碧乃さんの冥探偵日誌

依頼その2の5


 506号室。表札に「染井」と書かれたドアのインターホンを押す。最初の聞き込みはこの家の男の子からだ。
 吉野さんの話によると、男の子はマンションの前で何者かに突き飛ばされて怪我をしたらしい。怪我といっても全治1週間程度の擦り傷と打撲なのだが、本人が言うには転んだのではなく、明らかに“突き飛ばされた”ということだ。もう少し詳しい話を聞くためにやって来たのだが――
「誰も出ませんね。留守かなぁ」
 もう1度インターホンを鳴らしてみるが、返事はなし。どうやら誰もいないようだ。
 がっかりして肩を落とした時、背後から声を掛けられた。
「うちに何か用?」
 振り向くと、そこには男の子が立っていた。先生がはっとして尋ねる。
「もしかして君、染井 翔太くん?」
「そうだけど……。父さんと母さんなら出掛けてるよ」
 男の子――翔太くんは疑い深い視線を向けて言う。私は警戒を解こうと笑顔で話しかけた。
「私たち、ご両親じゃなくて翔太くんにお話があるの。少しいいかな?」
「おれに? あんたたち誰?」
 翔太くんはますます胡散臭い顔をする。確か小学6年生、ちょうど生意気盛りの頃だ。けれどそんな無礼な態度にカチンとすることもなく、先生は翔太くんに名刺を差し出した。
「僕たちはこういう者です」
「高橋探偵事務所……たんてい〜!?」
 名刺を目にした翔太くんが素っ頓狂な声を上げる。そして一言、
「本物?」
 うん。ごく自然な反応。
 正直探偵なんて、一般人からしてみれば、テレビや小説の中だけの職業だ。実際目の前に探偵を名乗る人物が現れたとしても、この上なく怪しいだけ。よっぽど占い師や産業スパイの方がまだ現実味がある。
 一応ね、と先生は笑って答える。翔太くんはひとまず納得したようだった。
「ふぅん……。それで? 探偵がおれになんの用?」
「今調査をしていることがあるんだけど、君が怪我をした時のことについて話を聞かせて欲しいんだ」
「調査って……もしかしてあの桜のこと? まさかあんな噂信じてるか!?」
「うーん、それを今調べてるところなんだよ」
「はぁ〜……探偵ってそんなことまで調べるんだ……」
 翔太くんはそう言って、感心したような呆れたような顔をした。そしてポケットから鍵を取り出し、ドアを開ける。
「とりあえず立ち話もなんだし、上がれば? 本当に探偵なのかどうかはともかくとして、少なくとも変なセールスには見えないし」
 思わず納得。先生って押しが弱いから、セールスマンには絶対向いていないと思う。それにどちらかといえば、騙す方より騙される方だ。
 お言葉に甘えてお邪魔させていただくと、ご丁寧にもお茶が差し出された。態度は生意気だけれど、それなりに礼儀はわきまえているようだ。
「で? 聞きたいことって?」
 翔太くんに促され、先生が手帳を取り出す。ここからは先生の質問タイムだ。私は大人しく話を聞いているとしよう。
「それじゃあ、まずその時の状況について教えてもらえるかな。怪我をしたのはいつ?」
「5日前だよ。朝学校に行く時」
「登校途中ね……。マンションの前って聞いたけど、具体的にはどのへんだったのかな」
「すぐ前の横断歩道だよ」
「横断歩道……。話によると突き飛ばされたらしいけど、それは本当?」
「本当だよ。疑ってんのか? 後ろに倒れたんだ。普通転んだら前に倒れるもんだろ?」
 その言葉に先生がわずかに反応した。ペンを走らせていた手を止め、真剣な顔つきになる。
「後ろに倒れたってことは、尻餅をついたってこと?」
「ああ。尻餅っつーか、吹っ飛ばされたに近いけどな」
「つまりそれは、後ろから突き飛ばされたんじゃなくて、前から突き飛ばされたってことだよね」
「あー……そういうことになるな」
「でも、その時周りには誰もいなかった」
「そう」
 ――前から突き飛ばされた。
 それは意外な事実だった。「突き飛ばされた」と聞けば、後ろから背中を押されたと考えるのが普通だ。でも翔太くんの話によると、“前”から“吹っ飛ばされた”らしい。しかも、その場には誰もいなかった。
 それが本当だとすると、とても人間の仕業とは思えない。少なくとも、透明人間なんてものがいない限り。
「例えばそれに、悪意みたいなものは感じなかったかな。殺そうとしているみたいだったとか」
「よくわかんないけど……殺そうとしたとか、そういうんじゃないと思う。むしろ助かったって感じだし」
「助かった? それ、どういうこと?」
 再び翔太くんの口から思いがけない言葉が出る。突き飛ばされておきながら、「助かった」? 思わず私も身を乗り出してしまう。
「あの日は寝坊してすげー慌ててたんだよ。それで急いで家を飛び出して、横断歩道もダッシュで渡って……で、突き飛ばされたんだけど。でもその瞬間、目の前を車が通ってさ。よく見たら赤信号だったんだよな」
「つまり、突き飛ばされていなかったら車に轢かれてた」
「うん。車に轢かれてたら、擦り傷どころじゃないだろ?」
「…………」
 私も先生も考え込んでしまう。
 もし桜の木が犯人だとしたら、自分が切られてしまうことに怒っているはずだ。呪いとまで言われているのに、それが人を助けるようなことをするだろうか?

 翔太くんの家をあとにすると、今度は8階に向かった。次は突然ガラスが割れたというお宅への聞き込みだ。
 吉野さんから聞いた話はこう。
 住人が外出しようと部屋を出た時、ガラスの割れる音を耳にした。何事かと戻ってみると、なんと現場は自分の部屋。しかし、鍵が掛けてあった部屋の中には当然誰もいないし、石などのようなものが投げ込まれた形跡もない。つまりは原因不明ということで、住民からは桜の呪いでは、と囁かれている。
 それが終わったら、今度はマンションの前で起きた事故についての調査だ。なんでも男性が車で電柱に激突したらしい。
 マンションの前の通りは見通しがよく、それほど車の量も多くない。それは実際に目にしたのでよくわかった。翔太くんのように赤信号で渡ろうとしたのならともかく、普通は事故なんて起きる場所ではないだろう。そのため、これまた桜の呪いでは、と囁かれているのだ。
 この事故に関してはしっかりと怪我人が出ている。さすがに翔太くんのように、激突して「助かった」、なんてことはないだろう。恐らく翔太くんの件は、結果的に車に轢かれずに済んだだけだ。そう考えるとやはり、これは桜の木の呪いなのだろうか。

 私も先生も、この段階ではそう思っていた。けれどこのあとの聞き込みで、これが単なる呪いではないことがわかったのだ。

*  *  *

 そして次の日。
 学校が終わると同時に事務所に向かうと、私の顔を見るや否や、先生が言った。
「下で如月さんと会わなかった?」
「いえ、会ってませんけど……。なる子ちゃん、来てたんですか?」
「ついさっきね。ちょうど入れ違いになったのかな? これを置いて行ったんだけど」
 そう言って手渡されたのは、何枚かの写真。見ると、どうやら昨日なる子ちゃんが撮った桜の木のようだ。しかし、彼女が写したとなれば、当然ただの写真ではなく……
「うわわ、見事に心霊写真じゃないですか」
 その写真にはすべて、桜の木を覆うようにオレンジ色のもやが掛かっていた。
 どうやら彼女の心霊写真が撮れるという能力は本物のようだ。うーむ、ちょっと羨ましい。
「オレンジ色ってことは、だいぶお怒りのようですね。赤に近い色ほど怒りを表していますから」
「あはは、如月さんもまったく同じことを言ってたよ」
 さすが都市研会長。一通りオカルト知識は持ち合わせているようだ。感心感心。
「それで、なる子ちゃんはどこへ?」
「それなんだけど……」
 先生が言いよどむ。これはなんだか嫌な予感。
「『悪霊を捕まえてやるー!!』って、叫んで出ていったよ」
「……桜の木の所へ?」
「桜の木の所へ」
「…………」
「…………」
 なる子ちゃんに出会って以来、最大級の嫌な予感。どうやらそれは先生も同じようだ。
「放っておくわけには……いきませんよねぇ、やっぱり」
「放っておいたら、あとが怖い気がするなぁ」
「右に同じ。でも今から目にする光景も、相当恐ろしい気がするんですけど」
「……確かに」
“放っておいた場合”と、“今から目にする光景”を天秤にかける。……ほんの少しだけ“今から目にする光景”の方が上に傾いた気がした。ほぼ水平に近いのだけれど。
 私と先生は心の底からため息をつくと、重い腰を上げて事務所をあとにした。

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