二月十四日。
教室内はいつにも増してざわめいていた。
「ねぇ、渡すの? アレ」
もっちろん! 当然じゃないですか。
「でも見つかったら没収とか言ってなかった?」
あーそうそう。そんなことも言ってましたねぇ。
「最悪よねー。学生の本分は学業だ。そんな浮ついたことをしている時期ではない! とか言っちゃって」
うーん、実に彼らしいお言葉。
教室の後ろから聞こえてくる女子の会話に耳を傾けながら、ミノリは心の中でそんな相づちを打っていた。
――ついに来た!
朝から学校中がこんな雰囲気で、こういうイベントごとに目がないミノリのボルテージは上がりに上がっていた。
決戦は放課後。場所は社会科教員室。相対するは、難攻不落のあの男!
ホームルームを含め、今この時を持ってすべての授業が終了したことをチャイムが告げる。
「それじゃあ行きますか……」
乙女の一大イベントに、岡本 ミノリ、いざ出陣!
+++
「たーのーもーーーッ!!!」
学校中に響き渡りそうな大声と共に、ミノリはガラガラッと勢いよくドアを開けた。
幸いなことに敵はただ一人。戦闘条件に申し分なし!
ミノリはにんまり微笑むと、敵陣への第一歩を踏み出した。律儀に「失礼します」の一礼も忘れずに。
「コースケさん、コースケさん! 今日はなんの日か知ってますかっ?」
机に向かっていた人物は、椅子を回してくるりと体の向きを変えた。そしてあからさまに迷惑そうな顔で言う。
「西・崎・先・生・だ。……何度言えばわかる、岡本」
「ミ・ノ・リ、ですよ。コースケさんこそ、何度言えばわかるんですか」
ああ言えばこう言うミノリの切り返しに、西崎は肺の中が空っぽになるくらい大きなため息をついた。
そんな西崎の反応を楽しみつつ、ミノリは再び同じ質問をする。
「それでっ、今日はなんの日か知ってますか?」
「赤口」
「しゃ……? な、なんですかそれ」
西崎は壁に掛けられたカレンダーを指差して言う。
「『しゃっこう』だ。暦注の六輝の一。大凶の日で、午の刻のみを吉とする。公事・契約・訴訟などには凶という日だ。さらに赤は血や火を連想するため、怪我にも注意しなければならない。勘違いしている者が多いが、赤口は決して午の刻、すなわち正午を中心にして良い日というわけではなく……」
「ストップストップ! わかりました! とにかくあまりいい日ではないということですね?」
「……まぁ簡単に言えばそういうことだ。特に祝いごとに関してはな」
あそこでミノリが止めに入らなければ、あのまま何時間でも語り続けていただろう。ひとまず赤口に関する講義が終了し、ミノリはほっと一息つく。
しかしこのめでたい日になんてこと言うんだこの人は。
そう思うが、やはりそんなところが彼らしかった。気を取り直してミノリは尋ねる。
「でもそれとは別に、もっとお祝いするようないいことがあるでしょう?」
「だから今日は祝いごとに関しては……」
「わーっ! それはわかりましたって! そうじゃなくて、何かこう、思わず浮かれ気分になっちゃうような……」
わたわたと手を動かし、「浮かれ気分」を体で表現する。西崎はしばらく考え込むと、思い出したように顔を上げた。
「ああ」
「思い出しましたか!?」
「今日はフレデリック・ダグラスの誕生日だったな」
「は? フレ……グランス?」
そりゃ香水だろ、と心の中でセルフツッコミ。
そんなミノリにまたため息をつくと、西崎は再び講義を開始した。
「フレデリック・ダグラス。アメリカの奴隷解放運動家だ。ハイチのアメリカ公使を務めた政治家でもあるな。それ以外にも著述家・ジャーナリスト・演説家でもある。彼自身、黒人奴隷の身分に生まれ、奴隷制を禁止していたマサチューセッツ州へ逃れて自由の身となった。……ああ、ちょうど肖像画があったはずだ」
そう言って棚から分厚い本を取り出し、パラパラとページをめくる。そしてミノリの目の前に差し出した。
西崎の示す先には、白黒で印刷された肖像画があった。背広を着込み、妙にもっさりした髪を七三分けにした男性。
へぇ、この人が。などと思う間もなく西崎は続ける。
「彼の著書はいくつかあるが、中でも特に有名なのは……」
「わーわーっ! ストップ! わかりました、わかりましたってば!」
ミノリに遮られ、西崎は不満そうな顔をする。しかしそれ以上説明を続けようとはしなかった。
さすが世界史教師、その知識はだてじゃない。下手な発言は控えよう。ミノリはそう心に誓う。
けれど悲しいかな恋は盲目。ミノリにとってはそんなうんちく垂れ流しなところも、「知的」という一長所にカテゴライズされてしまうのだ。
時間があるのなら、彼の気が済むまで話を聞いていたい。しかし今は他にやるべきことがある。すっかり敵のペースに乗せられてしまっていたけれど、ここからミノリの反撃開始だ。
「じゃあもう私から言っちゃいますけどね、今日はバレンタインですよ。ヴァレンタインデー!」
頭の「ヴァ」の発音に力を入れ、ミノリはそう言って迫る。西崎は三度目のため息をついた。
ため息をつくと幸せが逃げる。もしそれが本当だとしたら、西崎の幸せはとっくの昔にすっからかんになっているはずだ。ミノリと話すたびにこの調子なのだから。
「……それで? それがどうかしたのか?」
「暦にもアメリカ史にもお詳しいコースケさんですから、当然それがどんなことを行う日かはご存知ですよねぇ?」
「女が男にチョコレートを渡して、製菓会社は大儲けーって日だろ」
「いや、製菓会社のくだりは知りませんけどね。まぁその通りです」
ミノリは腕を組み、西崎の周りを行ったり来たりしながら続ける。
「女の子たち、今日一日ずーっとそわそわしっぱなしでしたね」
「そうだな。浮ついた様子で、授業にもまったく身が入っていない。受験生にあるまじき行為だ」
「ですよね。けしからんですよね。校則違反のチョコレートまで持ち込んじゃって」
「ああ。毎年言っているのに懲りずにこそこそと……」
西崎に背を向け、ミノリはにんまりと笑う。
よしよし、こちらのペースになってきた。あと一押しだ。
「やっぱり見つかったら即没収っていうのは本当なんですか?」
「当然だ。一週間も前からそう言ってあっただろう?」
かかった! 敵は城を明け渡したも同然。連戦連勝の記録もここで打ち止めだ。
ピタッと足を止め、ミノリはくるりと西崎に向き直った。明らかに何か企んでいるその微笑みに、西崎の頭にそこはかとなく嫌な予感がよぎる。ほぼ確信に近い予感だ。
まずい、地雷を踏んだか。
しかし時すでに遅し。敵武将ミノリは天守閣にまで攻め込んでいた。
「私も持ってきちゃったんですよねぇ」
その言葉と共に、ついにミノリがカバンの中から最終兵器を取り出した。
「これ、なんだかわかります?」
両手で“それ”を構え、じりじりとにじり寄る。もちろん照準は西崎にロックオン。西崎は、おそらく辞世の句になるであろうその一言を漏らした。
「チョコレート……」
なんて間抜けな最期の言葉なんだろう。
ミノリの唇が最高潮に吊り上がり、とうとうとどめの一撃が発せられた。
「没収ですよね? コースケさんっ」
喉元に刃を突きつけられたも同然だった。ミノリはさらに追い討ちを掛ける。
「手作りなんですよ、これ。昨日一晩中かけて作ったんです。いけませんよねぇ、仮にも受験生がそんなことにうつつを抜かしてちゃ」
兵器というにはあまりにも可愛らしくラッピングされた箱一つに、西崎は降伏寸前にまで追い詰められる。
しかしそこは難攻不落とまで謳われたこの男。そう簡単に白旗を上げるわけもなかった。
「そういうのは風紀指導の河上先生の仕事じゃないのか?」
通称・風紀の河上。女子のスカート丈に関しては、ミリ単位で計測できる驚異的な目を持ったお局教師。女生徒の天敵だ。
「なんで女の人に渡さなくちゃならないんですか」
「そういうの、今流行ってるんだろう? 友達同士で交換ってヤツ」
「コースケさん、一応そういうことは知ってるんですね」
「何年教師やってると思ってるんだ」
「そういうのは定年間近のベテラン教師が言う台詞だと思いますけど」
口の減らない奴だ。こういうのが将来風紀の河上みたいな女になるんじゃないのか?
先輩教師に対してものすごく失礼なことを思いつつ、西崎はこめかみを押さえて文字通り頭を抱えた。横目でちらっと窺うと、ミノリはいまだ満面の笑みでチョコレートを差し出している。西崎が受け取らない限り、何時間でもそうしているつもりなのだろう。
とうとう西崎は負けを認めた。
「……わかった。それは没収だ」
途端にミノリが飛び跳ねて喜んだ。慌てて西崎が念を押す。
「いいか? 没収だぞ、没収。取り上げるんだ。それ以上の意味は一ミクロンたりともないんだからな!」
「それじゃあ〇.一ミクロンはあるかもしれないってことですねっ」
「なんでお前はそうなんだ……。じゃあ百パーセント! 百パーセントないからな!」
その言葉に、ミノリの動きがピタリと止まった。
お、さすがに百パーセントには反論できないか?
しかしミノリはチッチッチと人差し指を振って言った。
「この世に“絶対”というものがないように、百パーセントもまた存在しないのだよ、コースケくん」
――駄目だ。今回は完全に呑まれた。満場一致の完敗だった。
西崎が脱力したのと同時に、試合終了を告げるかのように下校の音楽が流れ出した。
「あーあーほら、生徒は帰る時間だ。校舎閉められる前にとっとと帰れよ」
「ふっふっふ〜。やーっと私の一勝ですね?」
ミノリは得意げにそう告げる。しかし、西崎は最後の最後で一矢報いた。
「けどなぁ岡本。俺は教師、お前は生徒だ。その時点で相手にもなってない。ここが闘技場だとしたら……岡本、はっきり言って、お前はリングの外だ」
その言葉に、ミノリは心外そうな顔をする。
「それじゃあどうやったら同じリングに立てるんですか?」
「少なくとも、お前が制服着てるうちは無理だな」
「それはつまり、高校を卒業したら相手にしてもらえるってことですね?」
「まぁ……考えとくよ。ただし浪人生とかフリーターとか、そんな情けない肩書きの奴との試合は放棄だからな」
それを聞き、ミノリの表情が一転した。何かを決意したような、自信に満ち溢れた顔。そういう表情もできるのかと、西崎は思わず感心してしまった。
「大学受かれよ、受験生」
たった一言だったが、西崎にとってはこれ以上ないくらいの敵へのサービスだった。同時に、ミノリにとってもこれ以上ないくらいの殺し文句だ。
目を輝かせ、ミノリは大きくうなづいた。
「はい! もちろんですよ、コースケさん!」
「西崎先生だ!」
「えっへへ〜。それじゃあまた明日っ」
嵐が去った。途端に部屋の中が静まり返る。
「また明日、か」
二人の戦いは当分終わりそうにない。