年の始めのパソドブレ 前編



 駅前通りの商店街には、いたるところに「初売りセール」の文字が躍り、どこへ行ってもおめでたいBGMがついてくる。
 新年あけまして二日目。まだまだお正月ムード真っただ中。
 いつもの倍以上ある人の波に流されながら、私はひとり、瀬々良木駅方面へと歩いていた。途中、華やかな晴れ着姿の女の子とすれ違い、思わず目を奪われる。着てみたいなーと思うものの、面倒くささが先立って、結局、去年もおととしも着ずじまいだった。そして今年もまた。
 やっぱりああいうふうにふだんと違う格好をすると、男性的にはどきっとするものなのだろうか……。
 馬子にも衣装、という言葉が頭をよぎり、私はため息をついた。歩みを緩め、ショーウィンドウに目をやる。赤いステンカラーコートに身を包んだ女の子が、大ぶりの紙袋を提げててくてくと歩いていた。あなたそれじゃまるで赤ずきんちゃんじゃない、などと自分で自分を辛口ファッションチェックしてみたりする。
 店頭ディスプレイで一目惚れし、衝動買いに近い勢いで購入してしまったコートだけど、やっぱりちょっと派手すぎたかもしれない。かといっていまさら着替えに戻るわけにもいかず、私はあきらめて歩みを速めた。
 あれこれ悩んだところで、あの人はひとの服装なんていちいち気にはかけないだろうし。そもそも、今までファッションについて気の利いたコメントのひとつでももらったことがあったっけ?

 商店街を一本それると、周囲はオフィスビル街にさま変わりする。とたんにひと気がなくなり、同時にお正月ムードもなりをひそめてしまった。ここだけ見ると、今日が何日なのかわからなくなってしまいそうだ。
 じつのところ、十二月三十一日と一月一日には、たいした違いなどないのかもしれない。新年あけましておめでたいあの雰囲気は、一月一日という日付が作っているのではなく、日本人をはじめとしたイベント好きな人々の手によって生み出されているのだろう。
 目立ちたがり屋ならぬ、めでたがり屋さん一同。……私を含め。
 そんなたわいもない思考をめぐらせながら、私の足は、ひときわ年季の入った雑居ビルへと向かう。休業中の喫茶・風信子の前を通り、階段を上って三階を目指す。
 ――ごとん、ばさばさばさ。
 なにか硬いものに次いで大量の紙束が落下したような音が聞こえたのは、二階に入居しているテナントの前を通ったときだった。ドアには「高橋探偵事務所」と書かれている。その下には張り紙があり、「御用の方は三階までお越し下さい」。一応は年中無休なのである。
 少し考え、ためしにノブをひねってみると、
「……あれ、開いた」
 予想に反してドアが内側へと開き、私は拍子抜けした声を出してしまった。こんな張り紙してあるから、自宅のほうにいると思ったんだけど。
 書斎にでもこもっているのだろうか。そう思い、事務所に入ろうとしたときだった。
 ぶわっ、と、なにかが横を通り抜けていった。……駆け抜けていった? たぶん、風だ。妙に質量のある風だったけど。ついでに黒っぽい影らしきものが見えたような気もしたけど。
 私は首をかしげながら事務所内を見回した。春一番にはいくらなんでも早すぎる。だいいち、窓は全部閉まっているし。デスク周辺の床には書類が散らばっていたけれど、あれは単に不安定に積んであったものが崩れただけだろう。それからこれは、あまりあてにはならないけれど……今のところ、なんの気配も感じない。
 ま、気のせいってことにしておこう。
 ひとまず私はそう納得すると、書類を拾い集めて事務所をあとにした。書斎にあるじの姿はなかったので、やはり三階の自宅にいるのだろう。事務所の鍵を開けっぱなしにして、新年早々、無用心にもほどがある。おまけにおととい大掃除したばかりの書斎は、さながら台風上陸後のありさまで、今年の初叱りは早くもこれで決定だ。
 よし。気合を入れ、荷物を持ちなおし、私は三階へと向かった。

「あけましておめでとうございます」
 出迎えてくれた人物は、ドアを開けた姿勢のまま固まっていた。別に深夜に訪れて「こんにちは」と言ったわけでもないのに、なんだろう、この反応は。
「おめでたくないんですか?」
 眉を寄せて少しだけにらむと、その人物はようやくわれに返ったようだった。
「おめでたい、けど……どうしたの?」
「どうもしませんよ? それともどうかしてるように見えるんですか?」
「や、突然たずねてくるからちょっとびっくりした。あけましておめでとうございます、碧乃君」
 驚きの表情をいつものへらりとした笑みに変え、先生は改まってお辞儀をした。
 うむうむ、最初からそうしていればよいのだ、と私は若干尊大な態度で手土産を渡す。見た目以上に重量のある紙袋を受け取り、先生は中を覗き込む。たぶん、風呂敷に包まれた四角い箱が見えるだろう。
「あ、いいにおいがする」
「どーせ先生のことだから、家政夫がいないとまともに食事もできないだろうと思って。正月から三食カップラーメンなんて、助手としてあまりに恥ずかしいですからね」
 昨日の食生活をみごとに当てられたらしく、先生はぎくりと顔を引きつらせた。
「……どうしてそれを」
「忘れたんですか? 私はちょ〜〜〜優秀な探偵助手です。そんなことぐらいお見通しですよ。……なーんて。種明かしすると、昨日石蕗さんからメールをもらったんです」
 お正月は実家に帰るので、暇があったら所長が飢え死にしていないか様子を見に行ってください。
 との内容が、この三割り増し丁寧な文面で送られてきたのだった。先生は納得したようにうなずいている。
「ちなみに中身はおせちです。母が作ったものですけど、味は保証しますよ」
 昨日実家に帰ったときにもらってきたものだ。基本的にものぐさなくせして、料理だけは好きらしく、毎年手の込んだおせち料理を披露してくれる母みどりん。私が頼むまでもなく、これは柊一朗くんにおすそ分け、と語尾にハートをつけて渡された。あの人、妙に先生のことを気に入ってるんだよなあ……。
「ありがとう。美登利さんにもお礼を言っておいて」
「直接言ってあげたほうが、本人は喜ぶと思いますけどね」
 年甲斐もなく飛び跳ねて喜ぶみどりんの姿がありありと想像できたのだろう。先生は、はははと苦笑いを浮かべた。それからなにかに気づいたように、あ、と小さくつぶやいた。
「寒い中わざわざ来てもらって、お茶のひとつでもごちそうしたいんだけど……えーと」
 言い渋っている理由はすぐにわかった。
「じゃあ、私がごちそうさせてもらってもいいですか?」
「……うん、お願いします」
 先生は申し訳なさそうに頭を下げ、私を家の中へと促した。
 先生の言葉を補うとこうだ。「お茶をごちそうしたいんだけど、自分が淹れると茶葉を散乱させカップを割り、おまけにお湯を派手にこぼしてやけどするのがオチなので、とてもおもてなしできそうにありません」

 三階の自宅へ上がらせてもらった回数は、まだ両手に収まる範囲だろう。世帯主は先生だけれど、ここから先は石蕗さんのエリアになる。だから、下の書斎とは比べものにならないくらい、どこもかしこも掃除と整頓が行き届いている。(ただし先生の寝室は除く)
 とりわけキッチンとダイニングなんて、まるでモデルルーム同然だ。ごらんください、シンクが鏡のよう!
「だって石蕗、僕に冷蔵庫を開けることすらさせてくれないんだよ?」
 先生は不満げにこぼすが、石蕗さんの行為には同意せざるを得ない。きっと牛乳パックでも取り出されたら最後、床はおろか冷蔵庫の中にまで液体をぶちまけられ、あわてて雑巾を取りに行こうとした瞬間、コントよろしくつるーんと滑り、ドアポケットから生卵爆弾が投下されるに違いない。そして石蕗さんは、床に転がる牛乳&卵まみれの人物を見下ろし、こう言い放つのだ。
「…所長、ミルクセーキは床で作るものではありません」
「……石蕗なら言いかねないけど……。もう、ひどいな碧乃君。いくらなんでも、僕はそこまでまぬけな人間じゃないよ」
 石蕗さんの声真似をしてみせた私に、先生は異議を唱える。
 いや、むしろそれ以上の失態をやらかしそうな気さえするのですが。
「ともかく、先生はそこに座って、おとなしくおせちでも眺めててください!」
 びしりと告げると、先生はしゅんとこうべを垂れてダイニングチェアに腰掛けた。
 なんだかダメ犬をしつけているような気分だ。……ダメ犬っていうか、ヘタレ犬っていうか。ああほら、重箱を開いたとたん目を輝かせているし。エビ食べてもいいかって? だめです!
 さて、私は茶筒を見つけ、やかんに火をかける。やっぱりおせちには緑茶でしょう。それからお湯が沸騰するまでのあいだに、急須と湯のみを捜索するのだけど、そこは石蕗さんのエリア。食器や調理器具のひとつひとつが、それぞれのあるべき場所にしまわれている。鍋やフライパンは大きさ順に並べられ、カップとソーサーはセットで食器棚に。間違っても吊り戸棚にばかでかい中華鍋がしまわれいる、なんてことはない。
「――そのコート」
「わあッ!!」
 突然、耳元で話しかけられ、私は思わず跳び上がった。振り向くと思いのほか至近距離に先生が立っていて、またしても声を上げそうになる。
「もう、そんな幽霊に出くわしたみたいな悲鳴上げないでよ」
「幽霊だったら喜びの悲鳴を上げてますよ! なんですか先生、いきなり背後に立たないでください」
 これが超A級スナイパー相手だったら、問答無用でぶっ飛ばされているところだ。そうでなくてもここはキッチン。家事能力ゼロ男にしてみれば、周囲は地雷だらけに等しい。本はいくら落としても、表紙がゆがんで傷がつく程度だが、食器は落として割れたらもとには戻らないのである。
「はいはいはいはい、お座り! 待て!」
「……なにそれ。僕、犬?」
「いいからとにかく先生は座っててください! 聞き分けのない子はおあずけですよ!」
「ええー……」
 まるっきりの犬扱いに、先生は不服そうに「もう」とつぶやく。
「僕はただ、そのコート初めて見るなー、と思っただけなのに」
「あっ、しまった、洗濯物出しっぱなしだったかも!」
 早く取り込まないと、今に大雪になるかもしれない。
「そんなにめずらしい発言した!? 僕! 今!?」
「だって、今まで私の服装についてなにか言ってくれたことなんて、一回もなかったじゃないですか」
 その点、石蕗さんは乙女心をわかっている。
 奮発して買ったワンピースで決めたときには、「…今日はいつも以上におしゃれですね」とお褒めのお言葉。趣向を変えてパンツスタイルに挑戦してみたときには、「…今日はいつもと雰囲気が違いますね」とさりげない一言。美容院に行った次の日も、真っ先に気づいてくれるのはいつも石蕗さんだ。一週間後くらいになって、「あれ、碧乃君、前髪短くなった?」などとのたまうどこかの誰かさんに、爪の垢をたらふく煎じて飲ませてやりたい。
「石蕗を引き合いに出さないでよもう……。あれは僕とは別人種なんだから。それに、そういう発言はへたするとセクハラ扱いされるご時勢ですよ?」
「それはまあ、発言者によりますけどね」
「仮に僕が言ったとしたら?」
 ……少し考え込む、までもなかった。
「明日の天気を気にします」
 ほらね、もう、とうなだれる先生。
 別に嬉しくないわけじゃないんだけどね。……言ってあげないけど。
 でも言われて気がついた。キッチンには暖房が効いていなかったせいか、室内でも違和感なくコートを着たまま作業をしてしまっていた。そろそろお湯も沸く頃だし、いい加減脱ぐことにしよう。
 そう思い、ボタンに手をかけたのだが――思いがけず引き止められる。
「もう脱いじゃうの?」
 背後から伸びてきた腕に、右手をつかまれた。ひとつめのボタンを外しかけたところで、それ以上動けなくなってしまう。
「なっ、なんですか先生。そりゃ脱ぎますよ、室内ですから」
 そうだろう、それがマナーってものだろう。でも、なんだろう。なんていうか、その……近い! 近いです先生! なんでそんなに背後に接近してるんですか!?
「でも、もうちょっと着ててもいいと思うんだ。その赤いコート、もう本当に似合ってるし」
「あっ、ありがとうございます。わかりましたから、その、とりあえず、手、離してもらえませんか?」
「もうなんて言えばいいのかな。猛烈にかわいくて、もういても立ってもいられなくなって」
 などとわけのわからない言葉を発しながら、先生は背後に接近どころか密着してきたではないですか……!
 ちょ、息が! 息が首筋にかかっ
「うひゃあッ!!」
 これはええとどういう状況なのでしょう。私が前にいて先生が後ろにいてふたりとも同じ方向を向いていて、密着っていうかゼロ距離っていうか、先生の両腕が私の体の前に回されていて……!
 ようするに、後ろから抱きすくめられていた。
「せせせせ先生!? あのあのあのあのくる、苦しいので、はな、放していただけないでしょうか!」
「このコート、起毛? 毛布みたいに柔らかいね。この鮮やかな赤色、網膜に焼きつけておかなかきゃ」
 ああだめだ、全然会話になってない。意識が朦朧としてきた。もうわけわかんない。もう……モウ?
「せっ、先生? なんかさっきから、やたらとモウモウ言ってません?」
「え? モーやだなあ、全然そんなこと言ってないよ。モーし訳ないけど、碧乃君のモー想だとおモーよ」
「いやいやいや! 明らかに不自然ですから!」
「モーどうしちゃったの碧乃君。モーーーー毒にやられたの? モーーーーツァルトでも聴いて落ち着こうか。それともショッピングモーーーールに買い物でも行く?」
「どうしちゃったのは先生ですよ! 変です! 変です変です! ――きゃあッ!」
 がしゃん、と調味料棚からいくつもの瓶が散らばり落ちた。ふたを開けたままだった茶筒が床に転がり、こぼれた茶葉が一面に広がる。同時に、視界がぐるりと回転した。背中と後頭部に衝撃が走り、次に目を開いたとき、そこには白い天井があった。けれど、すぐに黒い影が視界をさえぎる。
 ……今、私はかつてないほど危険な状態にあった。人形の霊に絞め殺されそうになったときや、親友にカッターを突きつけられたときや、電波神主に拉致監禁されたときの比ではない。……ある意味では。しいていうなら、ストーカー男に襲われかけたときが、一番近い状況だったかもしれない。
 ただ、どう言えばいいのだろう。そのときとは配役が逆転していて。あのとき私を助けてくれた人物は、今、私に覆いかぶさっていた。なんていうか、マウントポジションをとられていた。
「せ、先生……息が、荒いです。おち、落ち着きましょう」
 まともに正面を向けず、視線が泳ぐ。仰向けに押し倒されたまま、身動きがとれない。ヘタレヘタレと言いつつも、男女の絶対的な腕力差だけは存在しているのだ。成人男性に腕ずくでこられたら、私なんて敵いっこない。
 ならば言葉で、と説得を試みるものの、先生は鼻息を荒げてモーモー言うばかりでまるで会話にならない。私に馬乗りになったその人物は、もはや私の知る高橋 柊一朗ではなく、獰モーーーーな獣と化していた。そのうち私は抵抗をあきらめ、同時に、なにかいろいろと大切なものをあきらめたような気がした。
 昼下がりに台所でとか……それなんてだんちづまのじょうじ。
 なにかの始まりを告げるように、それともすべての終わりを知らせるかのように、コンロの上でやかんがけたたましい叫びを上げた。

 モーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!

 沸騰音と呼応するように、地響きにも似た低いううなり声が空気を震わせた。同時に頭上で炸裂音がし、私は反射的に目をつぶる。大地震かと錯覚するほど、あたりからはなにかが落下しては砕ける音が連続する。その中に混じって、水をまくような湿った音が聞こえた。
「熱ッ! ――重ッ!」
 指先に高温の液体が触れたと思った瞬間、今度はどさりと重量のあるものが覆いかぶさってきた。目を開けて状況を把握しようとするものの、硬いけれど微妙に柔らかいものに顔面を押しつぶされていて、呼吸をすることすらままならない。
 ――く……るし……ッ!!
 声にならない悲鳴を漏らす。もうだめだと思ったそのとき、ふいに体が軽くなった。重石から解放され、視界が開ける。
「…大丈夫ですか」
 聞き覚えのある低い声に導かれるように目を開くと、そこにはよく見知った無表情があった。
「……石蕗、さん……?」
「…あけましておめでとうございます」
 こちらを見下ろす黒髪の青年は、切れ長の瞳でクールにそう言いきった。つられて私も新年の挨拶をしそうになるが――
「いや今はそういう状況じゃないでしょう!」
 二〇〇九年、今年も碧乃さんのツッコミは冴え渡っていた。
 私は石蕗さんの手を借りて身を起こし(何も言わずともレディに手を差し伸べる紳士ぶり)、改めてあたりを見回した。そして思わず顔をゆがめてしまう。
 きれいに並べられた鍋やフライパンは、ひとつ残らず床に落下し、半開きになった食器棚からは、いくつもの皿やカップが飛び出してこなごなに砕け散っていた。先ほどまでそこにあったモデルルーム同然のキッチンがうそのよう。まさに大地震が来たあとのように、目も当てられない惨状が広がっていた。
 そして私の足元には。
 やかんからこぼれたお湯にひたるように、人の形をした粗大ごみがひとつ。
「……うぅ、ん……」
 粗大ごみが小さくうめき、身じろいだ。ややあってゆっくりとまぶたを開き、冬眠から目覚めた熊のようにのそのそと体を起こす。それから寝ぼけまなこで首を左右にめぐらせ、最後に視線を上げた。
 目が合った瞬間、私はとっさに身構える。見た目はよく知る人物だが、中身はまだあのモーーーー獣のままかもしれない。
「……あれ……碧乃君……と、石蕗……?」
 まるっきり寝起きの声。
 床に座り込んでいるその人物は、粗大ごみでもなければ、どうやら発情期のケモノでもないようだった。そんないまいち状況を理解しきれていない様子の人物に、石蕗さんは、見下ろす、というよりもむしろ見下す、といったほうが正しいクールを通り越して氷点下の視線を向けてこう言った。
「…所長、緑茶は床で淹れるものではありません」
「…………」
「…………」
 デジャヴ。
 確かに床に散らばった茶葉の上に、ちょうどいい具合にやかんのお湯がかかっているけどさ!
 しばし無言のときが流れる。やがて場の空気の重さに耐えかねたように、ええと、と先生が額を押さえて考え込む。どうやらここにいたるまでの経緯を思い返そうとしているらしい。
「碧乃君がおせちを持ってきてくれて、家の中に上がってもらって……。確か、碧乃君がお茶を淹れてくれるのを待ってたはずなんだけど……あれ? それからどうしたんだっけ……?」
「…突然、極度の興奮状態に陥り、芹川さんに抱きついたんです」
 淡々と述べる石蕗さん。
「ええ!? うそ言わないでよ石蕗!」
「…事実です。とはいえ、原因の大半はあれにあったのでしょうけれど」
「……あれ?」
 すっと石蕗さんが右手を持ち上げる。その細く長い人差し指が示す先を、私と先生の視線が追った。
 そこは、ダイニングと繋がるリビング。フローリングに絨毯が敷かれた広々とした空間には、ソファー、テーブル、テレビ、観葉植物に混ざり、黒い影がたたずんでいた。
 …………?
「「――なにあれ!?」」
 ふたつの叫びがユニゾンする。参加しなかった残る一名が、端的に回答を返した。
「…牛、ですね」
 うし。
 牛。
 言われてみればなるほど、その黒い影は大型犬ほどでだいぶ小ぶりではあるものの、どっしりとした胴をやや短めの四肢で支え、頭には立派な角もあり、まさしく牛の姿をなしている。ただその毛並みは、「牛」と聞いて大半の人が想像するであろう白黒ではなく、艶やかなほど黒々としたものだった。そして二本の角は前方に鋭く伸び、どちらかというとクワガタっぽくもあった。
 毛筆のようにふさふさとしたしっぽを揺らし、前足でしきりに床を掻くミニチュア牛。鼻息を荒げ、あごを引いて角を突き出すその姿は、四分の一スケールながら迫力がある。張りつめた緊張感を全身にまとった威容は、人間でいうところのクラウチング・スタートを彷彿させ――
 そのとき、漆黒の双眸に射抜かれた気がした。
 スタート合図はピストルではなく、地の底から湧き上がるようなあの咆哮だった。
「――碧乃君!!」
 私の悲鳴は、先生の呼び声によってかき消された。腕を強く引かれ、抱き寄せられる。先ほどまで別人と化していたときのそれとは違い、純粋な防衛行為だった。
 目の前すれすれを、黒い影が猛スピードで駆け抜ける。それを知覚したときにはもう、食器棚が爆発していた。そうとしか言いようのない衝撃と轟音が間近で起こった。事実、木製の食器棚はひしゃげて崩壊し、ガラス戸は一枚残らず割れて砕けてしまっていた。棚に並べられた食器の中で原形を保っているものは、おそらくひとつもないだろう。
「大丈夫!?」
「だ……だいじょうぶ、です。……今のところは」
 先生の問いかけにかろうじて答えられたものの、私の体は硬直したまま、その“破壊者”から目をそらすことができなかった。
 黒い牛は、異様なオーラを揺らぎ立たせ、エンジンを吹かすように前足で床を掻く動作を繰り返す。あの大きな棚に激突したことなど物ともしていないかのように。体格は本物よりも相当小さいはずなのに、その迫力に押しつぶされそうになる。
 あの気配は殺気だ。あの眼は獲物を狩る眼だ。視線の先には、標的がいる。
「…………なんか私、狙われてません?」
 背中を、冷たい汗が伝い落ちていった。
 その刹那、黒い牛がYESの代わりにうなり声を上げて床を蹴った。角を突き出し、たけり立ちながら一直線でこちらへ向かってくる。
「なんで私ばっかり!」
 理不尽さを嘆きながらも、すんでのところで飛びのいてかわす。黒い牛はキッチンカウンターに衝突し、戸棚に大穴を開けてもすぐさま体を翻して狙いを定めた。対する私は、勢いよくフローリングにダイビングしてしまったせいで、すぐに起き上がることができない。
 視界の端に、なにかを探している様子の先生が映る。
「…コートです」
 その声は背後から聞こえた。
「…芹川さんの着ている、その赤いコートに反応しているんです」
 振り返ると、シンクのそばに身をかがめた石蕗さんがいた。こんなときでもその無表情は寸分も崩れず、呼びかける言葉に感嘆符のひとつも付かない。
 だからこそ、その冷静な判断はいつも正しいのであって。
 私はあわててコートのボタンに手をかけた。もはやひとつひとつはずすことすらもどかしく、ええいままよと力任せに引きちぎる。ブツブツン、と糸が断ち切れる音。すでに黒い牛は土煙を巻き上げる勢いで突進してきている。今から避けようとしても間に合わない。これに賭けるしかない。
 私は脱ぎ払ったコートを力いっぱい放り投げた。
 とはいえ、しょせんは重量のない布切れ。飛距離は伸びず、一メートルほど離れた場所にぱさりと着地する。
 しかし、それでも効果はじゅうぶんだった。赤いコートが宙を舞った瞬間、黒い牛は目の色を変え、照準をすぐさま移し変えた。後ろ足でブレーキを効かせ、華麗なコーナリングでコートにスライディングを決める。
 勢いあまってそのまま壁に激突する牛。それでもなお、親の仇と言わんばかりにコート相手に乱闘を始める。角で突き、足で踏みつけ、おニューのステンカラーコートは見る間にぼろ雑巾へと変貌を遂げていった。
 コートが何をしたっていうの……。命の危機が去った安堵感と、目の前でお気に入りのコートを台無しにされる絶望感とで、私はその場にへたり込んだ。
 倒壊した食器棚のそばでは、いまだに先生がなにか探し物をしている。そしてようやく目的のものを見つけたのか、床に散らばる陶器やガラスの破片の中から、銀色に光る棒状のものを掴み取った。それがなんなのか認識する前に、
「…所長」
 背後でふたたび抑揚のない声が投げかけられた。先生が顔を上げ、私もつられるように振り返ると、なぜか石蕗さんは立てひざの姿勢で床下収納庫の扉を開いていた。そこからすばやく一升瓶を取り出し、手首のスナップで先生へスローイング。透明なガラス瓶は緩やかな放物線を描いてカウンターを通り越し、吸い込まれるように先生の手元へと収まった。
 飛翔する一升瓶が目の前を通過したとき、私はそのラベルに書いてある文字を見逃さなかった。
『しらへび』
 筆墨で豪快に書かれたその四文字。それはまさしく、ふしみーグッズのひとつ、わが九重区の地酒である。
 受け取った先生は、何を思ったかそのボトルを床に叩きつけた。当然のことながら割れる一升瓶。その音にすぐさま反応して動きを止める黒い牛。ガラスの割れる音が気に障ったのだろうか、ギロリ、と効果音がつきそうな視線で音の出どころをにらみつけた。そして黒い牛は怒声を上げ、今度は先生目掛けて走り出す。
「せんせ……ッ!!」
 思わず声を上げてしまう。けれど当の本人は、妙に落ち着き払った様子で牛と対峙する。先生の右手に握られたものが、きらりと光を反射した。
 それは、ナイフだった。ただし、ダイバーズナイフでもなければサバイバルナイフでもない。台所にあるんだからキッチンナイフだろうと思ったけれどそうでもない。――食卓用ナイフだった。ステーキとかを食べるときに使う、フォークとセットのあれである。あまり一般家庭では出番のないあれだ。
 なぜ今それを、と問いかける間はなかった。すべてが一瞬のできごとだった。
 猛スピードで突撃してくる黒い牛。それを限界まで引きつけ、ぎりぎりのところでかわす先生。同時に手の内のナイフを構え、ためらうことなく牛の眉間に突き立てた。
 空気を引き裂くような断末魔が上がる。それが途切れると同時に、どうっと、黒い牛が床に倒れ込んだ。
 先ほどまでの狂乱がうそのような、あまりにもあっけない幕切れ。横倒しになった牛は、ぴくりとも動かず、無機質な影へと戻る。やがて黒い影はウンカの群れが飛散するがごとく、散り散りになって宙へと消えた。
 ――カラン、と乾いた音を立て、支えを失ったナイフが重力のまま床へと転がった。銀色の刃は、牛の血、ではなく、透明な液体で濡れている。さっき割った酒瓶の中身だろうか?
「碧乃君? 平気?」
 はっと顔を上げると、そこには腰をかがめてこちらを見下ろす先生の姿があった。
「はい……私は、なんとも」
「そっか、よかった。……こっちはあんまりよくないけど」
 先生は苦笑しながらあたりに目をやる。そこにはモーーーー威の傷跡が生々しく残っていた。
 確かつい先ほどまで、ここは新築と見まごう光あふれるキッチンだったはずだ。それが今はどうだろう。棚から食器から果ては壁まで、破壊の限りを尽くされている。新築どころか廃墟の様相。先生ではないけれど、これにはもう笑うしかなかった。
「……まあいいか、誰も怪我はしなかったし」
 ポジティブシンキングで現実を受け入れる先生。それから右手を差し出し、
「立てる?」
 ……石蕗さんのときとは違い、素直にその手を取れなかったのは、あの蛮行を思い出したからだ。
 妙に警戒している私に、先生は首をかしげる。私は助けを請うように、先生の背後に立つ黒尽くめの人物に視線を投げた。すると石蕗さんは、問題ありません、と言うように小さく目を伏せた。私はようやく安心して先生の手を借り、立ち上がった。
「――それで結局、あの黒い牛が先生に憑いてた、ってこと……ですよね?」
「…そういうことになります」
「え!? 僕が!?」
 私の言葉に石蕗さんがうなずき、先生が心底心外そうに否定の言葉を並べた。仮にも四番の依頼をいくつも解決してきた身である自分が、逆に取り憑かれてしまうなど失態きわまりなかったのだろう。だがまぎれもない真実である。なにせ、ほかの誰でもない石蕗さんが証言しているのだから。
「先生、後ろ」
「へ? ……うわ! なにこれいつの間に!?」
 私に指摘されて、初めて自分の背中に貼りついているものに気づいたらしい。先生はあわてて体をひねり、後ろ手にそれをひっぺがした。“それ”とは、白い短冊型のお札である。
「…所長が芹川さんに襲い掛かっているときに貼らせていただきました」
 石蕗さんが答えると、先生はゴフッとむせ込んだ。護符だけに。
「誤解を招くような言い方するなよ石蕗!」
「…事実です。それとももっと具体的に説明して差し上げましょうか」
 そういえば石蕗さん、先生が私に抱きついていたことも知っていた。
「……石蕗さん? あの、どこからどこまで見てたんですか……?」
 おそるおそるたずねた私を石蕗さんが見る。
 見る。
 見る。
 無言で見る。
 そして、
「…所長。私がいないあいだに、なにか預かったものがありませんか」
 話をすり替えられた。

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