a certain Thursday...
十六時。
夕食の買い物帰りに、偶然如月さんと遭遇した。場所は鴨池自然公園。緑と芝生に囲まれ、春には花見客でにぎわう比較的大きな公園だ。平日の午後も、遊歩道を散歩したり、ベンチで語らったりしている人々の姿が見受けられる。
そんな園内の入り口に、制服姿の如月さんはいた。ツツジの茂みに隠れるように、身を低くして屈んでいる。はたから見れば不審者のそれだ。
背後に近づいてもこちらに気づかなかった彼女は、声をかけると飛び跳ねて驚いた。
「わわっ!? つ、石蕗さん……。もー、おどかさないでくださいよっ!」
慌てて取り落としそうになったカメラをさする。
迫力すら感じる大振りな一眼レフカメラは、彼女の小さな手にはあまるほど。曰く、命の次に大事な相棒とのことだ。
如月さんはこれまで、このカメラで数々の写真を撮り続けてきた。現像もみずから行っているそうだ。その九割には、写るはずのないものが写りこんでしまっているのだが。最近デジカメを購入したらしいが、やはり長年を共にしてきたこちらのほうが手に馴染むらしい。
その相棒を首に提げているということは、今も撮影の最中だった模様。辺りを見まわすと、彼女の被写体はすぐに見つかった。
「…あの写真はこうして撮りためたんですね」
如月さんはきまり悪そうにごまかしの笑みを返す。
鴨池自然公園には、その名のとおり園内の中央に池がある。水鳥が戯れる池のほとりには、見知った二人の姿があった。キャロラインちゃん捜索中の所長と芹川さん。先日、首輪を発見したのもこの付近だったらしい。彼の特技が『泳ぐこと』とのこともあり、本日は公園を中心としての捜索だった。
「…いつもこんなことを」
「そそそそれはそのっ、いつなんどきシャッターチャンスが訪れるかわかりませんからねっ! こうして密着二十四時して、わずかな機会も逃さないようにしているのですっ」
「…二十四時間も密着しているんですか」
「言葉のあやですよぅ。学校が終わってからと休日くらいですっ」
現在、先輩メモリアル第二号の制作に取りかかっているらしい。
根底にあるものは、芹川さんへの純粋な尊敬心だろう。いささか行きすぎている感はいなめないが。それでも現段階では芹川さんに害は出ていないようなので、今しばらく彼女の好きにさせておくことにする。
との言を聞き、如月さんは胸を撫で下ろした。
さっそくカメラを掲げ、撮影を続行。茂みからわずかに顔を出し、ファインダーを覗く。しかし、しばらく経ってもシャッターが切られることはなかった。如月さんは再びカメラを下ろし、息をついた。
「あの二人、なにか様子がおかしくないですか?」
さすがの彼女も、物陰から見つめ続けているうちに気がついたようだ。逆をいえば、彼女ですら感づくほど、所長と芹川さんのあいだに流れる空気は異様だった。
一人で行動を進める芹川さん。距離を置いてそのあとに続く所長。
険悪、とは少し違う。あからさまに不機嫌な芹川さんに、ただひたすら所長がうろたえ戸惑うという形。二人の会話はここまで届かないが、内容の察しはつく。芹川さんは、口を開けば皮肉混じりのとげとげしい発言で攻撃し、対する所長は、歯切れの悪い返答を返すことしかできずにいるのだろう。そんな態度に、芹川さんの苛立ちは増す一方。完全な悪循環といえた。
ここ最近、芹川さんのいい表情が撮れない、と如月さんはこぼした。
「何が原因なのでしょう」
「…私もはっきりとは。ただ、所長の性格がその一端を担っていることは確かです」
如月さんはおおいに納得して頷く。
「高橋さんって、なんていうかこう、もどかしいというか、じれったいというか、はっきりしやがれこのやろー! ってところがありますよねっ。やっぱり、歳を食うとなにかと慎重になりすぎてしまうのでしょうか。でも、もうちょっと攻めていってもいいと思うのですよっ、わたし的には!」
十五歳も年下の女子高生に駄目出しをされる成人男性。付き従える身としてはこれほど情けないこともなかったが、彼女の言い分は決して間違っていなかった。こちらとしても、同意はすれど、言い返すことは何もない。やはり誰の目から見てもそのように映っているのだろう。
さらに如月さんは語りだす。彼女は天地が逆転しても芹川さんの味方だ。敬愛すべき先輩を悩ます者は、何人たりとも許せないのだろう。
「先輩、以前ぽろっと漏らしたんです。『私、好みでいったら絶対石蕗さん派だと思ってたのよ。だって美羽の気持ちわかるもん。背高いし、ルックス文句ないし、賢いし、器用だし、礼儀正しいし、ミステリアスだし。なにより頼りになるし!』」
芹川さんの口調をまねていた如月さんは、そこまで言ったところで口をつぐんだ。非難するような目つきでこちらを睨む。
「照れたりしないのですね」
「…照れていますよ」
「……わたしもまだまだ修行が足らないようです。えーと、それで、『普通は石蕗さんだよね。私も普通だと思ってたんだけどなあ……。思ってたんだけど……思ってたんだけど……』」
「思ってたんだけど」をもう二度ほど繰り返し、如月さんの話は終了。中途半端な内容に疑問を唱えると、彼女も首をかしげた。
「そこで終わりですよ? 先輩、そこまで言って寝てしまったのです。ちょっと酔ってましたから。たぶん、わたしにそんな話をしたことも覚えていないのではないですかね」
結局、芹川さんの苛立ちの理由に関係があるのかないのか不明瞭な話だった。わかったことはといえば、芹川さんはあまりお酒に強くないらしいということくらいだ。
そうこうしているうちに、肝心の二人は視界から消え去っていた。如月さんは慌てて立ち上がると、別れの挨拶もそこそこに駆けていく。日のあるうちは先輩メモリアル第二号の制作に費やすらしい。
遠ざかる背中を眺め、肝心なことを聞き忘れていたことを思い出す。妙な視線の件はどうなったのだろう。先ほどまでの言動を見る限り、昨日見せた不安げな様子は感じられなかったが。
好きなことに打ちこんでいるあいだは、恐怖の感情も紛れるのかもしれない。それならば歓迎すべきことだ。たとえそれが隠し撮りであったとしても。いや、やはり問題はあるか。
閑古鳥の鳴く事務所とはいえ、いつまでも空けておくわけにはいかない。楽観かもしれないが、如月さんの件は杞憂であること願い、帰路につくこととする。
しかし、ふと足が止まった。
園内には、さまざまな人々がいる。年齢層はいうまでもなく、一人の者もあれば、集団でたむろしている者もある。だから、男性が一人、街頭の脇に佇んでいても、なんら不自然に感じる点はない。ないはずだった。
年齢は不詳。決して若くはないが、いうほど高齢でもない。目深に被ったニット帽が表情を隠し、その判断をより困難にしている。いたって身軽ないでたちは、そのまま園内をジョギングしていても不思議はない。
本来、違和感を覚えるはずのない人物だった。しかし、去り際の足を引き止めたのもまた、この人物だった。
男性は探し物でもするかのように、首を左右にめぐらせていた。その視線がふいにぶつかる。その途端、男性は色を変え、なにかまずいところを見られたかのように足早に立ち去っていった。その挙動には、明らかなあせりが見受けられた。
推測が頭をよぎる。もしかしたら、あの男性が如月さんの感じた「妙な視線」の主なのでは、と。
しかし、本人に問い詰めようとも、男性はすでに園内から姿を消していた。いや、まだ園内にはいるのかもしれないが、この広い敷地の中から捜し出すことは至難のわざといえた。
どちらにせよ、今日のところはこのまま帰宅。男性のことは頭にとめ、如月さんには注意を促し、こちらも彼女の動向には気を配るようにしておく。あてにならないとはいえ、やはり所長にも伝えておいたほうがよいかもしれない。
夕食のしたくができる頃、所長は帰宅した。
事務所に寄らず、そのまま居宅へ上がってきたところを見ると、本日は現地解散だった模様。例によって精神的に疲弊しきった顔をしているのはいうまでもない。こちらとしても、尋ねる気にもならなかった。
「…お疲れのところ申し訳ありませんが、メールとファックスが届いていましたよ」
「メールとファックス? あ、依頼?」
「…メールはパソコンの中ですが、ファックスはそちらに」
テーブルのすみに置かれた紙束を示すと、所長は表情を明るくして飛びついた。しかし、その内容を目にした途端、浮上しかかっていた気分が再び降下する。
「なにこれ……」
「…誤って裏面を送信してしまった」
「わけはないだろう、常識的に考えて。この量だよ?」
所長が端を持ち上げると、紙束は音を立てて卓上から滑り落ちた。床についてもなおありあまり、波のように幾重にも折り重なっている。
つまりは、一枚のとてつもなく長い紙だった。そして、インク染み一つない白紙だった。
「ここまで露骨な嫌がらせは初めてかも……」
感心にも聞こえる呟きを漏らしながら、所長は感熱紙のロール一本まるまる使い果たした白紙を律儀に丸めとっている。メモ帳かなにかに再利用するのだろう。
「この流れでいくとあまりいい予感はしないんだけど……ちなみに、メールのほうは?」
「…何からお聞きになりますか」
その質問に、所長の嫌な予感は深まったらしい。表情をゆがめて答える。
「……じゃあ、件数から」
「…百八十七件です。途中で受信ボックスがパンクしましたから、あと何通控えていたのかまではわかりませんが」
「うん。知りたくもないよね」
「…開封せずごみ箱に隔離しておきましたが、確認されますか」
所長は力なく首を振った。メールの内容がどんなものかは、すでに予想がついている様子。そしてその予想は正解だった。
「すぐ捨てて。どうせ全部ウィルス付きでしょ。あーあ、どうしてこう次から次へと……。キャロラインちゃんは見つからないし、兄さんと姉さんは押しかけてくるし、碧乃君はなんか怒ってるみたいだし、それで帰ったら嫌がらせのメールとファックス。僕の安息の場所はどこ……」
テーブルに突っ伏し、うなだれるその姿には、さすがに同情を禁じえない。本人にも多少原因があるとはいえ、ここ数日の所長は神様の機嫌を損ねてしまったかのようについていなかった。とても他人の身を案じている余裕はないだろう。如月さんのことは、今回は黙っておくことにした。
――本日の手記は以上。