わらず振り続けている雨音以外に、耳に届くものはない。オーク調のドアの向こうからも、何も聞こえはしなかった。ノブは下に押す、いわゆるレバーハンドルタイプのものだったが、それが上下する気配、した気配もまったくなかった。
 しばらくドアを注視したあと、思い出したように腕時計を確認する。
 ――午前二時二十二分。
 いやな予感が走る。三つ並んだ『2』が、意味もなく不吉な暗号に思えて心を急き立てた。椅子から立ち上がり、ドアの前へ駆け寄る。ノブに手を掛けかけたが、一瞬躊躇してその手を持ち上げた。緊急事態かもしれないが、いきなり開けるのはまずいだろう。そう思い、ドアをノックしようとした――が、再び止ってしまった。手の甲を避けるかのように、扉が奥に身を引いたのだ。
「――わ!」
 ノックするより先にドアが開き、その向こうから姿を現した人物は、一歩踏み出そうとしたところで小さく声を上げた。暗がりの中、思いがけず鉢合わせになりお互い立ちすくむ。けれど、相手がわかると安堵の息が二つ重なった。
「なんだ、高橋さん……。おどかさないでくださいよぅ」
「すみません。でも、僕もびっくりしました」
 苦笑しながら道を開ける。部屋から出ると、芹川さんも小さく笑ったようだった。
 ほっとしたのはこちらも同じだ。ドアがひとりでに開いたのではなかったことが一つ。芹川さんがなんともない様子だったことが一つ。しかし、この時間にこうして出てきたからには、部屋でなにかあったことには違いないだろう。
「ベッドがロデオ状態です。叩き起こされちゃいました」
 尋ねるより先に芹川さんが答えた。茶化すような口ぶりではあったが、笑みが浮かんでいるのは口元だけで、瞳は怯えた視線を自室の奥へと向けていた。
 ドアの向こうにはダイニングよりも一段階深い暗闇が広がり、夜雨が窓を叩く音を飲み込んで、しんと静まり返っている。入り口まで歩み寄り、中を覗いてみるが、昼間見たときと変わった点は一つもなかった。問題のベッドも、掛け布団が乱れているだけで、なにかが起きた形跡はない。
「……なにも、聞こえませんでした?」
 ドアから少し離れて様子をうかがっていた芹川さんが、ためらいがちに尋ねる。ええ、と答えた僕に、芹川さんは、そうですか……と肩を落とすだけだった。もちろん、彼女の言い分を疑っているわけではまったくない。
「中に入っても構いませんか?」
「あ……はい。どうぞ」
 了承を受け、僕は部屋の中に足を踏み入れた。
 すっかり目が慣れたため、灯りがなくとも室内の様子は見てとれる。やはり、なにも変哲はないように思えた。天上の四隅に貼った護符もそのまま。あの効果がないということは、外部からの影響ではない、ということなのだろうか。
「――――」
 あ、と声を上げそうになる。
 まただ。また、あのにおい。残り香のように、煙草のにおいがかすかに漂っている。
 僕は首をめぐらせ、色も形もない痕跡をたどろうとした。けれど、そのしっぽを掴む前に、目の前が真っ白になった。思わず目を細めるが、光がまぶたを刺してくる。真夜中から真昼に反転したようだ。
 振り返ると、芹川さんが入り口の壁際に立ち、スイッチに手を伸ばしていた。彼女が部屋の電気をつけてくれたらしい。突然明るくなったので、目がくらんでしまった。それでも彼女の親切に礼を言う。
 芹川さんは会釈を返すと、ベッドに歩み寄った。なにもいないことを確かめるように、恐る恐るシーツを撫でる。
「……おかしいなあ」
 納得いかないのか、そんな呟きを漏らしていた。
 ふと思い出し、僕は周囲の空気に意識を向けた。しかし、あのにおいはもうしない。芹川さんにも確認してみようと思ったが、昼間のことを思い出してとどまった。なにも気にしていない様子を見ると、彼女は嗅ぎ取らなかったのだろう。煙草のにおいは、電気がついた瞬間、暗闇とともに消えてしまったようだった。
「護符では役に立たなかったようですね。もう少し調べなおして、別の対策を――」
 かくん、と芹川さんの体が崩れた。
 一瞬、なにかにつまずいたのかと思った。しかしそうではなく、芹川さんは床に膝をついたまま、倒れるように上半身をベッドに伏せている。体を起こそうとするも、すぐに頭を抱えてうずくまってしまった。
「……芹川さん?」
 駆け寄り、彼女の隣にしゃがむ。覗き込んだその額には汗が浮かび、顔色も優れなかった。
「芹川さん? 大丈夫ですか?」
「あ、たま……いた……」
 苦痛に歪んだ表情で、芹川さんは声を絞り出す。失礼します、と断りを入れて額に手を当ててみるが、熱はないようだった。けれど、芹川さんは痛みを訴える。
「……とりあえず、部屋を出ましょう」
 手を貸し、立ち上がらせる。おぼつかない足取りの彼女を支えながら部屋を出ると、ダイニングには美登利さんと朱里さんの姿があった。寝室から出てきたばかりらしい二人は、状況を把握できずに何事かと首をかしげている。ダイニングとリビングの電気をつけると、二人とも眩しそうに目を細めたが、芹川さんの様子を見てすぐに目を見開いた。
「碧ちゃん! どうしたの!?」
 顔色を変えて飛んできたのは朱里さん。芹川さんの肩を抱き、誰よりも狼狽してその顔を覗き込む。あわあわしながらも、丁重にいたわりながら、芹川さんをリビングのソファーへと向かわせた。
「……すみません。起こしてしまいましたか?」
「ううん、気にしないで。それよりあの子、どうしちゃったの?」
 美登利さんは、姉に連れられる妹の背中に心配げな視線を向けた。
 急に頭痛を訴えたことを告げると、美登利さんは訝しげに腕を組む。
「その……ポルターなんとかってのが、原因なの?」
 疑念は拭い去れないようだった。それでも、芹川さんの身を心底案じていることは伝わってくる。朱里さんの場合はもっとわかりやすく、芹川さんとソファーに並んで座り、具合の悪い妹をあれやこれやと気遣っていた。
「頭痛いの? お薬持ってこようか?」
「……ん、もう平気。ありがと、お姉ちゃん」
 芹川さんが顔を上げる。朱里さんに向ける笑顔は弱々しかったが、それでもだいぶ落ち着いたようだった。その様子を見て、美登利さんも朱里さんもほっと胸を撫で下ろす。しかし、安心したのも束の間、美登利さんは胸の前で組んでいた両手を腰に当ててポーズを作った。
「睡眠妨害だけならともかく、ひとの娘に直接手ぇ出してくるなんて、いい度胸してるじゃない。そのポルターなんとか、あたしが追っ払ってやるわよ!」
 憤慨した様子で言い放つが早いか、ずかずかと芹川さんの自室へと向かっていく。
「み、美登利さん?」
「ちょっ、ちょっとお母さん!」
 さすがに僕も芹川さんも慌てて止めに入る。けれどどちらも間に合わず、美登利さんは部屋へと足を踏み入れる――前に、部屋自身がそれを拒んだ。
 美登利さんの鼻先で、半分ほど開いていたドアが勢いよく閉まった。まるで内側から乱暴に叩きつけたかのように。次いで、がたん! となにかが衝突した音と振動。
 突然の出来事に、四人は固まる。僕と美登利さんは立ち尽くしたまま、芹川さんはソファーから立ち上がろうとした姿勢のまま、朱里さんは座ったまま。四つの視線の先は、みずから侵入者を拒絶したドア。ノブに掛けられたぬいぐるみだけが、振り子のように揺れ動いていた。
「――な」
 雨音だけが響く中、真っ先に口を開いたのは美登利さんだった。
「なによ、今の」
 乾いた声。さすがの彼女も、目の前で起きた出来事に呆然としているようだった。けれどもすぐにノブを掴み、ドアを開けようとする勇敢さはやはり美登利さんだ。
 しかし、ノブを押したところで手が止まる。止めたのではなく、止められてしまったらしい。ドアはわずかに隙間を作っているが、それ以上は開かない様子だった。
「……どうしたの?」
 怪訝そうに尋ね、芹川さんが美登利さんのもとへ歩み寄る。朱里さんもそれを追った。
「開かないのよ。なんか引っかかってるみたい。なによこれー!」
 力任せにドアを押すが、びくともしない。みどりんアタック! などと叫んで体当たりを試みるも、効果はない。一通り試行錯誤したあと、美登利さんは肩で息をしながらドアの前をしりぞいた。
「柊一朗くんパス!」
 ご指名を受け、今度は僕が挑戦してみるが、このドア、思った以上に固い。固いというか、重い。まるで向こう側から押されているかのようだ。それでも全体重かけて押しやると、ほんの少しだけ隙間が広がった。おお! と女性陣から拍手と歓声が上がる。
 原因を探ろうと、芹川さんは部屋の中を覗こうとした。そのとき――
 僕はなにかを感じた。
 予感めいた感覚。漠然とした、形のない、けれど大きな……決していいものではない、虫の知らせに近いもの。
 それは最初、カタカタという小さな音だった。ガラスや金属がこすれ合う音。そう理解する前に、地面が大きく波打った。部屋の中の家具という家具が音を立てている。ぐらぐらがたがたという唸り声に混じって聞こえた短い悲鳴は、芹川さんのものだろうか、朱里さんのものだろうか。それもまた、食器が次々と砕け散る音によってかき消されてしまったけれど。
 僕たち四人は、ほとんど倒れ込むように身をかがめた。揺れが収まるのを待つことしかできなかった。

 ――深夜二時半、大規模な地震がこの地域を襲った。

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