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回顧その1の6


「ええ? あの人が来たの?」
 地震の後片付けを一通り終え、やっと腰を落ち着けることができたのは、丑三つを少しばかり通り越した丑四つ時。きれいになったもののたいぶ食器が減ったダイニングにて、事のあらましを聞き終えた美登利さんは、開口一番そう言った。そこには驚きはあったものの、感慨はなく、まるで留守中にお隣さんが回覧板を回しに来たかのような口ぶりだった。
 どかりと食卓の椅子に腰を下ろす美登利さんは、
「も〜! 来たなら来たで、あいさつの一つでもしてきなさいっての」
 と、どこかずれた文句を漏らす。その手にはなぜかワインボトルとグラスが握られていた。
 ……まだ飲む気なのだろうか、この人。
「さっきの地震でやられちゃってねぇ。仕方ないから飲んでやろうと思って」
 僕の視線に美登利さんが答えを返す。
 みどりん秘蔵うん年物の赤ワインのボトルには、なるほど、底のほうにわずかな亀裂が入っている。美登利さんはコルクを抜くと、二つ並べたワイングラスに、ボルドー色の液体をなみなみと注いだ。片方をさっそく口元へ運び、もう片方をこちらへ押しやる。
「ほい、柊一朗くん」
「……いただきます」
 にっこりと笑いながらも妙な威圧感をはらんだそれはほぼ強制で、まあ、もう仕事は終わったんだし……と心の中で言い訳をして、僕はそのグラスを受け取った。美登利さんは満足げにそれを見届け、ごくごくぷはー! と見る間に一杯目を飲み干した。
「ま、ワインボトルにひびが入るくらいの被害で済んだことにはお礼言わなきゃね。大事な娘の頭にひびが入ってたかと思うと、ぞっとするやらしないやら」
 どう考えてもぞっとするようなことを口走りつつ、美登利さんは二杯目に着手する。
 反応はどうあれ、亡くなったはず旦那さん――名を蒼平ソウヘイさんということを先ほど知った――が現れ、芹川さんを、ひいては一家を救ったことについて、なんの疑いも持っていないらしい。ただし、美登利さんの場合は、そういった超常現象を信じているわけではなく、誰かが見たというんだからそれをわざわざ否定することはないだろう、というスタンス……というかノリのようだった。大雑把もここまでくるとたいした度量である。
 そしてそれは上のほうの娘にも確実に受け継がれているらしく、同じく一部始終を聞き終えた朱里さんの第一声といえば、
「いいなあ、碧ちゃん。わたしもお父さんに会いたかったなあ」
 やはりずれた感想を述べた彼女は、今は自室で再び眠りについている。
 ……朱里さんの名誉のためにも言っておくと、そのあと妹が落ち着くまで隣で優しく語りかけていた彼女は、まさしく理想の姉像だった。芹川さんも、今日は朱里さんの部屋で寝かせてもらっている。
「ね、あの人、最後になんて言ったの?」
 グラスを揺らしながら美登利さんは尋ねた。
「柊一朗くんは聞こえてたんでしょ?」
 僕は口に含んだワインを飲み下した。果実の熟した香りと、わずかな酸味が喉を通る。
 別に言い渋るわけではないのだけど、僕は一拍置いてから続けた。
『それから碧乃――……』
「『悪いのは煙草じゃない。マナーなく煙草を吸う人だ』、と」
「…………」
 沈黙。
 グラスをあおったポーズのまま、美登利さんは固まっていた。雨音だけが、二人きりのダイニングに響く。
 やがて美登利さんはゆっくりと姿勢を正し、静かにグラスをテーブルの上に置いた。そのままうつむき、背を丸める。
「――――くっ」
 嗚咽にも似た声を漏らし、美登利さんは小さく肩を振るわせた。その表情は髪に隠れてうかがえない。
「……美登利さ」
「くっ――ふ――ふふっ、あっはははは!」
 突如わき上がる笑い声。声の主はほかでもなく、
「み、美登利さん?」
「なあにそれ! 十数年ぶりに会った娘に最後に言い残す言葉がそれ?」
 体を反り返らせながら、あっはっはと豪快に手を叩く美登利さん。その顔は酔いもあいまって真っ赤に染まっている。陰鬱な雨の音など吹き飛ばし、事情を知らずとも見ている者までつられそうになってしまう、気持ちのよい笑いっぷりだった。
「あーもう。ほんっと、あの人らしい」
 ひとしきり爆笑し終えたあと、美登利さんは目尻の涙をぬぐいながらしみじみと呟いた。
 蒼平さんの言葉の意味は、僕にはさっぱりだった。できることなら説明が欲しいが、このタイミングで尋ねていいものだろうかと躊躇する。すると、美登利さんから種明かしをしてくれた。
「碧乃、すっごく煙草嫌ってたでしょ」
「はい」
 僕はおおいに頷いた。嫌悪感をあらわに、威圧感を背負って詰め寄る芹川さんの姿が脳裏によみがえる。
 美登利さんも、僕がどんな目に遭ったのか察しがついたのだろう。やっぱり、と言いたげにクスクスと笑った。
「あの人ね、火事で亡くなったんだけど……その原因が、下の階に住んでた人の寝煙草だったのよ」
 そう語る美登利さんの表情は、どこか寂しげな笑みに変わっていた。
 蒼平さんの生前、芹川家四人は、ここではない別のマンションに住んでいたのだという。けれど十二年前、住人たちが寝静まった深夜に火災が発生した。火の手は三階から上がり、十階建てのマンションをあっという間に飲み込んだ。炎は上に昇る。火元の一階上だった芹川宅に燃え広がるまで、さしたる時間は要しなかった。幼い娘二人を連れ、なんとか避難することができた美登利さんだったが――彼女をかばい、先に行かせた夫が、燃え盛る建物の中から出てくることは、なかった。
 僕はようやく納得する。
 父の命を奪った火事――それだけじゃない。慣れ親しんだ家を、大切な思い出がたくさん詰まったものを、すべてを焼き消してしまった火事。その原因である煙草を、芹川さんは憎まずにはいられなかったのだろう。当時、まだ物心つく前の幼い彼女であったからこそ、なおさら。
「そんなことがあったから、今の家は防火対策ばっちりなんだけどね。火災報知器に消火器に、コンロはクッキングヒーターで……あ、たこ足配線なんてもってのほかよ。もちろん、うちは誰ひとり煙草なんて吸いません。でも、確かに。地震対策は全然考えてなかったなー」
 美登利さんは部屋をぐるりと見回し、空室のできた食器棚に目をとめた。
「やっぱり家具の固定くらいはしとかなきゃね。ほら、なんかあったよね? そういう金具」
 すっかりいつもの調子だ。けれどそれは決して軽薄なのではなく、蒼平さんのことは、彼女の中で、彼女なりに整理がついているのだろう。僕が口を出すべきことではなかった。
「……ごちそうさまでした」
 僕は最後の一口を飲み干すと、空になったグラスをテーブルに戻した。口の中にわずかに残る苦味が、今の気分にはちょうどいい。ワイン一杯では酔えないけれど、寝酒としては最適だ。朝が来るまで、あと三時間ほど寝かせてもらうことにしよう。
 そう告げ、席を立った僕を美登利さんが呼び止めた。美登利さんは四杯目をあおると、空になったグラスを手に、小走りでシンクへ向かう。そしてグラスを洗い、布巾でふき、ワインを注ぎ、
「はいこれ」
 こちらに差し出した。……もう一杯飲んでいけと?
「これね、あの人の好きなワインなの。だから一杯あげといて」
 その言葉にほっとすると同時に、ああ、今でも二人は夫婦なんだな、なんて、当たり前なことを実感した。
 グラスを受け取った僕に、美登利さんは破顔する。
「ありがとね、柊一朗くん」
「いえ、僕は何も」
「んーん。片付け、大助かりしちゃった。やっぱり一家にひとりは男手よねー」
 ねぇ? と含みを込めてウィンクする美登利さんの真意を、僕は読めずにいた。

*  *  *

 目覚めると、一晩中途切れることのなかった雨音は聞こえてこなかった。代わりに、ダイニングに現れた僕を、三つの「おはようございます」が迎えてくれた。……なんだか、とても新鮮だ。
 相変わらず食を邪魔するようにあれこれ話題を投げかけてくる美登利さんに、相変わらず一家の誰よりもしっかりとしてそれを制止する芹川さん。そして相変わらずそんな二人を楽しそうに眺めている朱里さん。
 すでに見慣れてしまった感のある面々に囲まれ、にぎやかな朝食は終了した。
 振り返ってみればろくな活躍はせず、ただ一晩泊めてもらっただけだったような気もするが――ともあれ、仕事は完了。これにて事務所へ帰ることにする。少ない荷物をまとめ、三人にあいさつを済ませると、「駅まで送ります」と芹川さんが申し出てくれた。
「んんん、まだ微妙に降ってますね」
 いったん玄関を出た僕たちだったが、芹川さんが傘を取りに部屋へ戻る。
 夜中に比べるとだいぶ勢いは失っていたが、芹川家を訪れた日のように、外はまだ霧雨が舞っていた。それでも薄曇の向こうに太陽の光が透けている。梅雨晴れももうすぐだろう。そうなれば、今度は願わずとも夏が暑さを引き連れてやってくる。
 ……夏は苦手なんだよなあ。

「私が煙草嫌いな理由、わかりました?」
 駅へ向かう途中、隣を歩く芹川さんがふいに尋ねた。はい、と僕が答えると、やっぱり、と返ってくる。傘の下から覗かせた口元は、小さく弧を描いていた。
「父も煙草を吸う人だったんです。だから、煙草のにおいは父のにおいで――でも、どうしても思い出しちゃうんです。あれが……煙草が、父の命を奪ったこと。だから、煙草は、嫌い――だったんです」
 煙草は嫌い“だった”。
 過去形のその言葉は、彼女の心情の変化を物語っていた。蒼平さんの、あのすっとぼけた教えは、ちゃんと娘に伝わったようだ。
「……あの部屋が苦手な理由も同じ?」
 僕の質問に、芹川さんは弾かれたように顔を上げた。見開いた瞳がこちらを見据える。僕は美登利さんにならい、やっぱりね、という笑みを浮かべてみせた。芹川さんは観念したかのようにうつむき、頷いた。
「和室、嫌いなんです。仏壇を見ると、いやでも死んだことを実感させられて……。なーんでわかちゃったかなあ!」
 最後の台詞はわざとらしいほど明るくて、そんなの一目瞭然だよ、とは、言えなかった。
 芹川さんはまた沈んだ声に戻り、独り言のように呟く。
「お線香も全然あげなくて、怒ってると思ったのに……」
「ねえ芹川さん」
 流れを切る僕の言葉に、芹川さんは傘を上げてこちらを向いた。
「人はいつ死ぬのかな」
 脈絡のない問いかけに、答えは返ってこない。僕は足を止め、彼女も足を止めた。困惑とも怪訝ともつかない視線が刺さる。
「僕は体をなくしても、まだこの世に留まっている人たちを知っています。彼らは『生きて』はいないんでしょうか? ……僕は違うと思います。誰かの記憶にある限り――誰かがその存在を知って、認めて、受け入れている限り、人は生きていると思います。生きていていいんだと、僕は思います。
 だからきっと、きみが覚えている限り、お父さんは生きているよ。たとえ姿が見えなくたって――」

『これからも、ずっと』

「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
 痛いくらいの沈黙。……いや、実際痛い。イタイぞこれは……。
 芹川さんは、もはや呆然としか言い表しようのない表情で立ち尽くしていた。僕はそんな彼女から逃げるように視線をそらし、みるみる紅潮していく顔を傘で隠す。
「――っていうのを、いつだったか漫画で読んで、ですね」
 今さらそんなフォローを付け加えてみたところでどうにもならず。
「……高橋さん」
「ハイ」
「……クサイです」
「…………うん、僕も、自分で言って後悔した……」
 まさに顔から火が出るとはこのことで、恥ずかしさのあまり、一足先に僕の顔が真夏日だった。穴があったら入りたい。アスファルトの地面がたまらなく憎い……。
 己の口を恨みながら、僕はさっさとこの場を立ち去るべく足を進めた。芹川さんは立ち止まったまま、ついてくる気配がない。最悪の別れだと思った矢先、背後から送られてくる軽蔑のまなざし(に、思えた。そのときの僕には)が、突然笑い声に変わった。
 振り返ると、芹川さんが文字どおり腹を抱えて大笑いしている。
「高橋さんって、そういうこと言う人だったんだ!」
 ひーひーと心底おかしくてたまらなさそうな笑い声に混じり、そんな言葉が聞こえてくる。
「い、いえ、違いますよ。断じて違います。僕もなんであんなことを口走ってしまったのか自分でもわけがわからなく……」
「――――でも、嫌いじゃないです、そういうの」
 そう言った芹川さんは――相変わらず笑顔だったけれど、でも、それはとても穏やかで優しい微笑みだった。
「あ! 雨やんだみたいですね!」
 無邪気に声を上げると、芹川さんは傘をたたんで駆け出した。そのまま僕を追い抜き、歩道橋の階段を跳ねるように上っていく。見上げると、いつの間にか青空が顔を出し、雨粒の代わりに明るい日差しが降り注いでいた。
「高橋さん! 高橋さんっ!」
 歩道橋の中腹で、芹川さんが興奮した様子で手を振っている。「早く来い」のジェスチャーにせかされ、僕は彼女のもとへ急いだ。到着すると、今度は「あれ! あれっ!」と宙を指差す。
「虹ですよ!」
「ほんとだ……」
 すっかり晴れ渡った空をバックに、七色の帯がビルの合間に橋を架けていた。
 自然現象だとわかっていても、そのアーチには心を奪われてしまう。僕と芹川さんは歩道橋に並んで、しばらく子供のように見入っていた。やがてたもとから色を失い、青空に溶けるように消えてしまうまで。
 虹が完全に姿を消してしまうと、芹川さんはぽつりと呟いた。
「私、あの虹ちゃんと記憶しました。だから、見えなくなっても『生きて』ますよね? 心の中で」
 こちらを覗き込む芹川さんの表情は、なんというか、そう――にやにや。
 人を小馬鹿にするような、けれど憎めないチェシャ猫の笑みを浮かべ、こちらをじっと見つめていた。僕は思わず額を押さえる。
「忘れてください本当……」
「忘れません。忘れませんよお。だからさっきの高橋さんの言葉も、永遠に私の中で生きることになるのです」
 どうだまいったかと言わんばかりに、芹川さんは顔をほころばせる。勘弁してください……。知らず知らずのうちにそんなうめき声が僕の口から漏れていた。
 うなだれる僕の背を叩き、芹川さんはさして申し訳なくなさそうにからかいすぎたことを詫びる。このあたりのしぐさと憎めなさは、とことん母親譲りだ。
「もー、冗談ですって。お詫びと……それからお礼に、これを受け取ってくれませんか?」
 ちらりと顔を上げると、芹川さんはなにやらバッグの中をがさごそとあさっていた。そして取り出されたのは、丸い、水色の、もういい加減お馴染みの――宇宙人のぬいぐるみ。
「火星人ですっ」
「……でもこれ、大切なものなんじゃ」
 地震で倒壊したラックを目にしたとき、真っ先に芹川さんがその安否を確かめに走ったもの。あのときの彼女は、はた目にも尋常ではなかった。そのほかの壊れた置物や、ばらまかれた本など気にもとめず――そもそも、ぬいぐるみなんて、棚が倒れたくらいで破損などするはずがないというのに。つまりそれは、それだけ彼女がこのぬいぐるみに思い入れがあるということだ。
 芹川さんは大きく頷いた。
「もちろん大切ですよお。だって、お父さんが私にくれたものなんですから。前の家から持って逃げた、唯一の形見です」
「じゃあなおさら」
 なおさらそんなもの受け取れない。それを僕に譲ろうとした、その気持ちだけでじゅうぶんだ。
 けれど芹川さんは、見透かしたようにくすりと笑った。
「でもそれは、私の部屋に飾ってあったほう。こっちは、ドアノブに引っ掛けてあったほうです。これは、あとから私が自分で取りました。UFOキャッチャーで、ね」
 いたずらっぽくウィンク。UFOキャッチャーで宇宙人が釣れるなんて面白いですよねー、なんて言いながら、芹川さんはその丸い頭をむにむにと押しつぶして遊んでいる。
 ……そうか、同じぬいぐるみが二つあったことをすっかり失念していた。
 ぬいぐるみいじりは芹川さん流の別れのスキンシップだったのか、一通り遊び終えると、どうぞ、と水色の彼もしくは彼女を差し出した。
「どうも……」
「あ、安心してください。依頼料のほうは、ちゃんとあとで振り込んでおきますから」
「……どうも……」
 芹川さんは、ぬいぐるみ一つぶん軽くなったバッグを肩に掛け、歩道橋を降りていく。その背を追いかけ、そういえば、と思い出した。
 言い忘れていたことがあった。朝起きたとき、仏壇に供えたワイングラスの中身が空になっていたのだが――
「私、帰ったら真っ先にお父さんに手を合わせますね!」
 まあいいか。そんなこと今さら伝えなくても、蒼平さんの存在は、今も家族の中にある。

「ありがとうございました」
 駅の改札前で、別れの間際、芹川さんはそう言って深々と頭を下げた。
 いろいろな側面を見たけれど、礼儀正しい子、という第一印象は、最後まで変わらなかった。その代わり、追記事項は山ほどあったけれど。オカルト好きとか、いじめっ子体質とか、怒らせると怖いとか、怒らせると怖いとか、怒らせると怖いとか、エトセトラ。
 その彼女が数年後、バイト希望として事務所を訪れるのだが――それはまた、別の機会に。

*  *  *

「あ! 雨やんだみたいね!」
 なぜかデジャヴを覚える声が上がる。見ると、碧乃君が窓を開け、外に手を差し伸べていた。明るい日差しがガラス越し事務所内に差し込んでくる。
「…絶好の罰ゲーム日和ですね」
「うんうん。さあなる子ちゃん、行ってみよー!」
「…ひとりパントマイムでコンビニ買出し」
「えっ? あれっ? なんか内容変わってませんかっ!?」
 あわあわする如月さんを、碧乃君が出口まで強引に引っ張っていく。ドアを開け、その背を押して部屋の外へ放り出すと、碧乃君はにっこりと、悪魔の微笑みで後輩を送り出した。
「入店するときに、見えない壁にぶつかるふりね!」
「えっ? ええっ?」
「…特選天丼を買ってきてください」
「えええっ? お二人とも、さっきとおっしゃっていることが違っていますよ!?」
「さー行った行った」
 碧乃君も、石蕗ですら聞く耳持たず。追い詰められた如月さんは、突然大声を上げた。
「あーっ! そ、そうですそうです! わたし、前々から気になっていたことがあったのです! そっ、それはいったいなんなのですかっ!?」
 如月さんが指差す先に、碧乃君と石蕗の視線が向けられる。そこは、僕のデスクの上。
「そっ、それは高橋さんの趣味なのでしょうかっ? 男のかたにしてはずいぶんとファンシーな……むむ、ファンシーというほどかわいらしくもないのですが……いえっ! も、もちろん素敵だと思いますよお! そのなめらかなフォルム、つぶらな瞳、セルリアンブルーのボディ! 究極の造形美ですねっ! ……水族館のお土産かなにかですか?」
 如月さん必死の時間稼ぎ。
 しかしそれは悪あがきというよりも完全に悪い方向に作用し、カチリときた碧乃君の表情が険しくなる。石蕗は無表情で眺めているだけで、そういえばクラゲって足何本なんでしょうねー? などと墓穴を掘り進める如月さんをフォローする気はないらしい。仕方がないので、僕が答えを述べる。
「これはね、以前クライアントからお礼にいただいたものだよ」
「ほおーう! そんな思い出の一品だったのですねえー!」
「そう。ちなみに、かの『宇宙戦争』にも登場した、由緒正しき宇宙人だから」
「ああー! クラゲじゃなかったのですねえー!」
「うん。それから僕は、豪華のり弁当」
「がッ! たっ、高橋さんまで……っ!」
 最後の砦が崩れたように、如月さんはよろよろと壁にもたれかかった。そして観念したようにすべてを受け入れ、力なく階段を下りていった。
 その哀れな背中に、非情な先輩が追い討ちをかける。
「私はクラブハウスサンドねー。デザートにティラミスもよろしく!」
 どこか遠くから、蚊の鳴くような悲鳴が届いたのは、きっと気のせいだろう。
 今日も事務所はにぎやかだ。

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≪BACK目次あとがき≫


■感想などありましたら…無記名でも構いません。お返事はレス用日記にて。
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