石蕗さんの家政夫日誌

a certain Sunday...


 家政夫の朝は早い。
 日の出と共に起床し、身支度を整えると、まずは二階の事務所へ降りる。パソコンの電源を入れ、本日の予定を確認。今日は午後にクライアントが訪れ、結果報告をすることになっていた。浮気調査の結果はクロだったため、所長も少し気が重いだろう。
 ブラインドを上げて事務所を出ると、再び三階の居宅へ戻る。今度は朝食の準備。ご飯は昨夜のうちに予約セットしておいたので、放っておいても時間どおり炊けるようになっている。あとは味噌汁に焼き魚。これはどちらもそれほど手間はかからない。
 朝の仕事で一番労力なのは、所長を目覚めさせることだ。
 まず、朝食を作るかたわら、折を見て一度ドア越しに声をかける。もちろんこれで起きるはずはなく、所長は二度寝へと移行するのだが、ここで少しでも眠りを浅くしておかなければ、このあとてこでも起きなくなってしまう。
 そういえば以前、芹川さんも所長を起こす機会があったのだが、そのときは苦労したものの一回で起こすことができたそうだ。珍しく寝起きがよかったのか、芹川さんの起こし方が効果的だったのか、それとも別の理由があったのか。
 コンロの火を止め、再び所長の寝室へ向かう。今度は室内に入って直接声をかける。
 いつものことだが、ベッドと机と本棚と備え付けのクローゼットしかない寝室は、その簡素な内装を補うかのように散らかっていた。今日は就寝前に読んでいたのであろう数冊の本が、床にそのまま放り出されている。それでもまだ比較的綺麗なほうだ。
 ベッドの脇にあるカーテンを開けると、まぶしい朝日を浴び、布団のかたまりがわずかに身じろいだ。
「…所長、朝です」
「うー……ん、起きる起きる……」
 この言葉が実行されたことは、過去一度もない。
 散乱した本を棚にしまって、いったんキッチンへ戻る。味噌汁をよそっていると、寝室から目覚まし時計の音が響いてきた。けたたましいアラームはほどなくして停止するが、止めた主が起きてくる気配はない。いまだ一度としてその役目を果たしたことのない目覚まし時計が、少々哀れでもあった。
 朝食を並べ終えると、みたび寝室へ向かう。三度目の正直という言葉もあるとおり、ここでなんとしてでも起こさなければならない。こちらの心情としては、仏の顔も三度、といったほうが的確かもしれないが。
「…所長、起きてください。朝食が冷めます」
「あー、うん……。今起きるってば……」
 渋々ながらもベッドから出た所長を見届け、ようやく朝の大仕事が完了する。

 八時。所長が事務所へ降りる。
 年中無休・二十四時間営業と銘打ってはいるが、実際に一日中事務所が開いているわけではない。その必要があるほど客足も多くない。今日も、午前中はクライアントが一人もやってこなかった。
 芹川さんは、本日休み。彼女一人がいないだけで、事務所はずいぶん静かになる。それは平穏な静けさというよりも、物足りなさを覚える静けさだ。レポートをまとめている所長も、始終どこか退屈そうだった。
 バイトとして働いている芹川さんに、明確な勤務日程はない。用事がない限り入ってもらっている結果、ここには毎日のように顔を出していた。本人曰く、家より事務所にいる時間のほうが長い、とのことだ。いまや彼女が高橋探偵事務所にとって欠くことのできない人物であることは、言うまでもないだろう。

 十七時をまわり、終業の頃合となる。この時刻を過ぎて依頼が入ることはまずない。結局、本日の所長の仕事は、午後の結果報告一件のみだった。
「今度から浮気調査の依頼には制限をつけようかなあ……」
 卓上の書類を整理しながら、所長はため息混じりに漏らした。
「…というと」
「調査結果がクロでも逆上して八つ当たりしない平常心を持ち合わせたかたのみ。特に女性」
「…賢明ですね」
 所長の頬にある見事な引っかき傷を見ると、同意せざるを得なかった。
 結果報告を聞いたクライアントの反応は十人十色だ。ことに浮気調査の場合はその振幅が大きい。シロであれば安堵する者がほとんどだが、クロであればその場で泣き崩れたり、茫然自失に陥ったり、手のつけようがないほど怒り狂ったり。この怒りのパターンが一番厄介で、今回のクライアントはまさにそれだった。
 報告を聞くや否や、所長に掴みかかり、殴りかかり、結果できたのが頬の傷。所長が手にしている書類が皺だらけでところどころ破損しているのもそのせいだ。
「…しかし、選り好みできるほど依頼は多くありませんよ」
 そして、それがこの事務所の現状でもあった。
「それ碧乃君からも言われたんだよねー……」
「…所長。もう事務所を閉めるのなら、少し付き合っていただけませんか」
「どこへ?」
 パソコンの電源を落とし、ファイルの中から一枚の紙を取り出して示す。
「…スーパー丸中、卵一パック五十八円、お一人様一点限り」

*  *  *

 会計後、姿が見えないと思っていたら、所長はスーパーの表でへたり込んでいた。
「……ここは、戦場だ……」
 憔悴しきった表情で、うわ言のように呟いている。セール品に群がる女性客の波にもまれたことが、よほどこたえたらしかった。
「石蕗は毎日こんなところで食料調達してるのか……。おまえの存在が今ものすごくありがたく思えてきたよ」
「…それはどうも。一週間も続けていれば、誰だって慣れますよ」
「いや、無理。僕には無理だ……」
 改めてこの人の駄目人間、失礼、生活能力のなさを実感した。所長には一生誰かがついていなければ、まともに食事すらできないのではないだろうか。

 卵二パックをはじめとした戦利品が収められた買い物袋を手に、駐車場へ向かう。所長はとても運転できそうな状態ではなかったので、帰りは助手席に座ってもらった。代わりにハンドルを取り、事務所に向かって車を走らせる。
 日曜夕方の商店街は、人通りが多い。辺りはだいぶ暗くなっていたが、両脇の歩道はにぎわっていた。
「あっ! つ、石蕗、ちょっと停めて!」
 突然所長が声を上げたのは、混み合う通りを抜ける少し手前でのことだった。
「…どうしたんですか」
 尋ねるが、所長は窓ガラスに張りついたままで答えない。ひとまず車を道路の脇に寄せ、言われたとおりに停車させた。本来ならば駐車違反にあたるのだが、所長の様子が尋常ではなかったので、緊急事態と判断しての行動だった、ということにしておいていただきたい。
 再び同じ質問をすると、所長は返答代わりに窓の外を指差した。その先には、歩道を往来する人々。なんの変哲もない光景だったが、その中に見慣れた姿を発見した。
「…芹川さんですね」
 所長がかすかに頷く。
 彼女の自宅はこの近くだ。休日にこの通りを歩いていても、なんの不思議も不審もない。所長がそれほど驚く理由がわからなかった。
 しかし、ほどなくして合点がいく。
「…連れのかたがいるようですね」
 見覚えのない人物だった。そしてそれは、若い男性だった。
 年齢は二十代半ばの頃。中肉中背、黒髪、カジュアルだが落ち着いた服装。おそらくは社会人だろう。容姿に特筆すべき点はないが、誠実そうな印象を受ける、好青年という表現が似つかわしい人物だった。
 男性は、芹川さんの半歩後ろを、彼女に先導されるようにして歩いている。時折芹川さんが顔を向け、笑顔を浮かべて楽しげに会話をしていた。
 二人はこちらに気づかないまま車の脇を通り、一軒の店の前で足を止めた。
 まず、芹川さんが店内に入ろうとする。しかし、男性は気が進まないのかその背を追おうとしない。気づいた芹川さんが男性の腕を取り、やや強引にドアの前まで牽引する。そこで二言三言交わし、男性がはにかむ。芹川さんも微笑み返す。そうして二人揃ってドアをくぐっていった。
 その間、所長は無言。窓ガラス越しに一部始終を眺めているだけだった。いや、睨んでいたのかもしれない。その表情はうかがえなかったが、今、視線がどこに向けられているのかははっきりとわかった。
『ジュエリー・エンジュ』
 そう掲げられた看板。夕闇の中、煌々とした明かりを放つ華やかなたたずまい。二人が入店したのは、どこからどう見ても宝石店以外の何物でもなかった。
 店内をまわる二人の姿が、ほかの客に混じって間々確認することができる。ショーケースを並んで覗きこむ男女がどのような関係に見てとれるかは、あえて言う必要もないだろう。
「…所長。数々の浮気調査をこなしてきた探偵として、これはどう見ますか」
「………………グレー」
 それはほとんどうめき声だった。
 さほど時間を置かずして、二人は店外へ出てきた。あらかじめ注文しておいたものを受けとりに来ただけだったのかもしれない。男性の手には、小さなギフトバッグが丁重に抱えられていた。
 芹川さんと男性は、語らいながら再び車の脇を通り過ぎていく。所長の首が、それを追うようにゆっくりとスライドしていった。二人は横断歩道を渡り、反対側の通りへ移る。そして、先ほどの宝石店の向かいにある店に入っていった。今度は男性が渋る様子はなく、むしろ芹川さんを促して入店したようにも見えた。
『フレンチダイニング ル・レーヴ』
 洒落た雰囲気と多彩なメニューで人気の高いレストラン。所長も名前くらいは知っているだろう。訪れる客のほとんどがカップルであるという予備知識も含め。
 幸いなことに、というべきか、二人が案内されたのは歩道に面した窓際のテーブルだった。ここからでも対面して座す二人の姿が目に入る。
 ひたすらまなざしを送り続ける所長の顔は、どう表現すれば一番ふさわしいだろうか。合格者が張りだされた掲示板の中から自身の受験番号を探しているような、とりかえしのつかないミスを犯した部下を目の前にしているような、この世でもっとも恐ろしいホラー映画を無理やり鑑賞させられているような、医師から癌告知されもってあと半年と余命宣告されたような。それらを苦虫を五十匹ほど噛み潰しながら経験すれば、ようやく今の所長の顔ができあがるかもしれない。そしてその表情は、二人が食事を終えるまで崩れることがなかった。
 テーブルの皿が下げられ、食後のデザートが運ばれてくる。店員が去ったのを見越して、男性は先ほど購入した指輪もしくはネックレスが入っているのであろうプレゼントを手にした。そしてためらいがちに、おおいに恥じ入りながら、芹川さんに差し出した。刹那、所長の無言の叫びが車内に響く。

 いまどき、給料の三ヶ月分なんて古くさいかもしれないけど……。
 ……え?
 超能力はまだ使えないけど、きっと覚えます。きみと一生オカルトしりとりをしたい!
 嬉しい……。私も、たとえあなたが生身の人間でも愛していますっ。
 ありがとう。ハネムーンは世界七不思議めぐりだネ☆

「――石蕗、変なアテレコするのやめてもらえるかな」
「…失礼。声に出ていましたか」
「おまえの中の碧乃君がどういう人物像なのかはよくわかった」
 所長は気丈に振る舞っているつもりなのだろうが、不自然に震えている声を聞けば、極めて危うい精神状態であることは一目瞭然だった。もう一撃食らえば、気絶するか発狂するかのどちらかだろう。
「…所長、気を確かに。大丈夫です。あと五年は私が面倒を見てあげますから」
「うん……いや全然嬉しくないし五年って! こんなとこで退職予告!?」
「…芹川さんの幸せを願ってあげるのも上司の勤めです」
「うん……そうだね、わかってる。まああれだよ、僕はまったくもって平気だからね。さあもう帰ろう石蕗!」
 虚勢にしか聞こえない台詞を吐き、所長は振りきるように顔をそらした。二度とそちらには目を向けるものか、とでもいうかのように、かたくなにレストランとは反対の通りを睨んでいる。
 そんな所長を横目で見ながら、車を発進させた。ずいぶん長い時間留まってしまった。辺りはすっかり夜が落ち、商店街にはネオンが輝いている。
「…そう気を落とさないでください」
「何言ってるんだよ。全然気なんて落としてないから。だいいち碧乃君はもう大人なんだ。彼氏の一人や二人、いてもなんの不思議も」
「…所長」
「なんだよ」
 レストランが遥か後方に遠ざかり、所長はようやくこちらを向いた。
「…やめてください。ツンデレヘタレ三十代なんてキャラ、誰も望んでいません。語呂も悪いですし」
「……おまえさ、最近碧乃君に感化されてきたんじゃない?」
「…自覚はあります」
 所長は深く嘆息し、頭をシートに預けた。うつろな表情で、先ほど目にした光景を思い返しているのだろう。
 照れながらも、プレゼントを差し出した男性。それを喜悦の表情で、それもこころなしか恍惚が入り混じった様子で受けとった芹川さん。
「…所長。数々の浮気調査をこなしてきた探偵として、最終的な判断は」
「………………クロ」
 それはほとんど断末魔だった。

 ――本日の手記は以上。

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