a certain Wednesday...
如月さんの様子がおかしかった理由は、翌日明らかになった。
キャロラインちゃん捜索のため、所長と芹川さんが事務所を空けているときに彼女はやってきた。室内に入るなり、念入りに周囲を見まわし、人の気配がないことを確認する。そうしてようやく落ち着き、ソファーに腰を下ろすのだった。
なにか相談事があるとのことで、彼女側から言い出すまで待つことにする。湯飲みにつがれたお茶がぬるくなった頃、如月さんはようやく口を開いた。
「……視線を感じるのです」
それは予想していなかった内容だった。
「最近、主に外を歩いているときに、妙な視線を感じるのです」
如月さんは言いなおす。続いて詳細を加えた。
最近、というのは、ここ二、三日のこと。外出時や下校時、道路を歩いていると、誰かにつけられているような気配を感じるのだという。それは粘着質な視線を伴い、執拗に彼女を追ってくるらしい。心当たりは、もちろんない。
「あ、ちなみに人ですよ。生きた人間です」
話の最後に、如月さんは思い出したように補足した。
常人からすれば、それは当然のことだろうが、この事務所においては一概にそうとは言えなかった。犯人は生きた人間ではないかもしれないし、ややもすれば人ですらないかもしれない。あるいは生きた人間であっても、それは生身の体を持っていない可能性もある。
しかし、霊感の強い部類に属する如月さんが言うのだから、それは間違いないのだろう。考えられるのは、やはりストーカーのたぐいだろうか。
だが、まずはもっとも気にかかっていたことを口にする。
「…どうして私に相談したのですか」
相談内容以上に意外だったのがそのことだった。彼女なら、真っ先に芹川さんに打ち明けるものと思ったからだ。
触れてほしくない質問だったのか、如月さんは返答に窮した。
「それはー……そのー……ほらほらっ! 先輩たち、ちょうど依頼が入ってお忙しいようでしたしっ。よよよ余計な負担はかけたくないという、慎ましい後輩心ですっ」
明らかな詭弁だったが、彼女にも事情があるのだろう。それ以上追求せずにおいた。
「…それで、私にどうしろと」
「それを聞くために、こうして相談を持ちかけたのではないですか」
「…そう言われましても」
確かに暇な事務所ではあるが、一日中彼女を見張るようないとまはない。こちらにも事務所の番をする勤めがある。所長に頼めば依頼として請け負ってくれるだろうが、現在あの人はそれどころではないため、きっと使い物にはならないだろう。
なるべく一人で出歩かないように。夜道にはじゅうぶん気をつけるように。今の段階で言えることはそれくらいだった。
「……わかりました」
如月さんは気落ちした様子で頷いた。普段ありあまるほどの元気を振りまいている彼女なだけに、肩を落とす姿はあまりに似合わず、見ている者の気分まで沈んでくる。
彼女もまだ十七歳の少女。誰ともわからぬ人物につきまとわれ、不安に思わないはずがない。恐怖に近い感情もあるだろう。こちらとしても心配なため、役に立たずともいないよりはましだと思い、所長にも伝えることを勧めた。彼女の思い過ごしであればよいのだが、大事に至ってからでは遅い。
しかし、如月さんはその申し出を断った。
「でも、本当に危ないと感じたらすぐに連絡しますからっ」
そう言って頭を下げ、彼女は去っていった。いつもどおり振舞おうとするその背中が気がかりだった。
日が落ちかけた頃、所長が芹川さんと共に帰還する。
二人の雰囲気から察するに、所長は本日も訊けずじまいだった様子。捜索のため歩きまわったことが原因ではない、精神的な疲弊が表情にまでにじみ出ている。
事務所に入るなり、所長は大きく嘆息してデスクに倒れこんだ。その姿を見て、芹川さんがあきれたように言う。
「これくらいでへばるなんて、だめですね、もやしっ子のお坊ちゃんは」
またしてもとげのある言葉。
それを受け、所長はさらにうなだれる。しかし言い返すことはできず、再びため息を漏らすのだった。
芹川さんはその様子を気に食わない表情で睨む。不機嫌さが昨日よりも増しているようだ。ふがいない所長に三日も付き合わされたのでは誰だって苛立ちを覚えるだろうが、しかし、やはり理由はそれだけではないように思えた。ただ、所長以外の人間に接するときは通常どおりの彼女なので、どちらにせよ原因は所長にあるようだが。
「石蕗さん、ポスターってもう作っちゃいました?」
「…はい。ですが、まだ印刷はしていません」
キャロラインちゃんの写真が大きく使われたポスターおよびチラシ。明日はこれを配っての捜索となる。
パソコンに映し出された図案を覗きこみ、芹川さんは安心したように言った。
「よかった。一つ変更点ができたんです」
取り出されたのは、赤い首輪。今回の捜索でキャロラインちゃん本人は見つからなかったのだが、彼が身に着けていたその首輪だけは発見できたらしい。わずかながら進展といえた。
『特徴:赤い首輪』の項目を削除し、改訂版が完成する。試しに一枚刷ったポスターを手に取り、芹川さんが確認をする。本来その役目を負うべき探偵は、今は死んだようにデスクに伏せっていた。
「名前、キャロラインちゃん。性別、オス。年齢、九歳。特徴……赤い首輪がなくなったから、つぶらな瞳、っと。よし!」
芹川さんは満足げに頷く。
「じゃあこれ、明日から使わせてもらいますね。とりあえず百枚くらい作っとけばいいかな……。やっぱり石蕗さんは仕事が早くて頼りになりますねー」
誰かさんと違って、と小声で付け加え、背後の人物を横目で見やる。だが、反応はない。当人の耳には届いていないようだった。
芹川さんは面白くなさそうに頬を膨らめると、コピー機のもとへ向かった。さっそくポスターの印刷に取りかかる模様。しかし、芹川さんは原稿と用紙をセットすると、そのまま簡易キッチンへと移動した。刷り終わるまでの空き時間でさえ、彼女は手持ち無沙汰に過ごすようなことはしないらしい。
キッチンのコーヒーメーカー内には、すっかり煮詰まった黒い液体がわずかに残っている。それをシンクに流すと、芹川さんは新たにコーヒーを作りなおした。日誌に次ぐ彼女の日課の一つだ。
ほどなくして、カップ二つを乗せたトレイを手に、芹川さんが戻ってきた。淹れたてのコーヒーの香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。それにつられるように、所長がようやく身を起こした。三日間断食したようなひどい顔。そんな所長のもとにもコーヒーは運ばれる。どんなに不満があってもきちんと助手の業務を果たす芹川さんは、彼女の言う「誰かさん」よりもよほど大人だった。
その後、百枚分のポスターが刷り上り、芹川さんの本日の務めは終了。彼女が去ると同時に、事務所も終業となった。
結局、ここ三日の仕事は、ほとんど芹川さん一人がこなしていた。本日の成果をレポートにまとめるようなこともせず、所長はなぜか咳きこんでいる。秘書としては情けない限りだ。
「……ねえ石蕗。僕さあ、碧乃君に冷たくされてない?」
ふいに所長はそうこぼした。
「…気づかれていましたか」
「そりゃさすがにね。こんなコーヒー出されたらね」
そう言ってカップの中身を示す。
そこにつがれていたものは、今自分が飲んだばかりの液体とはずいぶん異なっていた。いや、所長に関しては液体ですらなかった。琥珀色に濁ったゲル状の物体が、カップの中を満たしている。もはやコーヒーと呼べるかどうかすらわからなかった。
物体Xの正体を、所長が端的に述べる。
「砂糖入れすぎのコーヒー牛乳、というかコーヒー牛乳味の砂糖」
ひたすら甘いことだけはいたく伝わった。所長が先ほどむせていたのもこれが原因だった模様。
芹川さんは優秀な助手だ。各人のコーヒーの嗜好もきちんと把握している。所長の場合は、ミルクなしの砂糖一個。間違ってもこのような体積の半分以上を砂糖が占めるおぞましい物体を作り上げることなど考えられない。だいいち、うっかり分量を誤ったというレベルではなかった。
「どう考えても嫌がらせだよねこれ……」
「…正確には、そうですね。昨日からですよ。芹川さんの様子がおかしいのは」
「え!? うそ!?」
言われて初めて知ったかのように、所長は驚愕の声を上げた。本当に微塵も気づいていなかったらしい。
さらに所長は腕を組み、真剣に悩みはじめる。
「碧乃君を怒らせるようなこと、なにかしたかなあ……」
それがわからないとは、所長の鈍さも大概のものだった。芹川さんの気苦労はまだしばらく続きそうだ。
――本日の手記は以上。