回顧その1の5


 雨音だけの世界が戻った。
 それまで鬱陶しく思えていたその音に、今は平穏を感じてしまう。なにも変わらず降り続けていたのは、雨だけだった。
 先ほどの出来事が嘘のような沈黙。呼吸すらためらわれる。止まっていた時を動かしたのは、あまりにも率直な一言だった。
「……すごかったね」
 動物園で象を目にして、「大きい」と感想にならない感想を述べる子供のような単純さだったが、けれど実際、そんな当たり前の言葉しか出てこなかった。芹川さんの呟きに続く朱里さんも、美登利さんも。
「びっくりしたあ……」
「揺れたわねぇ」
 そして僕も。
「地震、でしたね」
 そう、地震だった。ここ数年で経験したものの中では、飛び抜けて大きな揺れだった。……なんだか僕が一番まぬけな台詞を言ったような気がする。
 しかしすぐに思い至って付け加えた。
「怪我はありませんか?」
 片膝をついていた姿勢から立ち上がり、同じように床にしゃがみ込んでいた三人を見やる。
 芹川さんはかがんだまま、自分の腕やら足やらを確認していた。その隣で朱里さんは、「碧ちゃん、どこも痛くない?」と自分のことより妹の心配をしている。よっこいしょ、と体を起こして膝をはたくのは美登利さん。
 どうやら三人とも怪我はないようだ。僕も同じく。
「みんな無事ね。……こっちは大惨事だけど」
 あきれたような途方に暮れたような美登利さんの言葉に、全員の視線が同じ箇所に向けられる。
 ダイニングの隅の食器棚。観音開きのガラス戸は、来客を歓迎するかのごとく開け放たれていた。しかし実際には、いらっしゃいませではなくいってらっしゃいませで、中身はすでに発射済み。周辺の床の上には、白い陶器の欠片が四方八方に散っていた。それらはすべて、元皿、もしくはカップの現不燃ごみである。
「あーっ!」
 惨状を前に真っ先に声を上げたのは、予想外にも朱里さんだった。ぱたぱたと駆け寄り、散らばった白い破片の中から一つを拾い上げる。
「わたしのお気に入りのカップぅ……」
 かろうじて原形を保っていた取っ手が、唯一かつての姿を想起させた。
 ティーカップかコーヒーカップ……朱里さんは紅茶党と思われるから、おそらく前者だろう。続けて手に取った破片には、薄紅色の濃淡で花の模様が描かれ、シンプルだが上品なデザインであったことが推察できた。
 ずいぶん思い入れのあった品のようだが、さすがにこれでは接着剤で直せるレベルではない。朱里さんもわかってはいるだろうが、それでも惜しむように、欠片の中からカップの残骸を選り分けて集めていた。
 そんな意気消沈した娘の背を見て、今度は美登利さんが声を上げる。
「やだ、もしかしなくとも、あたしの部屋もえらいことになってるんじゃ……!」
 言うが早いか、横倒しになったごみ箱を飛び越え自室へ駆けていく。
 揺れが起きたあのとき、なにかが倒れ、はたまた壊れる音は、このダイニングだけでなく家中から聞こえてきた。ぱっと見回しただけでも、リビングでは観葉植物の鉢植えが転んで土を散らし、キッチンでは菜箸やお玉が床に散乱している。きっとほかの部屋も同じような状況になっているだろう。
 そう考えたのか、それとも単に美登利さんにつられたのか、欠片を一通り集めると、朱里さんも自室の様子を確かめにダイニングを去っていった。
「もー、みんな自分のことばっかり」
 芹川さんは頬を膨らめるが、自室の状況が気になるのは彼女も同じだった。なにせ、そこには壊れなどしていたらたまらない大切なものが山ほどあるのだから。
 僕も、事務所に電話を入れようかと思った。
 が、すぐにやめた。石蕗のことだから、向こうから連絡がない限り、別段問題はないのだろう。今頃うちのキッチンも同じようなことになっているに違いないが、僕が帰宅する頃にはすっかり元通りになっているはずだ。下の書斎は――元が元だから、今さら本の十冊や二十冊、本棚から飛び出たところでどうということはない。
 特に安否を確認するものがなくなった僕は、芹川さんに従うことにした。彼女に続いて、例のぬいぐるみがぶら下がったドアへ向かう。芹川さんはノブに手を掛けたが、しかし、そこで止ってしまった。
 ……そういえばあのドア、地震の前に、「なにか」によって封鎖されたんだった。
「まだ開きませんか?」
 尋ねると、芹川さんははっとして振り返った。その顔は呆然としている、というよりも、拍子抜けしたような表情が浮かんでいた。
「……開きました」
 ガタンとなにかにぶつかる音はしたものの、彼女の言うとおり、あれほど力任せに押してもうんともすんとも言わなかったドアが、片手で難なく開いてしまった。
 部屋の中は、電気がついておらず暗い。すっかり明るさに慣れた目では、闇に溶けた輪郭をとらえることはできなかった。芹川さんは恐る恐る室内に足を踏み入れ、ドア際の壁を手でさぐる。蛍光灯のスイッチを探しているのだろう。
 …………。
「――待った!」
 僕は反射的に芹川さんの腕を掴んでいた。掴まれた芹川さんは、驚いて身をすくめる。今度は僕がそれに驚き、慌てて彼女の腕を離した。
「あ……す、すみません」
「いえ……。どうしたんですか? 急に」
「あー……っと」
 返答に窮し、答えの代わりに、半分ほどしか開いていなかったドアを押して全開にした。ダイニングから差し込む光が、部屋の中ほどまで伸びる。それによって照らし出されたものは、僕が予想していたとおりのものだった。
「あの揺れで落ちてしまったようですね」
 そこのあったのは、例によって「元」蛍光灯。部屋の中央に、大小二つの輪っかが転がっていた。どちらも友達と分け合ったドーナツのように何等分かにされている。
「あ、そっか……。電気つけっぱなしだったはずなのに……」
 芹川さんは説明されずとも、蛍光灯が落ちていることに僕が気づいた理由を理解したようだった。
「部屋の中にいたら危なかったかもしれませんね」
「そうですね……ありがとうございます。私、ちょっと懐中電灯取ってきます」
 時刻は深夜二時半を回ったところ。八畳ほどの室内とはいえ、隣の部屋からの灯りだけでは暗すぎる。おまけに床にはガラスの破片が散らばっているため、手探りで歩き回るのは危険だ。芹川さんが戻るまで、入り口のそばで待つことにする。
 部屋の奥からは、さあさあと降りしきる雨の音が聞こえる。ふと思い出し、開け放たれたドアの先に目をやった。
 そこには、無造作に放置された椅子が一脚。本来あるべき場所の勉強机とは、だいぶ離れている。揺れでここまで移動した? ――キャスター付きだが、いくらなんでもこの距離を転がってはこないだろう。
 ……だとしたら。
 ドアが閉まったときに聞こえた衝突音。あれは、この椅子がドアにぶつかった音だったのだろうか。ひとりでに――それとも、“なにか”にここまで動かされて、バリケードのようにドアを封鎖していた……。この椅子が?
 背もたれを軽く押すと、アイボリー色のキャスターチェアはカラカラと音を立ててフローリングの上を滑り、カーペットに突き当たってすぐに止まった。
「なんか、二人の部屋から叫び声が聞こえたのですが……。うう、確認したくないなあ」
 懐中電灯を手に戻ってきた芹川さんは、げんなりと肩を落としてそう漏らした。きっと美登利さんの部屋も、朱里さんの部屋も、ひどい有様だったに違いない。そして、芹川さんの部屋だけ例外ということは、彼女の想像どおり、たぶんない。
 芹川さんはライトをつけると、薄暗い部屋の中に灯りを向けた。床や家具が円形に照らし出される。足元を確認しながら、芹川さんは恐る恐る室内に進んでいった。
 そんな様子を入り口から見守らせてもらっていると、
「あれ? なんでこんなとこに椅子が……わっ、こんなとこにまでガラスの破片飛び散ってる! あっぶなー……。あ、よかった、机の上は意外と無事だ」
 などと一喜一憂する声が暗がりから届いた。声だけで中の状況まではよくわからないが、丸い光が彼女の動きに合わせて白い壁を伝っていくのが見える。光は部屋の右隅から左隅に移動し、その突き当たりにあるものを照らした。
「――!」
 その瞬間、芹川さんが息を呑んだことが気配で伝わった。暗闇の中に立ち尽くし、どこか一点を見つめている。
「……どうかしましたか?」
 尋ねるが、返事はない。
 僕は足元に注意しながら彼女の背後に歩み寄った。そして、懐中電灯の光が示す先に目をやる。
「…………」
 雨音が頭の中を支配する。一瞬、どうなっているのかわからなかった。視界が狭いせいもあるが、それよりも、元の状態を思い返すのに一拍遅れてしまったからだ。
 ……ここ、何があったんだっけ?
 その答えを思い出すと同時に、ようやく認識に感情が追いついた。
「これは……」
 ひどい? 大変? 危なかった? そのどれを続けることもできなかった。
 そこにあったのは、倒壊した棚が二つ。壁際に並べられていた本棚とラックだ。どちらも木製のそれは、中身をまき散らし、正面のベッドに倒れ掛かって――いや、覆いかぶさっていた。
 重厚な作りの本棚に、金属やガラス細工の小物が多く並べられていたラック。それらがベッドの上の枕――本来ならば、この部屋の主、芹川さんの頭があるべき場所を下敷きにして倒れ込んでいる。
 もし、いつもどおり彼女がここで眠っていたら。
 そのIFを、芹川さんもこの光景を見た瞬間、考えてしまったのだろう。少なくとも、顔に怪我は負っていた。打ち所が悪ければ、最悪――それは、想像に難くない。
 けれど、芹川さんが呆然と立ちすくんでいた理由は、それだけではなかったようだった。
 彼女の手から滑り落ちた懐中電灯が、音を立てて床に転がる。芹川さんは散らばった本を足蹴にしていることなど気にも留めず、飛びつくように本棚に駆け寄った。そして、倒れたそれを起こそうと躍起になる。ひどく心急いているようで、なかなか棚は起き上がらず、それがさらに彼女の焦りを募らせていた。
「大丈夫ですか?」
 言って、いったい何が大丈夫なのかと発言を悔いた。しかし、芹川さんは気にしていないのか、それとも耳に入っていないのか、ふたりがかりで本棚を起こすと、「大丈夫です」と言葉短に返した。そのままラックを立て直す作業に移行する彼女の横顔には、やはり焦燥が浮かんでいた。
 本棚と違って軽いラックは、彼女ひとりの手ですぐに起き上がった。けれど、被害が大きいのはこちらで、こまごまと並べてあった置物は、一つ残らず床に散らばっていた。拾い上げた懐中電灯で照らすと、中には壊れたり、ひび割れたりした破片が多く混ざっていた。大事なコレクションがこの惨状では、誰だって肩を落とすだろう。
 しかし、芹川さんの様子はそうではなかった。それらの破片にはむしろ興味などないかのように手で払いのけながら、床に膝をついてなにかを探している。
「……芹川さん?」
 その姿は痛々しいほど必死で、手を貸しましょうかと申し出ることすらためらわれた。それでも声をかけると、
「――あった!」
 返事の代わりに、喜びと安堵に満ちた声が上がった。
 どうやら探し物は見つかったらしい。芹川さんはほっと一息つくと、それを手に立ち上がろうとした。けれど、
「あ……!」
 と、再び焦りの声。同時に、なにかが落下して床を転がる音が耳に届く。
 芹川さんは、立ち上がりかけた姿勢のまま、転がったなにかを追いかけた。僕も、音の先に懐中電灯を向ける。光がフローリングの上にある丸い物体を照らした、そのとき。
「――――!」
 何度目だろう、僕はまた、“それ”を感じた。そして今回は、芹川さんも感じ取ったようだった。
 煙草の、におい。
 小さなスポットの中に、誰かの手が映り込んだ。その手は床に転がった丸い、水色の――宇宙人のぬいぐるみを拾い上げる。それを追うように、僕の視線と、そしておそらく芹川さんの視線は、ゆっくりと宙を上っていった。
 たどり着いた先にあったのは、見覚えのある顔。けれど、ここにいるはずのない人物。
 芹川さんの口からその名前が零れる。信じられないというように。いや、事実、信じられるわけがないのだ。だって、それは。
「おと……さん……?」
 亡くなっているはずの彼女の父親は、仏間の写真と同じように、穏やかな笑みを眼鏡越しに浮かべてそこに佇んでいた。
「な、んで」
 芹川さんは呟くが、それ以上の言葉は出てこない。
 暗闇の中にぼんやりと浮かび上がる姿。懐中電灯の光を透き通す半透明の体。それは、目の前の人物がこの世ならざるものであることを如実に語っていた。その彼が、どうしてここに?
 僕は、なんとなく理解していた。むしろ合致がいく。
 毎晩同じ時間に起こっていたポルターガイスト。あれは警告だったのではないだろうか。芹川さんを突然襲った頭痛。あれは最後の強硬手段だったのではないだろうか。そして、ドアをふさいだあの椅子も。それらのおかげで、芹川さんは自室を離れた。追い出されたといってもいい。あの地震のとき、もしも部屋にいたら――それは、落下した蛍光灯や、倒れた棚を見てのとおりだ。もしかしたら、美登利さんと朱里さんが目を覚ましてダイニングにやってきたことすら、彼によるものだったのかもしれない。現に、そのおかげで誰も怪我することなく済んだのだから。
 どうりで護符の効果がないわけだ。だって、彼が「悪いもの」であるはずがない。
 けれど、芹川さんにとっては、今はそんなことなどどうでもいいことだった。十二年越しの、父子の対面。二度と会えるはずのない父親が、今、目の前にいる。それがすべてだ。
 彼は、抱えていたぬいぐるみを両手で差し出した。芹川さんはためらいながらも手を伸ばす。彼女が受け取ると、彼の右手がゆっくりと持ち上げられた。その大きな手のひらは、娘の頭に乗せられる。
 彼の唇は緩やかな弧を描いたまま、その声は、直接頭の中に響いて聞こえた。
『大きくなったなあ、碧乃』
 いとおしそうに撫でながら、彼は目を細める。
 きっとそれは懐かしい感触だったに違いない。芹川さんは言葉を紡ごうとするが、しかし声にはならず、代わりに一筋の雫が頬を伝った。そんな娘に、父は苦笑する。
『碧乃、全然気づいてくれないんだもんなあ。地震対策はちゃんとしとかなきゃだめだぞ。前の家ではしっかりやってたのに――って、覚えてないか。まだこーんなちっちゃかったもんな』
 こーんな、と腰の辺りを手で示す。
 ……なんだろう。一応彼は幽霊というもので、感動の再会となるわけなのだけど、そのはずなのだけど。どこかずれた彼の発言に、感動の波は涙とともに引いて去り、妙にまったりとした空気が周囲を包んでいた。
「そんなこと言いに出てきたの!?」
 娘からもツッコミが入る。しかし彼は楽しそうにはははと笑っていた。
 ……ほんとに似てますでしょうか、僕と彼。
 思わず心の中で美登利さんに問いかける。
『碧乃』
 ひとしきり笑い終えると、彼は一呼吸置いてその名を呼んだ。彼女に向けられたまなざしは優しく、けれど力強い、父親にしかできないもの。
『いつも見てたよ。これからも、ずっと』
「お父さん……」
『お母さんと朱里にもよろしく。……いや、二人“を”よろしく、かな』
 芹川さんはくすりと笑みを漏らす。けれど、しっかりと頷いた。それを見て、彼もまた満足げに頷き返した。そして視線を外す。僕はそこで初めて彼と目が合った。彼は、僕が仏間でしたように、小さく会釈をした。それは思いがけない行動で、僕はとっさに言葉を返すことも、礼を返すこともできなかった。
 彼は再び芹川さんに向き直る。そこでふと、彼の体が薄れていることに気がついた。帰るときが来たのだな、と僕は悟る。
 そして、彼は最後の言葉を告げた。
『それから碧乃――……』
 すう、と彼の体が暗闇に溶ける。その言葉も雨音にかき消されてゆく。
『――――』
「なに? 聞こえないよ?」
『―――― ――――』
「待って、ねえ……お父さん待って!」
 芹川さんはすがるように父の体を掴もうとする。けれどその両手は宙をかくばかりで、最後に穏やかな笑みを残して彼は消えてしまった。
 行き場をなくした細い腕は、水色のぬいぐるみを強く抱きしめる。
「……お父さん……」
 温かい静寂に、彼女の呟きが響いた。

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