彼と彼女の七夕の夜 【生徒×生徒 編】

 七日七日。
 その日、空の彼方にいる一組の恋人は、年に一度だけ会うことを許されるそうで。
 そんなロマンチックな物語が、彼女にほんの気まぐれを起こさせたのかもしれない。


「……もしもし」
 夕方の六時。帰宅ラッシュで駅前は混み合っていた。
「私だけど。今暇? 駅前にいるんだけど……うん、そう。別に嫌ならいいけど。……わかった、じゃあ待ってるね」
 そう言って携帯を切ると、アサミは大きく深呼吸をした。
 たぶん、今ものすごく顔が赤い。これだけの喧騒の中でも、心臓が大きな音を立てているのがはっきりと聞こえる。それも、尋常なリズムではない。
 思えば、自分から誘ったのはこれが初めてだ。ケイゴの奴、かなり浮かれていた。飛び跳ねて喜んでいる様子が、電話越しの声だけで目に浮かぶようだった。
 ――ほんの気まぐれだ。
 別に会いたいとか、話がしたいとか、そんな大した理由があったわけではなく。ただ単に今日些細な出来事があったから、あいつ呼んでみようかなーくらいのノリで。そう、ちょっとした気まぐれにすぎない。
 自分に言いわけするように心の中で呟くと、アサミはカバンの中にある細い紙切れに目をやった。

 十五分後、改札口に見慣れた人影が現れた。
 予想以上に速い。今にもスキップし出さんばかりの軽い足取りで、その人物はこちらへ駆け寄ってきた。その顔は、満面の笑み。
「アッサミちゃーん!!」
 周りの目も触れず、大きく手を振って名前を呼ぶケイゴにアサミは思わず面食らう。
「ちょっとやめてよ! 恥かしいでしょ!」
「だってだってだって、アサミちゃんからのお誘いだよ!? これを喜ばずしてどうするんですか!」
「……ただちょっと近くまで来たから、ついでに夕食でもどうかと思っただけです」
 そっけなくそう言い、アサミはさっさと歩き出す。ケイゴは慌てて隣に並び、また嬉しそうに笑った。
「それが嬉しいんだって!」
 それから五分ほど歩いて、アサミの足が止まった。
「ここでいい?」
 視線の先を追った途端、ケイゴの表情が固まった。思わず心の中で蛙が轢き潰されたような声を出す。ぐえ。
 忘れるはずもない。ここは、最初にアサミと野栄リョウなる男を見かけた居酒屋だ。思い出しても腹が立つ。同じ大学の同じサークルだからって、余裕かましたあの笑顔。
 ケイゴは眉をしかめると、アサミの手を取ってすたすたと歩き出した。
「ここ混んでるし、他の店にしよう。俺いい所知ってるんだ」
「え? ちょ、ちょっと……」
 戸惑うアサミを強引に引っ張り、ケイゴは忌々しい現場をあとにした。
 それからまた三分ほど歩き、今度はケイゴの足が止まる。
「ここにしよう!」
 視線の先を追って固まったのは、アサミの方だった。
「……ここ?」
 夕食時、家族や学生で賑わうファミレスチェーン店。色気もそっけもあったもんじゃない。ケイゴの言う「いい所」がこれなのか。
「ダメ?」
 半ば呆れつつも、なんだかケイゴらしいなぁと思い、アサミは答えた。
「ううん。もうお腹空いたし、どこでもいいよ」
「よかったー。じゃ、入ろ入ろ」
 ケイゴはほっとしたように笑うと、アサミの手を取り店内に入った。
 ――いつからだろう。こうやって、手を繋ぐのが自然になったのは。
 アサミはふと、そんなことを思った。

 たわいもない会話をしながらの食事。そして、アサミの頼んだ柚子シャーベットが運ばれてくると、ケイゴは改めて嬉しそうに言った。
「でもアサミちゃんから誘ってくれるなんてねー。雨でも降るんじゃない?」
「やめてよ。せっかくの天の川が見えなくなったらどうすんの」
「天の川?」
 アサミの言葉に、ケイゴは一瞬きょとんとする。しかしすぐにポンと手を叩いた。
「ああ! 七夕!」
 そう言うと、にこにこしながらアサミの顔を覗き込んだ。
「な、何よ」
「いやぁ、そーんなロマンチックな日に誘ってもらえるとはね〜」
「…………」
 アサミはスプーンをくわえたまま言葉に詰まり、思わず顔をそらした。そして呟く。
「ねぇ、七夕の話って知ってる?」
「織姫と彦星の?」
「そう」
「知ってるよー」
 ケイゴは腕を組み、得意げに語り出す。
「昔々、機織の織姫と、牛飼いの彦星がいました。二人はたいそう愛し合っていましたが、織姫の父親は、そんな二人の仲を認めようとはしませんでした。そして二人の間に天の川を作り、会えないようにしてしまったのです。
『おお彦星、あなたはどうして彦星なの?』 『それはね織姫……」
「混ざってる。シェイクスピアの悲劇と混ざってるから」
 ぺしっとケイゴの頭を叩くと、アサミは溜息をついた。
「全然違います。彦星を織姫の結婚相手に選んだのは天帝。織姫のお父さんなんだから」
「え? 親公認? 身分違いの切ないラブストーリーじゃないの?」
「全然違います。二人とも元々は働き者だったのに、恋愛にかまけて仕事をしなくなったから、天帝が仕方なく二人を引き裂いたの。ラブストーリーじゃなくて、ちゃんと仕事をしなさいよっていう教訓なんだから」
「そうなんだぁ」
 アサミの説明を聞き、ケイゴは心底感心したように頷いた。どうやらボケでもなんでもなく、本当に話の筋を勘違いしていたらしい。
 しかし、ケイゴは思い出したように付け加えた。
「安心して。俺、家庭と仕事を両立できる男だから!」
 ビシッと親指を立てる。アサミは再び溜息をついた。
「なんのアピールよそれ……」
 シャーベットを食べ終えると、アサミはカバンの中をごそごそと漁り出した。そして、細長い紙切れを二枚取り出す。ケイゴはそれを見て首を傾げた。
「短冊?」
「そう。今日、保育実習で幼稚園の七夕の飾りつけを手伝ってきたの。で、あまったのを貰ってきたんだけど……」
「そっかー。アサミちゃん、保育科だったっけ。保母さんのアサミちゃん……いいなぁ、俺も子供に戻りたいなぁ」
「……ねぇ、ちょっと」
「貸して貸して! よっし、じゃあ願いごと書こうよ。七夕っぽくていいねー」
 返事も聞かず、ケイゴはアサミの手から短冊を一枚抜き取った。そしてテーブルに置かれていたボールペンを取り、さっそく短冊に何やら書き始める。途中で手を止めると顔を上げ、ぽかんとしているアサミに言った。
「ほら、アサミちゃんも書く!」
「う、うん」
 仕方なくアサミもペンを取り、短冊に向かった。
 しかし、何を書けばいいものか。ケイゴは迷わず書いているようだけれど、アサミにはとっさに願いごとが浮かばない。代わりに、幼稚園の子供たちが書いていたことを思い返した。

 やきゅうせんしゅになれますように
 じてんしゃにのれるようになれますように
 ゆうくんとけっこんできますように

 どれもよこしまな思いのない、まっすぐな願いごとだった。自分にもその素直さをわけて欲しいな、なんて思う。
 アサミはしばらく考え込んだあとペンを動かした。
「できたー!」
 ケイゴが書き終わり、伸びをする。アサミもペンを置いて顔を上げた。
「アサミちゃん、なんて書いたの?」
「な、なんでもいいでしょ」
「ふーん? んじゃ、あとはこれを笹に結んで……」
「「あ。」」
 二人の声が重なる。笹の木なんて、ここにはない。
「うわー、せっかく書いたのに。これじゃあ願いごと叶わないじゃん」
 ケイゴはがっくりと肩を落とした。しかし、アサミは内心ほっとする。短冊に書いた内容がケイゴに知られずに済むから。
 アサミが小さく息をつくと、ケイゴが突然自分の短冊を差し出した。
「はい!」
「はいって……何?」
「たぶん、織姫と彦星にお願いするより、直接アサミちゃんに渡した方が早いと思って」
 アサミは怪訝に思いながら短冊に目を落とす。

「アサミちゃんとずっと一緒にいられますように。ケイゴ」

 そこには、ケイゴが言った通りの文が書かれていた。少し角ばったケイゴの字。
「ね? アサミちゃんに頼んだ方が早いでしょ?」
「はっ……はっずかしい奴……!!」
 アサミは赤面してそう呟くが、ケイゴは嬉しそうに笑っていた。しかし、「あ」と声を上げる。
「これで俺の願いごとは叶うとしても」
「まだ叶うって決まったわけじゃ……!」
「アサミちゃんのはどうしようか。うーん、神社かどっかの木に結んでくる?」
「おみくじじゃないんだから……」
「じゃあ家の軒下に」
「それはてるてる坊主」
 アサミは大きく溜息をつくと、二枚の短冊をカバンにしまった。そしてケイゴを置いて席を立つ。
「別にいいよ。ケイゴの願いごとが叶えば私のも叶うから」
 それだけ言って、レジへと向かっていった。
 一人取り残されたケイゴは、アサミの背中をぽかんと眺めていた。しかし、すぐに我に返って目を輝かせる。そして慌ててアサミのあとを追った。
「ねぇねぇ! それってつまり、アサミちゃんの願いごとも……!」
「あーうるさいうるさい」
「ねぇ! 短冊見せて! アサミちゃんの短冊!」
「あー聞こえない聞こえない」
「アサミちゃーん!!」
 さっさと会計を済ませて店を出るアサミの顔は、これ以上ないくらい真っ赤だった。都会の空の天の川と同じく、それをケイゴが見ることはできなかったけれど。

 この願いごとが叶うかどうかは、今後の二人次第。



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