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碧乃さんの冥探偵日誌

依頼その5の9


「いたたたたたた」
「情けない声出さない! 男の子でしょうが」
 包帯を巻き終え、仕上げにぺしっと一発。
「一丁上がりっ」
 そこでまた「あたっ」と情けない声を上げ、先生は手当ての終わった右手をさすった。
「ありがとう。……もうちょっと優しくやってくれると嬉しかったけど」
「柄にもないことするからですよ。拳でケンカなんて、温厚人種の先生とは一番ほど遠い行為です」
「いや別に喧嘩ってわけでは……。それにあの時は必死だったし」
「……まぁ、その点については、お礼を言いますけど」
 思わず泣きついてしまった(あ、いや、泣いてない。断じて泣いてない)あの時のことを思い出し、私は気恥ずかしくなって顔をそらした。非常時だったとはいえ、あれは、なぁ。
 まるで何事もなかったかのような先生の態度がちょっとだけ悔しい。目の前でゆる〜い笑顔を浮かべているこの人が、あの時、本当に三鷹さんを殴り飛ばしたのか疑わしく思えてきた。それこそ非常時における幻想というやつだったんじゃないだろうか。
 ……けれど、先生の手の甲には、名誉の傷がしっかりと残っているわけで。

 神社での騒動から一時間。しばらくして正午を告げるチャイムが鳴り、すべては午前中の出来事だったのだと、私はそこで初めて知った。なんとイベントが盛りだくさんの半日だったのだろう。
 あのあと佐伯さんが応援を呼び、三鷹さんはあえなく御用となった。誘拐・監禁・殺人未遂・殺人および死体遺棄容疑。ここに実際殺されかけた被害者がいるのだ。もう言い逃れはできまい。
 ちなみに急斜面を転がり落ちた三鷹さんだったけれど、奇跡的とも言うべきか、気を失っていただけで、たいした怪我はなかったそうだ。幼い命を二つも奪っておきながら、本人はかすり傷程度で済んだのかと思うと、憤りを覚えずにはいられなかった。

 ちりん、と軒下の風鈴が涼しげな音を鳴らす。それにつられるように私は縁側に移動した。
 信用ある神主が誘拐事件の犯人だとわかり、村は騒然としている。臨時集会を開き、今は丹羽さんも美千恵さんも家を空けていた。
「もしかして先生、最初から三鷹さんが犯人だってわかってたんですか?」
 隣に腰を下ろすと、先生は膝の上で頬杖をついた。
「確信は持てなかったけど、なんとなくね。誘拐だとしたら、この村の人間の仕業なんじゃないかと思ってたんだ。ほら、最初の日に言ったでしょ? 『姿ある犯人でもまったく目につかない場合がひとつある』って」
「あ……そっか。よく知る村の人間だったら、誰も怪しまないってことか」
「うん」
 そりゃあ、私も本当に神隠しだなんて思ってはいなかったけれど。
 どうやら先生とは始めから目の付け所が違っていたらしい。私みたいに犯人に捕まって初めてわかったのではなく、証言から三鷹さんが犯人だと導き出してしまった。すごい。すごいんだけど……
「わかってたならどうして教えてくれなかったんですか!」
 三鷹さんが怪しいとわかっていたなら、私だって自ら敵の本拠地に乗り込むような真似はしなかったのに。そうしたらあんな死にそうな目に遭うこともなかったのに。
「や、でもはっきり確信したのは、昨日の有線放送の内容を役場に確認しに行った時だし、むやみに犯人かもしれないなんて言ったら、碧乃君が無茶するかもしれないと思って……。結果的には、言わなくても無茶したわけなんだけど」
「あれは無茶じゃなくて巻き込まれたんですよ! 殺人事件に!」
「ごっ、ごめんごめん。僕だって、朝起きたら君がいなくなっていたのには驚いたんだよ」
 丸めていた背中を起こし、先生は慌てて言い訳をする。それでもなお食ってかかろうとする私を見て――ふっと目を細め、でも、と付け加えた。
「碧乃君なら、大丈夫だと思ってたけどね」
「…………」
 いつもだったら「当然!」と胸を張るか、「心配もしてくれなかったんですか?」と睨みつけていたところだろう。けれど、今はどちらの言葉も出てこなかった。先生の穏やかな表情からは、冗談で言ったのではないことが伝わってくる。それはたぶん、私を信頼しての言葉――

「嘘つけ、この世の終わりみたいな顔してたくせに」

 一瞬にしてその場の空気が崩れた。見ると、庭先から佐伯さんが顔を覗かせている。
「たっ、大変だ! 碧乃君がいないんだ! どうしよう僕のせいだ! どうしよう!」
 先生の真似、なのだろう。佐伯さんはそう言って慌てて見せると、くっくっと意地の悪い笑みを浮かべた。
「もうすっげーテンパっててさぁ。役場で有線のことを聞いたら、そのまま三鷹んちへ猛ダッシュしようとするんだぜ? 車の存在も忘れてさ。そんで神社に着いたら着いたで、今度はあのなっがい階段を一気に駆け上るし。芹川さんにも見せてあげたかったよ」
「さっ、佐伯!!」
 先生が真っ赤になって詰め寄ると、佐伯さんは大笑いしながら逃げるように顔を引っ込めた。垣根の向こうにいるため捕まえることもできず、先生は振り上げた拳をわなわなと震わせていた。
 ――本当になりふり構わず走ってきたんだ。
 朱鳥様について調べに行った時は、行きも帰りもへばっていたあの長い階段。それを一気に上ってきただなんて、普段の体力のなさからはとても想像できない。
「……言ったでしょう、普段は温存してるんだって」
 背中を向けたまま、先生はぽつりと漏らした。
 それはあの日、下りの階段で聞いた言葉。まさかそれも本当だとは、思わなかった。
「助手がいなくなって心配しない探偵はいません!」
 先生はヤケになったようにそう張り上げると、こちらに向き直った。そして、いつものへらりとした笑みにどこか照れくささの混じった表情で言った。
「……だから、あんまり心配させないでください。寿命が縮まるから」

「それに碧乃君がいないと僕ダメなんだよー」

 垣根ががさりと音を立て、続いてブーッと盛大な吹き出し笑い。
「佐伯!! そんなこと言ってないだろ!!」

*  *  *

「すまない」
 三鷹さんが神社から運ばれていったあと、茂さんは私に歩み寄るなり、そう言って頭を下げた。
 そもそもなぜここに茂さんがいるのかというと、役場から三鷹さんの家へ向かう途中の先生たちに遭遇したらしい。そこで私がいなくなったことを知り、真っ先に神社いると読んだのが彼だったということだ。
「あの時、俺がちゃんと引き止めていたら、あんたを危ない目に遭わせることもなかったのに」
「…………あっ!」
 忘れていた。あまりにも色々なことが起こりすぎて、すっかり忘れてしまっていた。
 私が今日、茂さんに会うのはこれで二回目だ。佐伯さんと一緒に駆けつけてきたところに鉢合わせするより前に、一度顔を合わせている。早朝、神社の階段で。
「そうだ! あんな朝早くに何してたのよ? 女の子相手に暴漢まがいなことまでしてっ」
 境内に消えた男性――今思えば、あれは三鷹さんだったのだ――を追いかけようとした私の腕を掴み、口を塞いだ人物。その瞬間、私が誘拐事件の犯人だと思い込んでしまった人物。それこそまさに、三鷹 茂その人だったのだ。
「あれは……手荒な真似して悪かった。あんたと同じだよ。親父を追いかけてたんだ」
「三鷹さんを? どうしてあなたが?」
「…………」
 茂さんは顔を曇らせ、うつむいた。言おうか言うまいか、そんな葛藤が伝わってくる。
 そうしてしばらく沈黙が続いたあと、茂さんはようやく口を開いた。上手く言葉にならないかのように、ぽつり、ぽつりと語り出す。
「三年前にお袋が死んだんだ」
 その言葉から始まった茂さんの話は、私なりに解釈すると、こんな内容だった。

 茂さんの母親、つまり三鷹さんの妻が亡くなったのは三年前。神社の蔵の整理をしている途中、運悪く倒れた木箱の下敷きになってしまったそうだ。つまり私と先生は、知らず知らずのうちに死亡現場へ足を踏み入れていたことになる。
 現場状況も検死結果も、どちらを見ても完全な事故死。けれど、そうは思わなかった人物が一人いた。――三鷹さんだ。
 茂さんいわく、三鷹さんがおかしくなったのはそれかららしい。息子には微妙な変化がわかったのだろう。もともと真面目な神主だったけれど、それまで以上に仕事熱心になり、一時は狂ったように朱鳥様について調べ回っていたそうだ。
 おそらく三鷹さんはその時、朱鳥様への生贄について書かれた文献を読んだのだろう。そして朱鳥様の怒りを鎮めるため、それを実行した。妻の死と朱鳥様の怒りに、どんな関係を見出したのかはわからない。けれどそれを理由に、三鷹さんが二つの命を奪ったことだけは事実だ。
 一昨年、去年と連続して子供が行方不明になる事件が起き、これも息子の勘というやつだろう。茂さんは真っ先に父親の仕業だと思ったらしい。茂さんは三鷹さんを問いただすのではなく、まずは証拠を見つけようとした。毎年この時期に実家へ戻り、三鷹さんの周辺を色々と調べていたそうだ。祐一くんがいなくなった時も、神社のどこかに隠しているのではないかと思い、嗅ぎ回っていたらしい。
 初めて会った時、蔵の前で怪しげに何かしていたこと。蔵で調べ物をしていた時、中の様子を窺うように覗いていたこと。茂さんの不審な行動の理由はそれだったのだ。
 茂さんは何も言わなかったけれど、本当は三鷹さんが犯人ではないという確証が欲しかったのだと思う。自分の親が犯罪者であって欲しいと願う子供がいるはずがない。けれど、明らかになった事件の真相は――

「親父は取り返しのつかない過ちを犯した。俺が謝ったところでどうにかなることではないと、わかってはいるけど……でも、俺には謝るしかできない。すまなかった」
 茂さんは再び頭を下げる。私は慌ててその肩を叩いた。
「もういいってば! 私もあの時は思いっきり殴っちゃったし、おあいこってことで、ね?」
 ようやく顔を上げた茂さんの表情には、どこか安堵の色が見えた。けれどすぐにそれを引っ込め、代わりに皮肉めいた笑みを浮かべてあごをさする。そこには薄っすらと青あざが残っていた。
「ああ、あれは効いたな」
「渾身の一撃でしたから」
 互いに睨むように相手を見つめる。いつの間にかにらめっこに発展していたようで、不覚にも先に吹き出してしまったのは私だった。けらけらとひとしきり笑ったあと、小さく息を吐いた。
「私に謝っても仕方ない。どんな理由があろうと、三鷹さんのやったことは、決して許されることではないから」
「……ああ」
 真面目な顔つきに戻り、茂さんは深く頷く。でもね、私はそう付け加えた。
「これは三鷹さんが責任を取るべきこと。あなたは堂々としてればいいんだよ。茂さんは、茂さんなんだから」
「そうだな……。でも、親父を止められなかった俺にも責任はある。それは、償わなくちゃならない」
 犯罪者の子供。
 その肩書きが周囲の目に与える影響は計り知れない。茂さんはこれから、きっと私が想像もつかないくらい苦労していくことになるだろう。
 けれど、遠くを見据える茂さんの横顔は、不思議なほど強い眼差しをしていた。そして、何も言わずに歩き出す。境内の端、階段の入り口へと向かう途中で、遠ざかる背中が告げた。
「最後に礼を言っとく。あんたがいなきゃ、親父はもう一つ罪を重ねるところだった」
 私はただ、小さくなっていく背中を眺めるだけだった。茂さんが階段を下りる頃になって、ようやく我に返る。
「芹川 碧乃! 帰る前に名前くらい覚えなさいよねー!」
 それに応えるように挙げられた右手が、境内の向こうに一瞬だけ見えた。

*  *  *

「三鷹について少し調べたんだけどな」
 庭の中へ回ってきた佐伯さんが、ボロボロになったスーツを正しながら言った。誰の仕業かは……隣でむすっと座り込んでいる先生を見れば言うまでもないだろう。
「妻だけじゃなく、子供も亡くしてるんだよ」
「子供?」
 初めて耳にする事実に、それまで不機嫌そうにしていた先生も顔を上げた。佐伯さんは頷く。
「これは息子も知らなかったことだ。三鷹 茂の七歳年上の兄貴で、奴が生まれる前、六歳の時に亡くなっている。それで、その死因なんだけどな……同じなんだよ。妻の時と、まったく」
 私と先生は同時にはっとした。
「同じって……」
「全部だよ。例の蔵の中で、倒れた木箱の下敷きになって死亡。これも事故死だ」
 佐伯さんは偶然にすぎない、と言って話を結んだ。それはもちろんそうだろう。けれど、二つの事故に関連性を感じずにはいられなかった。そして、このことが三鷹さんの起こしたことの原因の一つになっているのだろうと、そうも思った。
 同じ場所、同じ死に方。妻の死体を目にした時、息子の死を思い出さずにはいられなかっただろう。話を聞いただけでも二人の姿が重なる。もしかしたら、三鷹さんはそれを朱鳥様の怒りだと思ったのではないだろうか。お怒りになった朱鳥様が、二人を黄泉の国へ連れ去ってしまったのだと。
 そうかもしれない、と同意するのは先生。反対に佐伯さんは胡散くさそうな顔で、
「いくら神主だからって、そこまで妄信的になるのかねぇ。だいたいこの村、いるかどうかもわからない神様を信じすぎなんだよ」
「……でも私、朱鳥様っていると思うな」
「ちょっとちょっと、芹川さんまでなに洗脳されてんの」
「だってほら、三鷹さんが転がり落ちた時……」
 目の前をよぎった、赤い大きな影。三鷹さんに襲いかかったそれは、私には鳥の姿に見えた。
「二人も見ましたよね?」
 先生が頷き、佐伯さんも渋々といった様子で頷いた。
「あれ、朱鳥様だったんじゃないですか?」
「……まっ、まっさか〜! そのへん飛んでた普通の鳥だろ。たまたま赤かっただけだよ。
 おいシュウ、お前のせいで芹川さんまで変なもん信じるようになっちゃったじゃねぇかよ。助手に悪影響を与えるなっ」
「えー? 碧乃君のは僕の影響じゃないと思うけどなぁ……」
 私に哀れむような視線を向けつつ咎める佐伯さんに、先生が苦笑いで返す。その隙に、私はあるものを取りに部屋の中へ戻った。
「私、拾ったんですよ。これ」
 そう言って差し出したのは、ハンカチに包んだ『あるもの』。
 口論をやめた二人が不思議そうに見つめる中、私はしまっていたものを丁重に取り出した。それを目にした瞬間、先生も佐伯さんも、驚いたようにはっとした。たぶん、二人とも同じものを連想したに違いない。
「三鷹さんが倒れていた場所に落ちてました。これ……朱鳥様の羽根だと思いません?」
 鮮やかな赤色をした鳥の羽根。
 先生は興味深げに眺めているが、佐伯さんはそれを認めたくないのか、いかがわしそうに目を細めている。けれど、さすがに考えが揺らいで焦っているようにも見えた。そこへダメ押しの一言を浴びせる。
「私、雛守神社の御神体にもなっている朱鳥様の羽根を見たんです。それとそっくりなんですよね。色も、形も、大きさも」
「な……ッ!」
 佐伯さんが思わず言葉に詰まる。否定しようと必死だったが、悔しげに唸るだけで言い返すことはできなかった。そんな様子を見て、さっきまでのお返しとばかりに先生が勝ち誇った笑みを浮かべた。
「物的証拠があるんじゃあ、これはもう認めるしかないよなぁ。佐伯?」
 先程までとは立場が一転。反撃の言葉が見つからず、佐伯さんは駄々をこねる子供のように喚き散らした。
「俺は信じないからな! 第一その御神体だって、どっかから取ってきたなんの変哲もない鳥の羽根かもしれないだろ! 神様だとか幽霊だとか妖怪だとか、そんなもんいるわけないんだよ!」

 最後までその主張を崩さず、佐伯さんは呼び出しがかかって慌しく去っていった。先生とは性格も考え方も正反対で面白いコンビだ。佐伯さんも東京にいるそうだから、きっとまた会う機会があるだろう。
 ちなみに私は、あれは本当に朱鳥様だったと思っている。神の使いを騙った三鷹さんへ罰を与えたのだ、と。
「……そうだ! 私、先生に謝らなくちゃいけないことがあるんです」
 ふと、大事なことを思い出した。佐伯さんを見送っていた先生が驚いて振り返る。
「なに? どうしたの?」
「……これ……」
 ポケットから出した手をためらいがちに開く。こぼれないよう両手で包んだそれは、バラバラになった翡翠の数珠だった。
「できる限り集めたんですが、全部は見つからなくて……。ごめんなさい」
 先生は黙ってかつて数珠だったいくつかの珠を受け取る。じっと手のうちを眺めるその目は、怒っているようにも、悲しんでいるようにも見えた。けれど、口から出たのは思いもよらない言葉だった。
「なんだ、そんなことか」
「……へ?」
 なぜかほっとしたような笑みを浮かべている先生にきょとんとする。
「でもこれ、大切なものなんじゃ……」
「いいよこれくらい。こうなったってことは、ちゃんと役に立ったんだね」
「え? あ、はい。そりゃもう、この数珠のおかげで命拾いしたっていうか……」
「それならよかった」
 先生は嬉しそうに笑った。まるで、自分の手柄が褒められたかのように。
「こんなものはいくらだって代えが利く。でも碧乃君は、そうじゃないでしょう?」
 ……その意味を理解するまで、少々の時間を要した。
 あー……なんか今、ものすごく恥ずかしい台詞を聞いた気がする。

「だって、碧乃君はこの世に一人の存在なのだから……」

 真っ赤になった。……のは、先生だった。
「さっ、さっ、佐伯〜〜〜!!!」
 そう叫ぶやいなや、垣根を突き破らんとする勢いで佐伯さんに掴みかかる。向こう側に立つ佐伯さんは、先生に激しく揺さぶられながらも心底おかしそうに爆笑していた。
「あはっ、あはっ、お前そういうこと言う奴だっけ? はっずかしーっ! やめて腹よじれる! ひーっ」
「お前〜〜〜ッ!!」
「キザ野郎がここにいます! キザ野郎がここにいます! あっはっは!」
「なんでここにいるんだよ! さっさと帰れっ!」
 襟元を掴んでいた手が、いつの間にかバシバシと佐伯さんを叩いている。その手もやがてパーからグーに変わっていった。
「お前それはないだろう、くっくっく……あ、いた、いたた、ちょ、やめ、マジ痛い、マジで痛いってば」
 佐伯さんの目尻に浮かぶ涙も、おかしさのせいから痛みのせいに変わっていた。けれど、しばらく先生の本気の攻撃は止まらなかった。三鷹さんを殴り飛ばした時もこんな感じだったのだろうか……。

 その後、佐伯さんは先程とは比べものにならないくらいボロボロになって帰っていった。本当に立ち去ったかどうか念入りに調べたあと、先生はようやく再び縁側に腰を下ろした。手にしているのは、佐伯さんから受け取った一通の封筒。なんでも事件解決後、ご褒美として先生に渡すよう桜子さんから預かったものらしい。
「姉さんが、ご褒美……?」
 いったい何を想像したのか、とんでもないものが入っているかのように開封を渋る先生。仕方ないので私が代わりに開けてみることにした。
 糊付けされた封をはがし、中から出てきたものは――なんてことはない、一枚の手紙だった。随分達筆な文字で短い文が書かれている。
「なになに? 『柊一朗、碧乃さん、お仕事ご苦労さまでした。ここでゆっくりと疲れを癒してください。』 ……あ、何かもう一枚入ってますね」
 それは雑誌の切り抜きだった。名前と住所と電話番号と、外観を写した写真が載せられた、旅館の紹介ページの一部。
「…………」
「…………」
 思わず無言で顔を見合わせる。
「……ここに、泊まれって、こと?」
「待ってください。まだ何か書いてあります。えーと……『P.S. 碧乃さんを危ない目に遭わせていないでしょうね。何かあったら親御さんにどうお詫びするつもり? 数珠なんかより、助手の身を大切にしなさい。母より』 ……母?」
「母?」

*  *  *

 かくして話は冒頭に戻る。
 タクシーで行き着いた先の旅館では、入り口をくぐるなり女将と仲居が総出で出迎えてくれた。事態を呑み込めないまま先生が恐る恐る「高橋ですけど……」と告げると、「お待ちしておりました!」とそのまま部屋へ案内されてしまった。先生の名前ですでに予約済みだったらしい。というか……

「母さんと姉さんがグルになってたんだ……!」
 温泉から上がると、廊下のソファーで浴衣姿の先生がうなだれていた。
「まーだ気にしてるんですか? 部屋は綺麗だし、料理は美味しいし、温泉は気持ちいいし、言うことなしじゃないですか」
 まぁ、確かに数珠のことまで見越していたすみれさんには、驚きを通り越して恐れを抱いてしまうけれど。
 でもこんな宿まで取ってくれて、至れり尽くせりじゃないか。そもそもこの依頼自体、すみれさん経由で流れてきた話だし、私たちは最初からすみれさんの手のうちにいたようなものだ。今さら何を驚くことがあろう。うんうん、私もだいぶ高橋家に順応してきたぞ。
「それはそうだけど、あー……僕は一生あの人から逃れられないのか……!」
「母は偉大なりってやつです。いいお母さまじゃないですか。いつも息子のことを気にかけていて」
「…………」
 先生はふてくされたように息を吐く。すみれさん相手となると、途端に子供の表情だ。ちょっと面白い。きっと本人の言うとおり、一生すみれさんには敵わないだろう。
 不服そうな先生を引き連れて部屋に戻ると、夕食の片づけを終えた仲居さんと入れ違いになった。湯上りほかほかの私たちを見て、にっこりと一礼して去っていく。うーむ、いったいどう見られているのだろう。
「……ん? どうしました?」
 先に部屋へ入った先生が、座敷の入り口で固まっている。答えが帰ってこないので、肩越しに視線の先を追ってみると――
「わお」
 すでに布団が敷かれていた。
 このパターンは丹羽さん宅で経験したものと同じだ。ただ一つ違うのは、二組の布団が隙間なく、ぴったりとくっつけて並べられていること。
「あらやだ、……新婚旅行みたいですね」
 ボン!
 そんな音が聞こえた気がする。先生の横顔は、湯気が出るんじゃないかと思うくらい耳まで真っ赤だった。
「あれ、今頃湯あたりですか?」
 わざと意地悪く言って顔を覗き込む。先生は何も言い返せずに頭を抱えた。まったく、何度経験してもちっとも耐性のできない人だ。
「なーんて。冗談ですよ、いやですねぇ。先生ともあろうお方が、その場の勢いで一夜の過ちを犯すだなんて、そんなことあるわけないじゃないですか。ねぇ?」
「う、うう……信頼してくれるのは嬉しいけど、それはそれで男としてのプライドが……あああ……」
 わけのわからないことをぶつぶつ呟いている先生を尻目に、私は服を置くと再び部屋をあとにした。
「ほらほら、いつまでも突っ立ってないで、散歩がてら涼みに行きましょうよ」
「…………うん」
「あ、石蕗さんとなる子ちゃんにお土産買っていかないと。ここって温泉まんじゅうが有名なんですよ」
「……うん」
「そ・れ・にぃ、夜は長いんですからっ♪」
「うん。…………うん!?」

 すみれさんにしてやられて落ち込む先生も面白いけれど、やっぱりこの先生が一番面白い。今回は散々危ない目に遭わされたぶん、いつもより多めにからかってもバチは当たらないだろう。
 ……ねぇ、朱鳥様?

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≪BACK目次あとがき≫


■感想などありましたら…無記名でも構いません。お返事はレス用日記にて。
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