彼と彼女の七夕の夜 【教師×生徒 編】

 七日七日。
 その日、空の彼方にいる一組の恋人は、年に一度だけ会うことを許されるそうで。
 そんなロマンチックな物語が、彼にほんの気まぐれを起こさせたのかもしれない。


「……もしもし」
 夜の九時。ちょうど仕事が一段落ついたところだった。
「俺だけど」
 ――ほんの気まぐれだ。
 別に声が聞きたいとか、話がしたいとか、そんな大した理由があったわけではなく。ただ単に最近少し連絡が途絶えていたから、アイツ生きてるかなーくらいのノリで。そう、ちょっとした気まぐれにすぎない。
 自分に言いわけするように心の中で呟くと、西崎は煙草に火を点けた。
『もしもし?』
 電話越しの声に、西崎はわずかに反応する。そして、しばらく間をおいてから言った。
「お前誰だ?」
 それは明らかに自分が電話を掛けた相手とは別人だった。しかし、聞き覚えのない声の主は楽しそうに話し出す。
『コースケさんでしょ! 世界史教師の西崎コースケ!』
「……そうだけど」
『いつもミノリから話を聞いてます。あ、わたし、ミノリの友人の仲原サトコといいます』
「はぁ……。で、岡本は?」
『ああ、ミノリなら……』
 サトコの声が遠ざかったと思ったら、突然きゃははははという甲高い笑い声が届いた。西崎の口から煙草が落ちそうになる。それは紛れもなくミノリの声だった。
『……というわけです』
「どういうわけだよ」
『いえ、今サークルの飲み会の最中なんですけどね。ミノリの奴、ちょーっと飲みすぎちゃったみたいで』
 状況説明するサトコの後ろから、店内の喧騒に混じってミノリの一際ハイテンションな声が聞こえてくる。はしゃいでいる様子が目に浮かぶようだ。どうやら、酔うと笑い上戸になるタイプらしい。西崎はため息をついた。
「わかった。じゃあまた掛け直す」
『待ってください!』
 電話を切ろうとした西崎をサトコがすかさず止める。
『わたし、前からあなたに言いたいことがあったんですけど』
 先程とは打って変わり、サトコは厳しい口調で言った。
「……なんだよ」
『コースケさん、ミノリのことどう思ってるんですか?』
「はぁ?」
『近頃、全然連絡がないって聞いてます。いえ、それ以前にコースケさんから電話することなんて、ほとんどないそうじゃないですか。ミノリ、最近全然元気なくて……もう見てらんないくらい落ち込んでました。今日だってヤケになって飲んだから、あんなふうに悪酔いしちゃって。全部コースケさんのせいなんですからね!』
 サトコの言っていることはすべて事実だった。けれど、見ず知らずの相手に、それも年下の小娘に説教され、西崎はとてつもなく理不尽な気分になる。しかし、サトコはそんなことなどお構いなしでさらに続ける。
『あなたがどんなに美形でインテリか知りませんけどね、ミノリを泣かす奴は、このわたしが許しませんから!』
 こいつも酔ってるんじゃないだろうか。
 西崎は思わずそう思ってしまった。ミノリが大学でこんな友人を作っていたとは……。ますます厄介なことになりそうだ。
 しかし、サトコの言葉に思い当たる節がないわけでもない。これ以上絡まれないためにも、西崎はひとまず素直に謝った。
「わかったよ。悪かった。これからは気をつける」
『わかってくれればいいんです。わたしもミノリの幸せを願っていますから。あ、今ミノリに代わりますね』
「え? オイ待て、別に代わらなくて――」
 西崎が言い終わるより先に、受話器の向こうからミノリを呼ぶサトコの声が聞こえた。そして雑音のあと、突然耳元に呂律の回らない声が届く。
『はぁーい、おでんわかわりました。おかもとみのりでぇーす』
「……お前、未成年のくせに何酔っ払ってるんだ」
『あ、コースケさんですかぁ? えっへへ、大学生の飲酒はちがいほうけんなんですよぉー』
「何が治外法権だ……。言葉の意味もわかっていないくせに」
 西崎はため息をつくが、受話器の向こうからはミノリのへろへろした笑い声が聞こえてくるばかり。しかし、突然ミノリの口調が一転した。
『そんなことよりコースケさん! なんで最近連絡してくれないんですか!』
「それは……」
『どーせあのカナエとかいう年増女とちちくり合ってるんでしょう!』
「ちち……ッ!」
 思わず西崎は煙草の煙にむせ返る。
「お前なんてこと言うんだ!」
『きぃ〜! この浮気者っ! もう実家に帰らせていただきます!』
 ダメだ、完全に酔っている。
 西崎は頭を抱えた。このまま電話を切ってしまおうか。思わずそんなことを考える。しかし、今度は突然泣き声が聞こえ、西崎はぎょっとした。
『コースケさんのばかぁー! 私のことなんてどうでもいいんだぁー!』
「お前、店の中で泣くなよ! 恥かしいだろ!」
『うわぁー! コースケさんの人でなしー! 冷徹眼鏡ー! 世界史の鬼ー!』
 もう手のつけようがない。
 西崎は頭をかきむしった。遠くの方で、ミノリをなだめるサトコの声が聞こえる。
『ミノリ、とりあえずお店出よう。ね?』
『うわぁー! コースケさんのおたんこなすー! 三十路寸前ー! ゴールド免許ー!』
『うんうん。そうだね、コースケさんが悪いんだよね』
『うわぁー! コースケさんのどてかぼちゃー! 体育祭の時のジャージ姿似合わなすぎなんじゃぼけぇー!』
『うんうん。わかったから、ほら落ち着いて』
 むしろ泣きたいのは西崎の方だった。なんで公衆の面前で、あることないこと言い触らされなければならないんだ。今日電話したのが間違いだったと激しく後悔する。
 やがて雑音が減り、どうやらミノリは店から出たようだった。サトコのおかげで泣き止んできた様子だ。小さくすすり泣く声が聞こえる。
『ミノリ、コースケさんには私から言っておくから。もう切るね』
『待って! ……だいじょぶ。もう大丈夫だから』
 そう言って再び電話に出たミノリの声は、だいぶ落ち着きを取り戻していたようだった。
『……すみません。ちょっと錯乱していたようです』
「ああ、だいぶ錯乱していたな」
『…………』
「…………」
 お互い無言のまましばらく時間が過ぎる。灰皿に置かれた煙草は、もうほとんど灰になっていた。
 やがて、ミノリがぽつりと呟いた。

『コースケさん、寂しいです』

 たぶん、それが本当の本音だったのだろう。
 ゴールデンウィーク以来、二人は一度も会っていない。それでもミノリは弱音を吐くことはなかった。けれどきっと、寂しい思いをしていたのだろう。酒がきっかけで、溜まっていたものが爆発してしまったのだ。
 その責任は自分にある。西崎は少し反省した。
「悪かったよ」
『……コースケさん、会いたいです』
 西崎ははっとする。けれど、自分も会いたい、なんて死んでも口にできない。
「あのな。お前が俺に会えないってことは、俺もお前に会えないってことなんだぞ」
『……コースケさん、言ってる意味がわかりません』
「俺もわかんねぇよ……」
 自分でも何を伝えたいのかわからなくなり、そもそもどうして電話したんだろうなどと根本的な疑問が今さら浮かび、西崎は思わずうなだれた。
 そしてまた、しばらく沈黙の時間が流れる。最初に口を開いたのは、やはりミノリの方だった。
『コースケさん……天の川、見えません』
 その言葉で思い出す。そういえば今日は七夕だった。
 西崎も窓の外に目をやる。空にはいくつか星が輝いていたが、天の川らしきものは見えない。この場所でも見えないのだから、ミノリがいる都会の明るすぎる空では、きっと星すら見えていないだろう。
『これじゃあ織姫と彦星、会えませんね。私たちと一緒です』
 ミノリは寂しげに呟いた。西崎は、だいぶ短くなった煙草の火を消す。
「馬鹿、全然違うだろ」
『……そうかな……』
「ああ、まったく違う。アイツらは年に一度しか会えないが、俺たちは会おうと思えばいつでも会える」
『それじゃあ今会いたいです! 今! 今すぐここに来てくださいよ!』
 ミノリは携帯にすがり、切羽詰った声で叫ぶように言った。しかし、西崎は首を振る。
「無理だよ。そんなふうに会いたい時にいつも会っていたら、仕事をする暇なんてなくなる。お前だって、そんなこともわからないような子供じゃないだろ?」
『……でも……』
「8月になったら戻ってくるんだろ? すぐじゃないか。あーあ、またうるさくなる」
 西崎はそう言うと、小さく息を吐いた。そして、それまでよりも少しだけ優しい声で告げる。
「もっと電話するようにするから」
 その言葉を聞き、ミノリの声がわずかに明るくなった。
『ホントですか?』
「ああ」
『絶対ですよ?』
「ああ」
『約束ですからね!』
「ああ、約束する」
 いつもだったら、ミノリがこんなふうにしつこく繰り返せば、返ってくるのは投げやりな返事ばかり。けれどこの時だけは、西崎はただ穏やかな声で頷いていた。
『メールの返事もすぐ返してくれますか?』
「ああ」
『カナエさんとは本当になんにもないんですね?』
「ああ」
『じゃあ今度帰った時はスペシャルデラックスジャンボパフェの三段アイス乗せ、トッピングに白玉とチョコソースがけでおごってくださいね』
「ああ……ああ!? お前、それいくらすると思って」
『おごってくださいね?』
「……ああ、わかったよ」
『…………』
「…………」

『……コースケさん、好きです』
「ああ、知ってる」

 次の日、ミノリがこのことをまったく覚えていなかったのはお約束。
 そしてその事実を知り、西崎は内心胸を撫で下ろすのだった。



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