二月十四日。
教室内はいつにも増してざわめいていた。
「ねぇ、渡すの? アレ」
なーにがアレよ、白々しい。
「でも見つかったら没収とか言ってなかった?」
そうよ没収よ。当たり前じゃない。
「最悪よねー。学生の本分は学業だ。そんな浮ついたことをしている時期ではない! とか言っちゃって」
そう! 学業が本分なのよ。第一受験生でしょ、私たち。
教室の後ろから聞こえてくる女子の会話に耳を傾けながら、アサミは心の中でそんなツッコミをしていた。
――憂鬱だ。
朝から学校中がこんな雰囲気で、こういうイベントごとが大の苦手なアサミにとっては、苦痛以外のなんでもなかった。
そして“ヤツ”の言動が、それにさらなる拍車を掛ける。
「アッサミちゃーん! 今日はなんの日か知ってるー?」
満面の笑みで現れたこの男が“ヤツ”。ケイゴという名の、数日前からの頭痛の種だ。
「今日は赤口。祝いごとには大凶の日。ついでに怪我にも注意」
あさっての方向を向いて冷たく答えるアサミ。ケイゴはわざとらしく大袈裟なリアクションでぶるぶると首を振った。
「そうじゃなくて! 他にもあるでしょ? なんかこう浮かれ気分になっちゃうようなハッピーなことがさぁ!」
「ハッピーなこと? ああ、クリストファー・ショールズさんの誕生日ね」
「く、クリスト? 誰それ」
「タイプライター発明した人。うわー今日はパソコンを崇め奉らないと」
いたって冷淡で平坦な口調。
そんなアサミとの温度差に、そうじゃなくて! とケイゴは涙目になって訴える。
「バレンタインだよバレンタイン! 女の子が好きな人にチョコを渡して愛を告白する日じゃないですか!」
「ああそれじゃあタイムマシンが発明されない限り、私にとっては一生縁のないイベントだね」
「……アサミちゃん、誰にチョコ渡す気なの」
「伊達政宗。」
その一言に、ケイゴの動きが一瞬止まる。しかしすぐさまうんうんと頷いた。
「そうだよね。アサミン戦国武将好きだったもんね」
「アサミン言うな」
冷たくあしらうが、意外に素早いケイゴの切り返しにアサミは少しだけ感心する。
「でもでも、俺にも渡すものがあるでしょアサミちゃん!」
「ないない。あんたに渡したら、『好きな人にチョコを渡す日』って定義が崩れちゃうでしょ」
「ノンノンノン」
人差し指を左右に振るジェスチャー。うわぁ、今時そんなことする人がいるんだ。
アサミの思いなど露知らず、ケイゴはうんちくを述べるように語り出す。
「この世界には『義理チョコ』というものも存在しているのだよ、アサミくん。というわけで、この際義理でもいいからちょうだいよー! 第一、1週間も前から予約してたでしょ!?」
「あーあー、おあいにくさま。うちは完全当日受付制ですので」
「じゃじゃじゃ、今! 今申し込む! チョコください! アサミちゃんのチョコくださいー!!」
「申し訳ありませんが当店は月曜定休日です。また来年ご来店くださいませ」
「そんなぁ……」
さらに追い討ちを掛けるように一時間目のチャイムが鳴り、ケイゴはすごすごと自分の席へと戻っていった。
嵐が去り、アサミは疲れきったように息を吐く。前に二つ、右に一つ離れた席に座るケイゴの後ろ姿を見て思う。今日が日曜日だったらよかったのに。
さらに思う。なんであんなヤツがモテるんだろう。
確かに顔はいい。運動もできる。成績は中の上。でも問題は性格。
軽いのだ。とにかく軽いのだ。あと少し地球の重力が小さかったら、たぶん真っ先に飛んでいくのはケイゴだろう。
要はそれくらい軽い。殊に女子に対しては。それはアサミにとっては許せないことだった。
そして、さらにさらに思う。
それで? なんで自分のカバンの中にはチョコレートが入っているんだ?
ケイゴの軽さも許せなかったが、そんなヤツにチョコを渡そうとしている自分が1番許せなかった。第一あれだけ言っておいて、一体どのタイミングでどうやって渡せばいいんだろう。
憂鬱の原因はケイゴではなく、あまりにも天邪鬼すぎる自分だった。
+++
そして放課後。いよいよ必死になってせがんでくるのかと思いきや、ホームルームが終わった途端、ケイゴは慌ただしく教室を出ていってしまった。
「はいはいわかったわよ。あげればいいんでしょ、あげれば。はいどうぞ」
そう言って勢いで渡してしまおうという計画は脆くも崩れたのだ。
アサミは仕方なくケイゴを探しに出かける。わざわざ買ったチョコを無駄にするわけにもいかないからよ、と心の中で言いわけしながら。その反面、どうしてこう自分に対してまでも天邪鬼なんだろうとうんざりもする。
思いのほかケイゴはあっさり見つかった。二つ隣の教室の前にいたのだから当然だ。
さてどう言って渡したものか。悩みながら歩み寄るアサミの足が、ピタリと止まった。
ケイゴは一人の女子と向かい合い、リボンの巻かれた小さな箱を手にやり取りしている。
会話を聞かなくとも、それが一体どういう状況なのかはすぐにわかった。その女子からケイゴがチョコを受け取っているのだ。
思えば至極当然なことだった。ケイゴはモテる。女の子からチョコを貰って当たり前。自分が渡さなくとも、ケイゴの所にはたくさんのチョコが舞い込むのだ。
そう思った途端、自分がものすごくみじめに思えてきた。
そんなアサミに気づき、ケイゴは嬉しそうに駆け寄ってくる。さながら飼い主に餌をねだる大型犬。
「アサミちゃん! なになに? もしかして俺にチョコ渡したくなっちゃった?」
笑顔でそう尋ねるケイゴの手には、紙袋。ピンクや黄色のリボンが顔を覗かせている。それが何か、訊くまでもなかった。
「……まさか。どうして私があんたなんかにあげなきゃならないのよ!」
怒鳴るようにそう言って、アサミはその場から走り去った。残されたケイゴがあっけに取られた顔で立ちすくんでいた。
+++
バッカみたい。
紙くずやにお菓子の袋に埋もれるそれを見て思う。
ゴミ捨て場。たくさんの燃えるゴミに囲まれて、アサミが投げ入れた綺麗にラッピングされたその箱だけが、周囲から浮いていた。
ケイゴにとってはあんな言動、性分みたいなものだ。大方、自分の反応を見て楽しんでいたのだろう。それなのに何を真剣に悩んでいたりしたんだ、自分は。
バッカみたい。
改めてそう思うと、アサミは踵を返した。
「……帰ろ」
カバンを取りに教室へ戻ると、中から男子の話し声が聞こえてきた。アサミは思わず足を止める。
クラスメイト同士の放課後のたわいない会話。それだけならこうやって盗み聞きのような行為をする必要もないのだが、その内の一人の声の主が、ケイゴだったのだ。
「それで全員のとこ回ってきたのか?」
これはケイゴの友人。
「そゆこと。いや〜疲れた疲れた。モテる男はつらいね」
こっちがケイゴ。
「けどお前ももったいないことするよな〜」
「いーの! 俺はねぇ、そういうところはちゃんとしておきたいのだよ」
「いくつ貰ったんだよ。結構な数入ってなかったか?」
「にーしーろのはの……んー、二十個弱?」
「うわ、ムカつく」
「あはは」
――最ッ低。
ケイゴのヤツ、自分が貰ったチョコの数を見せびらかしているんだ。
アサミの思いは怒りを通り越して軽蔑に変わった。あんなもの、ゴミ箱に放り込んできて正解だ。
しかし、その確信は次の言葉で大きく揺らいだ。
「でも俺は、アサミちゃんからの一個が貰えればそれで十分なのさ」
――何、言ってるの?
心がざわざわと波立っていた。そのざわめきは徐々に大きくなっていく。
「お前のその一途さ、感心するよ。そのためにわざわざ貰ったチョコを全員の所へ返しにいくんだもんなー」
「頭下げて返された女子もさぞショックだろうよ」
「それは俺も悪いと思ってるんだけどね。でも俺は! アサミちゃんオンリーですから!」
まるで後頭部を思い切り殴りつけられたような気がした。一気に頭と心の中が混乱する。
じゃあ、何? さっきのあれは、あの女の子にチョコを返していたところだったの?
愕然として手を突いた瞬間、ドアがガタンと音を立てた。まずい、と思う間もなく、教室にいた男子の目が一斉に向けられる。アサミの姿を見つけたケイゴは、目を輝かせて駆け寄った。
「アサミちゃん! よかった〜。まだ学校に残ってたんだね」
にこにこ顔のケイゴとは反対に、アサミの視線はふよふよと宙を漂っていた。視点が定まらず、目を合わせることもできずに思わずうつむく。
そんなアサミの様子を気にすることもなく、ケイゴは本日何度目かのその台詞を口にした。
「アサミちゃんのチョコを僕にください!」
まるで娘さんをくださいと言わんばかりの勢いに、アサミはばつが悪そうに呟いた。
「……どうせいっぱい貰ってんでしょ?」
「貰ってないよ。俺、アサミちゃん以外から貰うつもりないもん」
卑怯者だ。
さっきそう聞いたばかりなのに、わざわざ本人の口から言わせる自分が嫌になる。
でも、信じられなかったのだ。面と向かって言われなきゃ、それがホントのことだと思えなかったのだ。
泣きそうになった。嬉しさと、自分の馬鹿らしさに。例えいくつチョコを貰っていようとも、意地を張らずに渡していればよかったのだ。
「いいよいいよ。無理強いしてまで貰おうって気はないから」
何も答えずにうつむいているアサミの行動をどう理解したのか、ケイゴは残念そうに笑ってそう言った。そして席へ戻ろうとする。
「待って!」
とっさに引き止めてしまった。アサミに腕を掴まれ、ケイゴはきょとんとしている。
「だっ……誰があげないなんて言ったのよ」
それを聞いた途端、ケイゴの顔がぱぁっと明るくなった。
「なになに? それじゃくれるの!?」
その言葉でゴミに埋もれる箱のことを思い出し、アサミは自分の行動を激しく後悔した。
ここまで言っておいて、今のなし、なんて言うわけにもいかない。アサミは身体検査でもするかのように、自分の体をぱたぱたと叩き出した。その様子を不思議そうに眺めるケイゴ。
その時、右手に何か硬いものが当たった。
ブレザーの右ポケット。手を差し入れ、それがなんなのか思い出す。引き出されたアサミの手に握られていたものは――小さな四角い物体。
「は、はいこれっ」
そう言ってケイゴの手に押しつけたのは、チョコはチョコでもチロルチョコ。どこの店でも十円で売っているあれだ。
今時の女の子は、バレンタインに友達同士でもチョコを渡し合う。いわゆる「友チョコ」というヤツだ。それはチョコに限らず、クッキーだったりカップケーキだったりもするが。アサミのポケットに入っていたそれは、そんな友達同士で交換したものの残りだった。
「…………」
手の内に収まる小さなそれを、無言でじっと見つめるケイゴ。いくらなんでもチロルチョコはないよなぁ、とアサミは再び後悔する。
しかし、そんなアサミの思惑とは反対に、ケイゴの表情は一気に明るくなった。
「うっわぁ……ありがとう! 俺、マジで感激だよ!!」
身体をよじらせて悶え、全身で喜びを表現する。
「ホントにアサミちゃんから貰えるなんて思わなかったぁ……マジで嬉しい! マジで!」
「……それ、ただのチロルチョコだよ」
「そんなの関係ないって! アサミちゃんから貰えたってことが嬉しいの!」
くぅ〜っ! とよく分からない叫び声を上げ、チョコを握り締めている。
そんなケイゴを見て、再び泣きそうになってしまう。そんな自分を押さえ込み、アサミはカバンを持って教室を出た。
「あれ、アサミちゃん帰るの? 待って待って! 俺も一緒に行くから!」
ケイゴも慌ててそのあとを追う。珍しくアサミは、そんなケイゴを邪険に追い払おうとしなかった。
もう少しだけ、素直にならないと。
それが当面の課題。
「俺、このチョコ一生の宝物にするから!」
「腐るわよ」
「ホワイトデーのお返しは、アサミちゃんへのありったけの愛ってことで!」
「いらない」
……すごく難しそうだけど。