碧乃さんの冥探偵日誌

依頼その4の3


「石蕗さん!? 石蕗さん!? 大変なんです! 美羽が、美羽がっ!」
 パニック状態の私とは反対に、携帯の向こうから返ってきたのはおそろしく冷静な声だった。
『…落ち着いてください。どうしたんですか』
「どうしたもこうしたも、とにかく大変なんです! 早く来てください!」
『…わかりました』
 それだけ言って電話は切れる。途端に頼みの綱がなくなった気がした。
 携帯を握り締め、視線を前に移す。そこにいるのは、カッターを手にじりじりと迫りくる、友人の姿をした『誰か』。無機質な表情でこちらを見下ろしている。
 頼むから早く来てくれ石蕗さん!!
 私の切なる願いが通じたのか、1分もしないうちに駆け足でアパートの階段を昇ってくる音が聞こえた。足音は次第に近づき、玄関の前で止まる。そして――

 ピーンポーン

 緊張感の欠片もないチャイム音が部屋に響いた。
 思わずガクンと脱力する。石蕗さんだ。ドアの向こうに立っているのは間違いなく石蕗さんだ。
 早く来いとは言ったものの、ドアには当然のことながら鍵が掛かっている。確かにこんな深夜に「開けろー!」なんて叫んでドンドン叩こうものなら近所迷惑極まりない。でも、だからってピンポンはないだろう、ピンポンは。どこまで律儀な人なんだ。
 そう呆れる私に、突然影が覆いかぶさった。
 はっとして顔を上げる。いつの間にか美羽がすぐ目の前に立っていた。ゆらり、と右手を持ち上げた瞬間、握られたカッターの刃が鈍く光った。美羽はなんのためらいもなく、そのまま私目掛けてその手を振り下ろす。
「うわっ!!」
 ドスッという音と共に、カッターが敷布団に突き刺さった。飛び退けるのがあと1秒遅かったら、あのカッターが生えている場所は間違いなく私の顔面だっただろう。つうっと額に冷汗が流れる。
 思わず美羽の中にいる美羽ではない誰かを睨みつけた。その誰かも、光の宿らない瞳でこちらを睨み返す。空気がピリピリと張り詰めていた。――が。

 ピーンポーン

 再び鳴ったチャイムにより、緊張の糸は一気にほどけてしまった。
 ああもう。頭を抱えて立ち上がると、急いで玄関へと走った。美羽は追いかけてくるだろうか。背後を気にしながら慌ててチェーンを外す。ドアの向こうから現れたのは、いつも通りの無表情で直立している石蕗さん。けれど、その姿を目にした瞬間、私は心底ほっとしてしまった。
「石蕗さん! 美羽の様子が変なんです! まるで別人みたいで……!」
 必死に訴える私の横で、石蕗さんは丁寧に脱いだ靴を揃えていたりする。
 あ、やっぱりダメかも。私の頭に再び不安がよぎった。
「…柳原さんは」
 そう言って、石蕗さんはようやく体を起こしてこちらを向いた。
「奥です! でも、カッター持ってるから襲い掛かってくるかも――」
 言い終わるより先に石蕗さんが動いた。何の前触れもなく私の体を引き寄せる。突然抱きしめられるような形になって面食らってしまったが、石蕗さんの視線を追った先には、それ以上の衝撃があった。
 今にもカッターを振り下ろさんとしている美羽の姿。
 気配をまったく感じなかった。愕然としている私を、石蕗さんは庇うように背後へ押しやる。それを見計らったように、美羽のカッターが空を切った。ダメだ、避けきれない――!
 瞬間、思わず目をつぶってしまった。けれど、呻き声らしきものは何も聞こえてこない。私は恐る恐る目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは、美羽の手首を掴んでいる石蕗さんの姿。カッターの刃は石蕗さんの胸に届く寸前で止まっていた。石蕗さんはその手を押し返し、カッターを取り上げる。そして後ろ手にそれを差し出した。
「…芹川さん、預かっていてください」
「あっ、は、はいっ」
 慌てて私が受け取り、石蕗さんがそれを確認した一瞬の隙だった。
「…――ッ」
 石蕗さんの顔が歪む。目を離した瞬間、美羽が石蕗さんの手に噛みついたのだ。
 それはカッターで襲い掛かってきた時以上の衝撃だった。こんな獣じみた行為、美羽がするはずがない。黒く淀んだ瞳でこちらを一瞥すると、美羽は逃げるように部屋の奥へと消えていった。
「大丈夫ですか!?」
「…平気です。憑かれていますね」
 噛まれた手の甲を見て石蕗さんが呟く。そこにはくっきりと歯形が残っていた。
「憑かれてる? やっぱり美羽、何かに憑依されてるんですか!?」
「…ええ、間違いありません。おそらく――」
 そう言いかけた時、部屋からガタガタと棚を引っ掻き回すような音が届いた。今度は一体何を持ち出す気なのだろう。嫌な予感が走り、私と石蕗さんは慌てて部屋のドアを開けた。
 これで何度目だろうか。私はまたしても硬直してしまった。そこで待ち構えていたのは、大きな裁ちばさみを握り締めた美羽。もちろん刃はこちらに向けて。
 石蕗さんは腕で私を止めると、肩越しに振り返った。
「…危険ですね……。私が動きを止めます。芹川さんは下がっていてください」
「え!? 止めるって、どうやって……」
 混乱する私の視界に、はさみを振りかざす美羽の姿が映った。その瞬間、石蕗さんの指が空を切る。同時に美羽の動きがピタリと止まった。カシャン、と音を立て、その手からはさみが滑り落ちる。
 何が起こったのかと呆然とする私の耳に、石蕗さんの呟きが飛び込んだ。

「…ナウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン」

 動きが止まったのは美羽だけではなかった。――私もだ。
 思わずぽかんと立ち尽くしてしまう。何だこれ、呪文?
「…オン・キリキリ・オン・キリキリ……」
 その言葉に呼応するように、美羽の表情はどんどん苦しげになっていく。まるで見えない糸でギリギリと縛りつけられているかのようだ。
「…ナウマクサラバタタ・ギャテイヤクサラバ・ボケイヤクサラバ……」
 呪文じゃない。これは真言だ。
 そう理解したのは、さっき見た石蕗さんの指の動きが九字を切ったんだと気づいてからだった。2本の指で、横縦横縦と9回。邪悪なものを払いのける呪法だ。よく見ると、石蕗さんは指を内側にして手を組んでいる。これはいわゆる内縛印。
 ……こういう時、心底オカルトに関する知識が豊富でよかったと思う。
「あ、あの、石蕗さん……。これって、不動金縛りの法、ですよね?」
「…オン・キリウン・キャクウン……そうです。よくご存知ですね」
 石蕗さんは背を向けたまま、いたって普段と変わりない声で答えた。その間にも、美羽はもがき苦しんでいるわけだが。
 私の頭は混乱を通り越して冷静になっていた。……真っ白とも言う。
「あのー、真言を唱えている最中に申しわけないんですが……石蕗さん。なんでこんなことできるんですか?」
「…芹川さん」
 そう言って、石蕗さんはくるりと向き返る。
「…今まで黙っていましたが、実は石蕗家は、かの有名な平安時代の陰陽師・安倍晴明の」
「子孫なんですか!?」
「…いえ、その安倍晴明とライバル関係にあった、同じく陰陽師・蘆屋道満の」
「子孫なんですか!?」
「…いえ、その蘆屋道満の弟子にあたる人物の家系だと言われているんです」
「…………」
 無言の時間が流れる。
「つまりその……」
「…安倍晴明とも蘆屋道満とも血縁関係ではありません。しかし、無関係とも言いきれません」
 だから陰陽術まがいを駆使しても、なんらおかしいことはないと。そういうことですか? そういうことですか。
 私は無理やり自分にそう納得させた。そうでもしないと頭がどうにかなりそうだ。
 棒立ちしている私を見て、石蕗さんは説明終了、というようにまた美羽に向き直った。そして流れるような動作で指を組み変える。これはいわゆる外縛印。
「…ナウマクサンマンダ・バサラダンセン・ダマカラシャダソワタヤ・ウンタラタカンマン」
 仕上げの一声を唱える。その瞬間、美羽はと小さく声を漏らし、糸が切れたようにその場に倒れ込んでしまった。
 誰も何も言葉を発しないまま、再び無言の時間が流れる。石蕗さんは、いわゆる「除霊」というものをやってのけてしまったのだ。これがもしサイキックアクション小説だとしたら、1番のクライマックスシーンになったはずだろう。それなのに、この温度の低さ。なんて華のない見せ場なんだ。
 遠のいていた意識を自力で引っ張り戻し、私は慌てて美羽に駆け寄った。抱き起こしてみると、規則的な呼吸をしている。どうやら気を失っているだけのようだ。私はほっと息をついた。
「美羽はもう大丈夫なんですか?」
「…ひとまず憑依していたものは出ていきました。しかし一時的なものです。いつまた取り憑かれるかわかりません」
 石蕗さんはそう言うと、美羽をひょいっと抱きかかえた。そのままベッドまで運び、そっと横にさせる。
 美羽のヤツ、惜しいことしたなぁ。せっかく石蕗さんにお姫様抱っこしてもらったのに。
 なんてことをぼんやり考えながら、大騒動の一夜が過ぎていった。

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